母子登園卒業へあと一歩 - 息子の緘黙・幼児期3~4歳(その5) 

 

いつまで続くのかと不安だった母子登園でしたが、4週間を過ぎた頃からずっと傍にいなくても大丈夫になってきました。初めは「マミーは○○に行くからね。すぐ戻ってくるよ」と告げると、目で私の姿を追っていたのですが、徐々に慣れてきてひとりで落ち着いて遊べるように。朝一緒に教室に入って短時間付き添えば、あとは終わりまでOKという感じ。

もうひとりのママさんも同じようなペースで進行していて、一緒にペアレントルームでの待機に成功。「もうそろそろ付き添いも卒業だね」と安堵の笑顔を交わしたのです。

ところで、それまで担任からは何の提言もありませんでした。毎日「後片付けご苦労様」とは言われるものの、子どもに関する話はなし。今だったら解るんですが、こちらでは自分から相談しないと、「この人は別に困ってないんだ」と思われてしまう傾向が強いんですね…。まだ心配なので最初の15分ほど付き添いたい旨を告げると、簡単に承諾してくれました。

11月も半ばを過ぎ、やっと一時帰宅できるようになった私。でも、園まで徒歩15分はかかるので、途中で買い物をして、洗濯などしていると、すぐお迎えの時間…。時間には厳しい園だったので、焦って迎えに行ってました。無料でありがたいけれど、2時間半の保育って短すぎ!

ある日お迎えに行くと、担任から保育士の研修中というイギリス人女性を紹介されました。聞けば、彼女は最近まで日本に住んでいて、日本語が話せるとのこと。「○○君(息子の名)はなかなかクラスに馴染めなかったけれど、この人が日本語で話してくれるから色々スムーズにできるようになったのよ」と。

それまで私は、外では英語、家庭では日本語を話していれば、自然にバイリンガルになるだろう、なんて気楽に構えてました。息子の母国語の問題とか、全く気にしてなかったのです。この頃、息子の話し言葉は日本語90%、英語10%程度でしたが、英語も聴く方は殆どできてたので、あとは自然に習得できるだろうと――なんと楽観的だったことか…。

今思えば、私から離れていきなり英語だけの環境に放り出され、かなりのストレスだったに違いありません。この頃から、家での癇癪が酷くなりつつあったのですが、成長過程でよくあることなのかな、くらいに思っていました。

幼稚園が始まる前に里帰りした際、教員だった父が「この子はイギリス人なんだから、ちゃんと英語で生活させないと…」と、日本語ばかり話している息子のことを心配していました。それを私は、「大丈夫だよ。周りが英語環境だから、英語は自然に身につくから。それより日本語をしっかりキープしないと」なんて呑気に言ってたのです…。

考えてみれば、あまりにも慎重で繊細すぎる性格の息子のこと。知らない人の前で、慣れない英語を平気で話すようになるはずもなく…。家で慣らしておけば良かったんでしょうが、主人は「英語で話して」という私のリクエストなど全くおかまいなし。日本語でないと息子との会話が成り立たないので、ずっとちょっと変な日本語で話してました。

そういえば、この頃息子を寝かしつけるのは私しかダメで、主人がやろうとすると「マミーがいい!」と泣くのです…。これではマズイと思い、毎日父子タイムを設けて、スキンシップを増やすようにしてました。しかし、お天気のいい週末にボールを持たせて2人を公園に送り出しても、少しボールを蹴って、アイスクリームを食べて、すぐ帰ってきちゃうんですよね…。

余談ですが、IT関係の仕事をしている主人はスポーツに全く興味がなく、ワールドカップもウィンブルドンも観ません。5年ほど前、会社の忘年会で当てたアーセナルの試合チケットも、息子が「寒いから行かない」というので、友人父子に譲ったという…。ということで、スポーツ少年にしたいなんていう思いは、最初から全然なかったのでした。

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息子の緘黙・幼児期3~4歳(その4)

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たまごの謎

9月に入って息子の学校が始まると同時に、秋もどんどん深まってきました。夏休み最後の週末に主人の実家に行ってきたんですが、そこでなんとも不思議なものを見ることに…。

夕飯にスパニッシュオムレツを作ろうと、卵のパックを開けた時です。6つある中のひとつに目が釘付け――なんですか、この卵?!

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表面がクレーターのようにデコボコ――まるで恐竜の卵みたい!よく見たら、もうひとつ表面がザラザラしてちょっと割れてるのも。今まで数えきれないほど卵料理を作ってきましたが、こんな卵を見たのは生まれて初めてでした。

これらはファームショップで購入した農家直売の Free range の卵です。多分、スーパーだったら規格外で棚に並ばないと思うのですが、直売だから農家の判断で普通にパック詰めしちゃったんでしょう。

それにしても、卵といえばつるんとした表面と滑らかな曲線が特徴なのに、これはあまりに違いすぎる…。森茉莉さんがエッセイ集『貧乏サヴァラン』の中で、卵の形を「《平和》という感じがする」と記述していて、その通りだなと思っていたんですが、この卵は平和というよりも不気味…。

聞くところによると、若い雌鶏の卵は少し細長かったり、いびつだったり、黄身が2つになる二黃卵になったりするんだそう。(昔、農家の庭先に「卵売ります」という看板を見つけ、そこで買った半ダースの卵が全て二黃卵でビックリ)。このデコボコ卵も新米の鶏が産んだ可能性が大きいですね。こういうのって、養鶏場ではよくあることなんでしょうか?

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この春日本で出会った細長い卵

ちなみに、イギリスでは大きく分けて3種類の鶏卵を販売。卵を産ませる環境によって、値段や品質が異なります。安い順に、狭い檻の中に大量の鶏をつめこむ Battery-farmed、次に放し飼いにする Free-range、一番高いのは放し飼いで有機栽培の餌のみ与える Organic。サルモネラ菌が怖いので、生で食べても安心なのは有機卵だけ。

それから、こちらでは茶色の卵が普通で、白い卵は殆ど見かけません。かなり前に、有名な女性料理家、ディリア・スミスがTVの料理番組で白い卵を使って一躍話題になりました。

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       知人が誤って冷凍してしまった卵を、殻を割って解凍中の写真。ちゃんと元に戻って、普通に卵焼きができました

話を戻すと、このデコボコ卵はオムレツには使わず、その後どうなったのかは不明…。でも、夕飯の時にみんなに見せたら大受け。それぞれの反応が違っていて面白かったです。

「これを産むのは苦しかったに違いない」と、義母の思いは卵を産んだ鶏の方に。私は「こういう卵から、どんなヒヨコが生まれるの?」と、そっちの方に興味が(まあ無精卵なので無理ですが…)。男性陣はというと、「見たことない!珍しいね」で終わっていました。

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ところで、中国では人造偽卵が出回っているという話…。先日、息子が教えてくれて、一緒に見た映像です。

 

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母子登園の日々 - 息子の緘黙・幼児期3~4歳(その4)

 

入園の翌日から、私ともうひとりのママの付き添い幼稚園生活が始まりました。午前中のクラス(公立幼稚園は2時間半のみ)に参加して、子どもたちと一緒に遊んだり、お世話したりする毎日。息子を遊ばせているとよってくる子が結構いるので、保育士助手みたいになっちゃうという…。

息子たちの前に入園した子どもたちは、もうママがいなくても平気らしく、始業後も残っている母親は我々だけ。「よし、息子が独立(?)するまで頑張るぞ」と腰を据えて待つことにしたものの、「いつになるかな…」と一抹の不安がありました。

めいめい好き勝手に遊んでいる40人ほどの子どもたちの面倒を見るのは、若くて可愛らしい担任と3、4人の保育士。ダウン症の子がひとりいて、1人はその子の加配のような感じでした。広い教室内には様々なコーナーがあり、園庭にも自由に出られます。保育士1人は必ず園庭で見守りをしているため、残りの先生達が各コーナーで子どもの相手をしますが、先生のいないコーナーもいっぱいあるのです。

子ども達の近くにいると、「これやって」とか「トイレ行きたい」とか頼まれることが多く、忙しい先生たちの手を煩わせないよう、訊きながら適当に対処してました。そのうちに慣れてきて、お絵描きコーナーでは、「エプロンしてきてね~」「手を洗いに行こうね」と指導しちゃったり――3、4歳児なので、みんな本当に可愛いかったです。

息子のお気に入りは、何と言ってもミニカー&電車コーナー。道路の絵が描かれたカーペットと駐車場セットでミニカーを走らせ、飽きると次は木製の電車セットの出番です。毎日線路を組み立てていたので、今でも私の得意技のひとつ。このコーナーには大抵S君がいて、息子とS君は徐々に打ち解けていきました。

おままごとコーナーには、いつも私を待っていてくれるO君が。初日に彼が作った朝ごはんを褒めて「美味しいね~」と食べる真似をしたら、それ以来毎日作ってくれるようになったのでした――嬉しい!でも、息子そっちのけで「ねえねえ、見て!見て!」とぐいぐい手を引っ張られ、ちょっと困る…。

日本でもそうなのかもしれませんが、イギリスの幼稚園(3歳~4歳)や小学校のレセプションクラス(4、5歳)では、本格的な遊具を揃えている印象です。おままごとコーナーには幼児の背丈に合う木製の台所セットが設置され、調理器具や台所用品の玩具も本物に近い感じ。ゴム製や木製の食品各種が山ほど用意されていて、中には握り寿司やイタリアンや中華料理の模型なども。

そうそう、息子の幼稚園には工具コーナーまであり、幼児サイズですが金槌やノコギリ、クギなど本物の工具が。担任に「ケガしたりしないんですか?」と質問したら、「取り扱い方をきちんと教えてるから、今まで事故が起こったことはない」とのことでした。ちなみに、この園では子どもにあまり切れないナイフを持たせて、野菜スープの材料を切らせたことも。子どもたちは調理実習が大好きでした。

PCテーブルでは幼児向けゲームを楽めるんですが、「えっ、こんな小さいのにもうパソコンゲーム?」と最初は驚きました。仮装の衣装もカラフルで種類が多く、「こんなのあるんだ~」と感心。男の子にはやっぱり、スパイダーマンとかスーパーヒーローが人気でした。でも、息子は結局一度もトライすることなく…。

毎日授業(?)の終わりには、全員がカーペットに座って絵本の読み聞かせや歌、ダンスなどをする時間がありました。最初は息子と一緒にカーペットに座っていたのですが、そのうちに慣れてひとりで座っていられるようになり、私ともうひとりのママはお片付けタイムです。一応、子どもに片付けさせるのですが、そこはまだ幼児のこと。残っている玩具を所定の場所にしまい、最後はだいたい床に落ちた砂(何故か室内に砂遊びのテーブルがおいてある)を掃き集めるのが日課でした。

息子は泣くことはありませんでしたが、私がペアレンツルームに行こうとするとついてきてしまうんです。もうひとりのママも同じだったようで、仕方なく一緒に相手をしていました。彼女がいてくれたおかげで、それほどメゲずにに母子登園を続けることができたと思います。

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決めつけないで(その2)

8月の半ばに、最近気になっている言葉”Judgement” と ”Judgemental” について書きました。今回はその続きです。

この夏、あるガーデンパーティで「それはちょっと”Judgemental” な(偏った)見解では?」と思うことがあったので、ここに記しておきたいと思います。

うちの息子には深刻な食物アレルギーがあり、食べ物には気をつけなければなりません。よそで何か食べる時は、本人が中身を確認し危なそうなものは避けています。この時はバイキング形式で、息子は確かめてから好きなものを取りました。その後、食後のコーヒータイムに主人と息子のいるテーブルで、「昔はアレルギーなんてなかったのに、どうして現代の子どもに多いのか」と話し出した人が。

その方曰く、原因は「殺菌のしすぎ。子どもを守りすぎ」とのこと。「哺乳瓶を煮沸消毒するなんて馬鹿げている」、「99%バクテリアを殺す殺菌剤なんて必要ない」と主張していました。

確かにそれはあると思います。新聞などでもよく目にするので、もう通説になっているかもしれません。でも、それはあくまで原因のひとつであって、他にも遺伝的な傾向とか、農薬や化学物質の使い過ぎとか、予防注射が免疫に与える影響とか、様々なものが複雑に組み合わさっていると思うのです…。

主人はというと、その人の意見に100% 賛同していました。主人の主義で、うちでは殺菌剤は使わないし、床に落ちたおもちゃを息子が舐めても「抵抗力がつく」と気にしないようにしてました。殆ど母乳だったので、哺乳瓶もあまり使ってません。それでも、息子はアレルギーになってしまいました(涙)。

ちなみに、うちの子がアレルギーになったのは3歳半を過ぎてからで、それまではアレルギー源となる食物も少しは食べさせてたんですよね…。突然反応するようになったので、許容量を超えて免疫反応が出始めたんじゃないかなと思っています。

実は、私の母が酷い花粉アレルギーで、私と兄も20歳を過ぎてから花粉アレルギーに。姪っ子2人も幼いころアトピーに苦しみました。一方、主人は敏感肌の家系で、赤ちゃんの時に日光浴をしていて酷い水膨れになり、それ以来真夏でも長袖、長ズボンを死守。うっかり日に焼けると、真っ赤になって後々すごく大変なのです。両親のそういう悪いところばかりが息子に遺伝してしまったようで、なんとも気の毒…。

「殺菌のしすぎ。子どもを守りすぎ」も一理ありますが、一般論だけでなくそれぞれの事情も考慮してもらえたらなあと思わずにいられませんでした。

もうひとつ、同じパーティーでの出来事。5か月の赤ちゃんを連れてきたカップルがいて、ランチタイム中はお昼寝をさせてました。目がパッチリ大きくて、髪が耳の後ろでくるんとカールしている可愛い男の子!彼がお昼寝から目覚め、みんなのところに連れてこられた時のことです。

女性陣の注目が赤ちゃんに集中し、代わりばんこに抱っこ大会に。私はママの隣に座っていたので、一番最初に抱かせてもらったんです。知らない家で知らない人達に囲まれているのに、彼はご機嫌でニコニコ。思わず、「まあ、寝起きなのに全く泣かないでエライね~!うちの子だったら大泣きだったよ」と漏らしてしまいました。(息子よゴメン、聞こえたかな…)。

すると、「社交的になるように、色々な集まりに連れて行ってるの。だから知らない人に慣れてるんだと思うわ」とママ。彼女は産休がもう残り少なく、赤ちゃんを預かってくれる託児所を探し回ってる最中とか。それもあって、赤ちゃんが人馴れするようにしてるんだなと思いました。

でも、それを聞いた別の女性が、「ひとりで子育てしてちゃダメ。小さい頃から集団の中で慣らさないから、引っ込み思案になっちゃうのよ」という主旨の意見を…。

思わず、自分の子育てを否定されたような気持ちになってしまいました… 。私としては、ママさんグループに参加したりと一生懸命子どもの社交性を育てようとしてきたつもりなのに――それでも、うちの子は未だに引っ込み思案です。

これについても、一般論はそうかもしれませんが、子どもは十人十色。HSP(Highly Sensitive Person)に生まれた子もいれば、非HSPに生まれた子もいる訳で、生まれ持った気質もかなり影響してるはず。うちの子をもっと、もっと集団の中に連れて行ってたら、積極的な性格になっていたとは思えないんです…。非HSPの人口が70%以上とマジョリティなので、どうしてもそちらの考え方が基準になってしまうんですよね。

急にアレルギー反応が出て、激しく嘔吐して、ぐったりする子どもを見たことがない人には、アレルギー源の食物を避けようとする姿勢が「大げさ」に見えるかもしれません。周りにアレルギーの人がいないと、想像したり、理解したりすることが難しいんですよね…。

残念ですが、場面緘黙も同じじゃないでしょうか?「話す」というあたりまえの行為ができないことを、「そうなんだ。大変だね」とすんなり受け入れてもらうのは結構難しいと思います。不安のために話せないと言われても、傍目にはそれほど不安そうには見えないことも多いし…。目に見える苦しい症状がある訳ではないので。

介入してもすぐに効果は出ず長期戦になることが多いし、クラス替えなどで症状が戻ってしまうこともあるし、緘黙児って傍からみると相当不思議ちゃんなのかもしれません。大人しくて授業やクラスの妨げにならないし、周囲が後回しにしがちなのも、今の学校制度を考えると仕方ない部分があるかなと…。

人間というのは、自分がその立場に立ってみないと、なかなか親身になれないものです。そのうえ、自分が話しかけてるのに反応がないと、「無視されてる」と否定的に捉えがち。だから、少しずつでも、困っていることを知ってもらうことが大切じゃないでしょうか?治療も長期戦ですが、周囲の理解を求めるのも気長に、長期戦でいきましょう。

イギリスでは10月が場面緘黙啓発期間になる予定なので、私も近くの学校にSMIRAのリーフレットを配布しようかなと思っています。

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決めつけないで

 

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プラハの夏休み(その5)

今日は8月最後の日。学校の夏休みは今週末までですが、金曜日には職員会もあるし、雨続きでもうすっかり秋の気候--今年の夏は肌寒いまま終わってしまったような…。今ではその猛暑が嘘のようなプラハの夏休みの記録は、今回でお終いです。

プラハ滞在5日目は、カレル橋の袂にある大複合建築、クレメンティナム(Klementinum) の見学から。入口がすご~く判りにくくて、やっと探り当てたら、入口のある中庭は巷の雑踏がウソのような静けさ。私たちと一緒に30分毎のツアーに参加したのは、わずか20名弱でした。

クレメンティナムの前身は11世紀に建てられた聖クレメント教会。中世にドミニコ会の修道院として使われた後、16世紀にイエズス会の神学校となり、17世紀には大学に昇格。18世紀には、オーストリア女大公マリア・テレジア(マリー・アントワネットの母君)のもと、2ヘクタールの敷地に天文塔、大学、図書館を有するヨーロッパ有数の大複合施設となったそう。

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 中庭から見た天文塔の外観(左)と鏡の礼拝堂。礼拝堂にはパイプオルガンがあり、毎晩のようにコンサートが行われているようでした

上階に行く際「エレベーターが必要な方?」というガイドの問いかけに、手を挙げた人は誰もいませんでした--が、実はひとりずつしか登れない狭い螺旋階段しかないんです!年配の方にはかなり危険!2階にはフレスコ画が美しいバロック様式の図書館があり、神学書を中心に2万冊ほどの蔵書と中世の地球儀や天文儀の貴重なコレクションが。

残念ながら入場も撮影も禁止だったんですが、画像を見つけたのでよろしかったらどうぞ。https://en.wikipedia.org/wiki/Clementinum#/media/File:Clementinum_library2.jpg

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    天文塔からの風景。塔に登る階段も1段1段が高くて、しかも下が丸見えなので、手摺につかまらないと怖い…

さて、次はモルダヴ河の西岸河にあるカフカ博物館へ。ここはミュシャ美術館と提携していて、一方の入場券を購入すると、もう一方が半額になるシステム(どちらも小規模なので、そのくらいでちょうどいい値段です)。ミュシャ美術館は前日訪れたんですが、ついでに書いておきますね。

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アールヌーボーの旗手として知られるアルフォンス・ミュシャ(1860-1939年) といえば、美麗な女性を描いた装飾的なポスターや商業デザインで有名。女優サラ・ベルナールの舞台ポスターを描いて大ブレークしましたが、実はピンチヒッターとして依頼された仕事だったとか。

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ミュシャの生涯を綴った映像を観て、祖国チェコや自分のルーツに対する愛着の深さを初めて知りました。パリやアメリカで商業的な成功をおさめた後祖国に戻り、20年かけて油彩画の連作『スラヴ叙事詩』を制作し、市庁舎の内装など精力的に行っています。チェコスロバキア共和国成立の際には、無償で紙幣や切手などのデザインを請け負ったそう。

余談ですが、パリ時代の白黒写真の中に、ミュシャのアトリエでポスト印象派の画家、ポール・ゴーギャンがオルガンを弾いているユーモラスな写真(1893-4年撮影)を発見。上着からシャツがはみ出し、ズボンも靴も履いてないんです。気のおけない間柄だったんでしょうね…ポスト印象派と後のアールヌーボーの巨匠の共同生活って、なんだか不思議な感じがしました。その5年前、ゴーギャンがアルルでゴッホと共同生活した際は、ゴッホの壮絶な耳切り事件が起きてしまったんですよね…ゴッホは全く売れない画家のまま1890年に死没。現在のゴッホへの評価を思うと、やるせない気持ちになります。

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話を元に戻して。カフカ博物館へはカレル橋の雑踏を避けてその北側にある橋を渡って行きましたが、とにかく暑い!でも、館内では外の光を遮断し、展示は全て薄暗がりの中。

プラハの裕福なユダヤ人家庭に生まれたカフカ(1883-1924年)は、少数派だった支配階級の言語、ドイツ語で教育を受けました。そのため、ドイツ文化にもユダヤ文化にも馴染めず、文学や芸術を解さない父親との軋轢もあり、自らを異端と感じていたそう。プラハ大学で法律を学んだ後、保険局員として働きながら執筆活動に励みましたが、無理がたたって肺結核にかかり41歳になる前に短い生涯を閉じています。

ここでカフカがものすごい心配症だったことを知り、彼もHSP(Highly Sensitive Person) だったんだ~と、とっても親近感を覚えました。人前ではいたって物静かで目立たず、聞き役に回っていたとか。カフカが安全ヘルメットの発明者だって知ってました?! 仕事で諸企業の生涯危険度の査定・分類、これに対する訴訟の処理を担当していたため、出張や工場視察が多かったらしいのですが、万一のことを考えて常に軍用ヘルメットを被っていたんだそう。事故防止のマニュアル作成の実績もあるのです。心配症で神経細やかで几帳面でもあったのかな?

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とっても立派なギフトショップ。ミュシャアイテムも揃ってました

カフカが深く関わった女性は4人いたようですが、最初に婚約したフェリーツェとは、結婚したら執筆活動ができなくなるかもという不安が募り、婚約を破棄…。この女性にはめちゃくちゃ酷ですが、ああそういう面倒な性格だったんだと、何となく納得してしまいました。(フェリーツェとは再婚約したのですが、その時は肺結核に侵されていることが発覚して、再び婚約破棄--うわ~2回も辛酸を舐めたんですね…)。

カフカといえば、学生時代に『変身』を読んで鮮烈な印象を受けた記憶があるものの、その後ずーっとその存在を忘れてました。村上春樹の『海辺のカフカ』を読んで、彼のことを思い出した方も多かったのでは?主人公の少年はカラスと呼ばれてるんですが、カフカはチェコ語で「子ガラス」という意味。ちなみに、カフカの著作『田舎の婚礼準備』では、主人公ラバン(Raban)がドイツ語の「カラス(Rabe)」を思わせる名前です。

” ある朝、グレゴール・ザムザが、落ち着かない夢から目ざめてみると、彼は自分がベッドのなかで、大きな毒虫に変わっているのに気がついた。(『カフカ:変身 世界の文学セレクション36』辻ひかる訳)”

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展示されていたカフカ自筆のイラスト。独特の味がありますね。

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カフカの小説は不条理で非現実的な世界で知られていますが、その作風から”カフカエスク” (Kafkaesque「カフカ風」「カフカ的」)という言葉が生まれています。カフカの出生地であることを意識してか、小綺麗なプラハの街を歩いていると、カフカエスクな彫刻やオブジェとの「あれっ」という出会いが…。

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最後の大道芸人さんは別ですが、予期してないところにこういう不思議な光景が見られます

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  最後の夜は、モルダヴ河で足漕ぎボートに乗って夕涼み。むっとした暑さが嘘のように河辺の涼風が心地よかったです

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9時を過ぎると、ボートにカンテラを灯してくれます

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ボートを降りた後に遭遇したこのオブジェも、相当不思議な光景でした

あれっ、書いてる内に日付が変わって9月に突入してしまいました。最後までお付き合い下さった方、長いことありがとうございます。

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プラハの夏休み

プラハの夏休み(その2)

プラハの夏休み(その3)

プラハの夏休み(その4)

 

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プラハの夏休み(その4)

ホリデー4日目は、半日ツアーでプラハの東40kmほどのところにあるクトナ-・ホラ(Kutná Hora)という町へ。ホテルにあったリーフレットの骸骨堂の写真を見て「面白そう」と決めたんですが、行った後に納骨堂を含めた町全体が世界文化遺産 (UNESCO)に登録されてることを発見。我が家の旅行は行き当たりばったりで(事前にちょこっと調べるのは私のみ)、後々になって色々な事実を知ることになるのです。

ミニバスだろうと思っていたら、やってきたのは冷房完備の立派なコーチ!英語とスペイン語のガイド2名と、世界各国から来た30名あまりの参加者と一緒に出発。「チェコのカントリーサイドが見られる」と楽しみにしてたのに、冷房が心地よくて知らないうちに爆睡していました(笑)。

クトナ-・ホラは13世紀頃から中欧最大の銀鉱の町として栄え、14世紀にはボヘミア王国の銀貨製造を担う経済の中心地に。14~16世紀初頭までは首都プラハと肩を並べるほど繁栄し、町は地方から独立して壮大な聖バーバラ大聖堂の建築に着手しました。が、17世紀に戦争や宗教的な争い、銀鉱の閉鎖などにより衰退の一途をたどったとか。

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まず最初に、郊外にあるセドレク区墓地の納骨堂 (Kostnice v Sedlci) に到着。足を踏み入れた途端、どこを見ても骨ばかり。骨を積み上げたピラミッドが4つもあり、想定4~7万人の骨が納められているとか。他にも、シャンデリアや紋章など、見事というしかない精巧な骨装飾がいっぱい。

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何故こんなに大量の人骨が収められているかというと、その起源は1278年に遡るそう。ボヘミア国王の命を受けて聖地エルサレムに赴いたセドレク修道院長が、ゴルゴタ(キリストが十字架にかけられたとされる地)の土を持ち帰り、復活の象徴として墓地に撒いたのがその始まり。噂はどんどん広まり、中欧中の人たちがこの墓地に埋葬されることを願うようになったとか。加えて、14世紀半ばには黒死病の犠牲者が、15世紀初めにはフス戦争の戦死者が多数葬られ、墓地は満杯状態。15世紀に墓地の中央にゴシック様式の教会を建て、その際に掘り起こした大量の骨はチャペル兼納骨堂に収めることに。とにかく、墓地が足りなくなったんですね。その後も骨を掘り起こしてはチャペルに積み上げることを繰り返したよう。

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   人体の骨を全部を使って作ったシャンデリア(左)とその作者、フランチェスコ・リント(František Rint)の名前を標した壁(右)

ここまでくるとアッパレというか、不気味というより精密なアートワークのようでした。ローマのカタコンベの様な暗さはなく、骸骨堂の中は明るくて結構あっけらかんとした雰囲気です。動画を見つけたので、良かったら見てください。

次は、16世紀に「銀鉱夫の聖堂」として建築を始めたものの資金が底をつき、19、20世紀になるまで着手しなかったという聖バーバラ大聖堂。その過程で、最初の設計図をかなり変更しているとか。アメリカ人のガイド、ジェ-ムス曰く、「中欧で最も美しい未完成の大聖堂」だそう。

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正面(左)と横から見た支柱の細部

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基本はゴシック様式ですが、バロックやロマネスク様式の箇所も

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写真左の奥に見えるのは聖バーバラ大聖堂の後部。尖塔の造りが繊細ですね。石畳の右側には17世紀に大学だったバロック様式の建物が。写真右は中世の名残が残る塔のある建物

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ジェームス推薦の「チェコで一番美味しい」というピザリア。息子がマルガリータを注文

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 メニューにアイスコーヒーがあったので思わず注文したら、来たのが左。アイスコーヒーにヘーゼルナッツのアイスクリームと生クリームが乗ってました。右はヨソで頼んだレモンが入ってないレモネード。どちらも200円ちょっと

帰りはまた冷房車で爆睡してしまい、ついにカントリーサイドの風景は見られず…。最後にチェコ語の表現を10個くらい教わったのに、「アノ、またはノ(Yes)」と「ネ(No)」しか覚えられませんでした。情けない…。

長くてすみません、次で最後にしますね。

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プラハの夏休み

プラハの夏休み(その2)

プラハの夏休み(その3)

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プラハの夏休み(その3)

8月12日は息子の15歳の誕生日でした。本人はカントリーサイドに行きたがったんですが、日程が合わず世界遺産のプラハ城に行くことに(城だけでなく街全体が世界遺産だそう)。旅行案内所で「歩いて行ける」と教わったものの、暑すぎて坂道を上るのは無理。地下鉄とトラムを使えば余裕で30分内に着けると思い、24コルナ(約120円)のチケットを買ったところ、トラムが20分来なくて焦りました…。IMG_praguecastle

なだらかな丘の上にそびえ立つプラハ城は、世界最古かつ最大の城。9世紀から建て始め、現在の形になったのは14世紀だそう。宮殿、聖堂、修道院など建築様式の異なる複数の建物群からなり、神聖ローマ帝国王が住んだ歴史も。敷地の広さは東西430mということで、とにかく広くてめっちゃ混んでました。

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  現在は大統領府として使われていますが、英国王室のように近衛兵がいて交代式も。北門の歩哨兵はこの酷暑のなか微動だにせず。本当にご苦労様です~

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王宮前の広場で近衛兵によるブラスバンド演奏が始まると、わらわらと人が集まってきました

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600年かけて完成させたゴシック様式がメインの聖ヴィート大聖堂。正面(左)と聖堂内

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ステンドグラスとメインタワー(右)。下の写真は東側の景観

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旧王宮の外観(左)と戴冠式が行われた大ホール

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プラハ城で2番目に古い聖イジー教会は10世紀の建物。窓が小さい…

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敷地の左端にある「黄金小路」は、色とりどりの小さな家が15軒ほど並ぶ石畳の狭い路地。この名称は16世紀に錬金術士が住んだという伝説に由来しているそう。左側2軒目のブルーの家(22番)をカフカが1916年から2年ほど妹と借り、毎晩執筆に通ったとか。後の作品『城』は、プラハ城からインスパイアされたんですね。現在はカフカ関連のグッズを売るショップになっていて、通りの半分くらいがお土産店でした。

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当時の暮らしを再現した部屋の数々。これらはプラハで最も小さい家なんだそうで、間取りが狭くて、奥行きもない..戸口で頭をぶつけないよう要注意。左側は仕立て屋さんの家ですが、ベッドは普通のシングルの半分くらい--当時はヨーロッパ人も小さかったんですね

夜は8時頃にホテルを出て、河岸にあるダンシングハウスを見てから、イギリスで友達が推薦してくれたちょっと遠くのレストランへ行く予定でした。

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  1996年に建てられたダンシングハウスには「ジンジャー&フレッド」の愛称も。そういえば、カップルがダンスを踊っているように見えますね

この後、歩けども歩けども目的のレストランに行き着けず…。観光地から外れているためか街灯も暗いし、スマホも役に立たたないし。ついに主人が怒り出し、その時そばにあった『マチルダ』というイタリアンレストランへ。混んだテラス席で待つこと30分、既に10時近くになってしまい、息子の誕生日だというのにとっても険悪な雰囲気に…。

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夫婦の危機を救ってくれたのが上のサラダでした~。暗かったのですごく写りが悪いのですが、私のダックサラダ(上)は、鴨肉のスライスとオレンジの組み合わせが絶妙。クルミのトッピングとプラムソースも美味でした。主人のチキンサラダ(下)は、炭火焼きしたチキンとパイナップル、オレンジのスライスの組み合わせで、炭焼きの香ばしい味がサラダ菜と相性抜群。息子はマルガリータピザを注文したのですが、食べはじめた途端に全員の機嫌がコロっと治りました。美味しいものの威力ってすごいですね。

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    帰りは地下鉄で。プラハの地下鉄は深いのでプラットホームはひんやり。かなり斬新なデザインですね

すいません、まだ続きます。

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プラハの夏休み

プラハの夏休み(その2)

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プラハの夏休み(その2)

初日の体験を活かし、翌日から「外歩きは午前中と夕方過ぎ、午後は冷房が効いた(多分)美術館などで過ごす」という計画を立てました。まずは、メニュー豊富なホテルの朝食バーでしっかり腹ごしらえし、近くのミニスーパーでミネラルウォーターを買い込んで出発。

2日目は徒歩で「ユダヤ人街」へ。中欧最古の「新旧シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)」を訪れる予定が、ちょっと道をそれたら「スパニッシュ・シナゴーグ」が目の前。無計画でブラブラ行くのが我が家式なので、複数の見学コースの中で一番お得なファミリーチケットを買って、シナゴーグ内を見学しました。

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   高級ブティックが立ち並ぶ通りを抜け少し東に行くと、ちょっと違和感を感じる小説家カフカの銅像に遭遇。お隣にあるのが「スパニッシュ・シナゴーグ」

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  ユダヤ人街で最も美しい会堂。19世紀半ばに、スペインのアルハンブラ宮殿を模して設計・建築されたとか。2階にはプラハにゆかりのある著名なユダヤ人たちの資料が。恥ずかしながら、カフカ(1883-1924年)がユダヤ人だったこと知りませんでした

内装はものすごく美しかったんですが、それより印象に残ったのは、第二次世界大戦時にホロコーストの犠牲になったユダヤ人の子どもたちの絵や日記など。この子たちは、誰ひとりとして息子のように15歳の誕生日を迎えることはできなかったんだと思うと、なんともいえない気持ちになりました。

実は、SMIRA代表のアリスさんは、ナチス党政権下のドイツがチェコスロバキアを解体する直前、チェコからイギリスに亡命してきたのです。当時19歳のアリスさんは、たった独りで汽車を乗り継ぎ、船でイギリスに辿り着いたそう。後から合流すると信じていたご両親と弟さんは、アウシュビッツ強制収容所に送られて亡くなられたとか…。それを想い出し、平和な時代に生まれ育ったことを本当に幸運に思いました。現在と未来の子ども達のためにも、戦争のない世界を願ってやみません。

もしアリスさんがイギリスに亡命していなかったら、仕事で緘黙児に出遭って緘黙の研究をすることもなかったでしょう。リンジーさんと共にSMIRAを設立することもなかったんだと思うと、人の運命や出遭いって、本当に不思議ですね…。

この後、旧ユダヤ墓地に行ったところ、猛暑の中でチケットを求める長~い列が。家族全員が即「やめとこ」と諦め、近くのカフェでひと休み。主人はビール、私はレモネード、息子は100gのハンバーガーとフレンチフライをパクリ。ちなみに、ハンバーガーは4段階・400gまであって、チェコ人ってお肉好きなんだなと感心した次第です。

ひと休みした後、地下鉄に乗って国立美術館へ。街に貼られたエゴン・シーレのポスターを見て、「あっ、シーレ展やってる!」と思い込んで出かけたら、実は『アーティストと預言者たち』と題したグループ展でした。

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観光客が殆どいないHolesovice地区は、ちょっと寂びれた雰囲気

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  国立美術館の中は涼しくて人もまばら。たっぷり時間をかけて周り、シーレの絵もじっくり堪能出来ました

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最後は切り絵でスライド遊び(これは息子による配置)

トラムに乗ってホテルへ戻り、夜はイギリスで予約しておいたバレエ公演『白鳥の湖』を観に出かけました。街には劇場やホールが多数あり、教会や会堂の中でも毎晩のようにコンサートが行われているよう。

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「百塔のプラハ」と呼ばれるだけあって、石畳の街のいたるところに尖塔が。大戦の戦火を逃れることができたため、中世以降1000年に渡る様々な建築様式が残っています

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バレエ鑑賞した劇場。演目は『白鳥の湖』のハイライト場面を集めたもの

値段がイギリスの三分の1くらいだったので文句は言えませんが、幕が開いてダンサー達が出てきた途端に、「う~ん、これはイマイチかも」と素人の私でさえ思いました。特に、男性陣のジャンプ力と回転が…熊哲氏の三分の1も跳べてなかった。しかも、会場にはエアコンがなくて、もう蒸し風呂のような暑さ!

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私のワガママで一番高いチケットを取ったのにどうしようと思っていたら、主役のバレリーナだけが群を抜く上手さ――というか、それが当たり前なんでしょうが、ひとりだけ動きが全然違ってました。彼女が白鳥と黒鳥役を踊り分け、ひとりで舞台を引っ張っている姿に感動。後でネット評を見たら、やっぱりケチョンケチョンに酷評されてましたが…

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私たちが行った劇場の真向かい側にあったのが、『のだめカンタービレ』が撮影されたスメタナホールのあるプラハ市民会館。ミュシャが内装やステンドグラスを手がけた瀟洒なアールヌーボー様式です。黒ずんだゴシック様式の建物は15世紀に建てられた火薬塔

夜11時近くなのに観光客がぞろぞろ。きれいな夜景を眺めながら、夜更けの旧市街をぶらぶら歩いてホテルに戻りました。

長くてすいませんが、また次回に続きます。

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プラハの夏休み

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プラハの夏休み

先週、というかすでに1週間ちかく経ってしまいましたが、息子の誕生祝いとホリデーをかねて、家族でチェコ共和国の首都、プラハに行ってきました。冷夏のイギリスから、異常気象でいきなり猛暑のプラハに移動したためか、喉風邪をひいたよう…最高気温23度⇔37度はキツかった。という訳で、今週はどうも体調が今イチでした。

ロンドンからプラハまでは飛行機で1時間半ほど。短時間で行けるので、国内旅行と同じような感覚です。格安航空会社の一番安い時間帯のチケットを購入したため、出発は日曜日の午後6時半。最近、飛行機事故が多いせいか、タラップ式の小型機が無事にプラハ空港に着陸すると大拍手が起きました(笑)。

何とかバスと地下鉄を乗り継いでホテルに着いたのが11時過ぎ。モダンなアパートメントホテルと思って予約したら、実はアパート部分は4階のみで我々の部屋は普通のトリプルでした。同じ値段でもっと豪華っぽいホテルが沢山あったんですが、何故かどこも赤・緑・金の派手な縞模様のベッドリネン。さすがに6泊は耐えられないと、コンセプトが面白そうなこのエコホテルを選んだのでした。

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      ミュシャ美術館の1件右隣にあるFusion Hotel。同じ通りにミニスーパーと観光案内所があって便利。旧市街までは徒歩5分ほど

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天井が高くスペース的には悪くないシンプルな部屋。各室テーマが違い、我々のところは金魚(?)モチーフ。バスルームの壁は真紫!シャワーのみで最初は不満でしたが、暑すぎてバスタブは必要なく…巨大なシャワーヘッドに加え、ノズルがついてるのがGood

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なんですか~?と驚いたトイレのサイン。このホテルの特徴はむき出しのパイプや壁のへたうま風イラスト

12時過ぎに眠りについたのですが、とにかく暑い!エアコンのスイッチを探しても見つからず、説明書を見たら「エコ主義に則り空調は建物全体で」と。天井の太いパイプから、生ぬるい風が入る中、汗をかきながら就寝。全員が何度も目を覚まし、朝5時前に耐えられなくなった息子が窓を開けました。でも、やっぱり暑い!

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このホテルで一番良かったのは広い食堂での朝食でした

親子3人で朦朧としながら朝ごはんを食べ、主人が頭が痛いというのでまず最初に薬局へ。ここからやっと旧市街を歩いて観光。

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旧市街は観光のメッカ。露店商が集中するコーナーの果物屋さんにあったフルーツ盛り合わせ。「これで250円って安い!」と思ったら、100gのお値段でした

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有名なボヘミアグラスとガーネットのお土産店が多数

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有名な天文時計 。旧市庁舎経由でこの塔に登るのに、待つこと約1時間

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   でも、時計台の上からの景色は最高でした。右側の写真の丘の上に黒く見える塔がプラハ城

塔から降り、旧市庁舎の建物の中や広場を見学しただけで、すっかり疲れ果てた私たち。迷路のような路地の中で見つけたカフェへ。食欲は消え失せ、とにかく冷たいものが欲しい!

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暑すぎて次を巡る元気がなく、ホテルに戻って冷たいミネラルウォーターとホテルの無料アイスクリームを食べて、3人でお昼寝。この時点で私も頭痛が――もしかして熱中症?

午後6時ころに有名なカレル橋に向かってぶらぶら。夕暮れ時には多少涼しくなるかもと期待していたら、甘かった--西日が射してさらなる暑さ!そして、すごい人混みなのでした。

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左上の写真はカレル橋に行く道。大きなゲートをくぐると橋なのですが、もう人だらけ

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夕食は旧市街の裏通りで見つけたレストランで。殆どのレストランはエアコンがなくて、蒸し暑かったです…。驚くことに、ミネラルウォーターよりビールの方が安い!大きなジョッキで200円弱

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まずはチェコの伝統料理を注文。写真 左はハンガリー料理としても有名なグラーシュ(牛肉のシチュー)、右はローストポーク。双方とも「チェコの茹でパン」と呼ばれるクネドリーキが添えてあり、ポークの方にはじゃがいもの蒸しパン、ブランボロクネドリーキとザワークラウトも。疲れてたので、お酢の味が嬉しい。お値段は各150コルナ(約770円)くらい

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別の日に食べてみた、こちらも伝統料理というグラーシュのスープ。3人がかりでパンを食べたのですが、食べきれませんでした。これで450円くらい。ちなみに、スーパーで買ったクロワッサンは8コルナ(約40円)でした~パンもめちゃ安い

ということで、まだ1日分しか書けなかったので、次回に続きます。ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございます。

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決めつけないで

ここのところ、”Judgement” と ”Judgemental” という言葉に頻繁に出くわします。別に意識していないのに、ふと気づくと同じ単語がキーワードのように現れる――そんな体験ってないですか?

”judge”という動詞には「裁く」とか「察する」という意味があり、よく知られた名詞の意味は「裁判官」。”judgement” は 「判断」「察し」「独断」など似たような訳ですが、”Judgemental” になると「批判的な」「独断的な」と否定的な意味合いを帯びることが多いよう。

人に “Don’t be judgemental” と言われたら、いい意味ではありません。思い込み、偏見、決めつけに繋がるような、自分の価値感だけでものを見てはいけないという警告なのです。「決めつけないで」とか「独断で決めないで」という訳が一番ぴったりくるでしょうか。

私が最初にこれらの言葉を意識したのは、特別支援TAのエージェントが行った ”Behaviour Management” の研修会でした。これは「学校での子どもの態度・ふるまい(特に、問題行動)にどう対処すべきか」をテーマにしたもの。

ここで重要なポイントになったのが、”Observation(観察)” と“Judgement(判断)” の違いについて。例えば、緘黙児が授業中黙っているのを見て、先生が「A君は授業中ずっと話さなかった」と観察するのと、「A君は話さない子」と判断するのとでは、その後の先生の態度や対処法が変わってくる可能性が大きいのです。さらに、子どもとの関係やコミュニケーションがネガティブなものになる可能性も…。

というのも、”Observation(観察)”は客観的な見方ですが、“Judgement(判断)”ではどうしても判断する人の主観や先入観が入ってきてしまうからです。「A君は話さない子」と判断すると、無意識のうちに子どもにそのレッテルを貼ってしまい、「今回もどうせ話さないから」と思い込みがち。そのためにA君だけ当てなかったり、順番を飛ばすようになったとしたら、子どもはどう感じるでしょうか?また、それを見て他の子ども達はどう思い、行動するでしょうか?

緘黙児は目立ちたくないけれど、みんなと同じでいたいんです。授業中に順番を飛ばされたら、無視されたように感じるでしょう。先生にいい感情を持てず、ますます学校生活が不安になったり、自己評価が下がったり、非言語のコミュニケーションにも問題が出てきてしまうかもしれません。

研修会では、教育関係者は子どもを観察し、理由・原因を多面的に考えたうえで対処方法を決めるよう教わりました。先生も人間だから、やっぱり好き嫌いはあります。これまでに多数の子どもに接してきただけに、自分の見方・やり方を確立していることも多いでしょう。だからこそ、先入観を持つことなく、心を開いて子どもを見ることが大切になってくると思います。

先生が「A君は授業中ずっと話さなかった。どうしてかな?どうしたら授業に参加できるかな?」と探求心を持ってポジティブに考えてくれれば、様々なアイデアが生まれるはず。母親から子どもに、授業中はどんな方法で非言語コミュニケーションを取るのが楽か訊いてもらうという案も出るかもしれません。こうすることで、子どもとの関係やコミュニケーションがポジティブなものになれば嬉しいですね。

これって何も学校や先生に限ったことでなく、日常生活においても気をつけたいことですよね。慎重な性格ゆえに何事もゆっくりめの息子に対して、常に「早く!早く!」と急かしたててる私…。スピードばかりに気を取られ、彼の持つ良い特性や可能性の目を摘んでしまっているかも…。何事も決めつけないように、注意しないといけませんね。

話がそれてしまいましたが、もう一つこれらの言葉をしっかり意識したのは、7月にBBCで放送された『Victoria Derbyshire』の場面緘黙特集でした。

実際のTV番組ではカットされてましたが、ウエブ版に収録された17歳の緘黙少女ケイティの話の中で、 ”Judgemental” という言葉が繰り返し出てきます。

(詳しくは、過去記事『緘黙を克服しつつある17歳』の映像をご参照ください)

ケイティの友達のひとりが、「セカンダリースクールに入って、知らない子に話しかけるのはどんな気持ちだった? 人に評価されるよね?」と訊きます。

(「人に評価されるよね」の部分は、原文だと “That’s where people are most judgemental about people, isn’t it?” なので、「(新学期のセカンダリースクールは)みんなが人に対して最も選別的になるところだよね」ですが、解かりやすいように変えました)

これに対して、ケイティは「そうね、偏見を持っていそうな、人気のある子達からは距離をおいたわ(I tried to stay away from the people, who are most judgemental…)」と答えています。

やはり「しゃべらない(変な)子」という目で見られるのは、緘黙児にとって深刻な問題なんだなとつくづく思いました。先生やクラスメイトは本来の自分の姿を全く見たことがない訳で、本人はものすごいストレスを抱えているんでしょうね。

また、傍らで見ている親もフラストレーションが溜まりますよね。ついつい「何で家にいる時みたいにしゃべらないの?」と言いたくもなるもの…。親にも息抜きが必須です。

そういえば、息子が小1の頃、人がまばらな放課後の校庭を走り回ってリラックスしたのか、知らずと大きな声を出していたことがありました。それを見たママ友が、「以前、精神遅滞(retard)かと思ったこともあったわ。でも、違ってて良かった」とポロリ…。「え~っ、そんな風に見られてたの?!」と大ショックでした。

緘動があった時期は、だんまり+動きも鈍かったので、そいういう風に見えたのかな…。緘黙児って、こんな風に思われちゃうこともあり得るという実例ですね。

(イギリス人って、かなりストレートにものを言う人も多く、グサっと来ることもあるけれど、ずっと黙っていたり、私のいないところで噂されている方がもっと怖い…)

でも、自分でも知らないうちに、とんでもない思い込みをしていることもあるかも…。ちょっと見だけで人を判断しないよう、いつもニュートラルかつフェアな目でものを見るよう、胸に刻む今日この頃です。

 

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