ケント&東サセックス州のコテッジホリデー(その6)

9月に入って新学期が始まった途端に次々と問題が持ちあがり、その一方で日本から急ぎの仕事も入っていて、本当にあっという間に1か月が過ぎ去ってしまいました。ブログの更新もままならぬ内に、今日からもう10月(って、まだ深夜ですが)!

8月のホリデーはもうずいぶん昔のことのよう…。もういい加減にこの話題に終止符を打たないとですね。

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ホリデーの最終日は、再びブライトンの東側にあるルイス近郊へ。まず訪れたのは、ブルームズベリーグループの主格だったヴァージニア・ウルフ夫妻の田舎の隠れ家、モンクスハウス。彼らは1919年にこの17世紀のコテッジを入手、週末はロンドンの喧騒を離れここで過ごすことが多かったようです。

 

 ロドメルという小さな村にあるモンクスハウスはナショナル・トラストの所有

入口は門から右にぐるっと回った中庭側あります

ヴァージニアの姉、ヴァネッサ・ベルが住んでいたチャールストン・ハウスにも近く、ここもブルームズベリーグループの仲間たちで賑わいました。でも、ロンドンからルイスまで鉄道で移動した後、駅から舗装されていない田舎道を車で走るのは結構大変だったとか。モンクハウスからチャールストンハウスまでは徒歩で2時間半弱ですが、姉妹は頻繁に行き来していたといいます。

ヴァージニアの彫像や肖像画が飾られた居間は、当時の面影が偲ばれて

ヴァージニアは次々と小説を発表して高い評価を受けますが、第二次世界大戦中の重苦しい空気の中、ロンドンの自宅が空襲で壊滅。モンクハウスに移住した後、うつ病が悪化して幻聴に悩まされ、執筆活動ができない状態に。1941年の春、愛する夫に遺書を残し自宅近くのウーズ川で入水自殺してしまいました。

      

もうすぐ朗読があるということで中庭へ出てみると、家と比較して随分広い!奥の方は果樹園になっていて、その向こうに村の教会の塔が見えました。シシングハースト城のヴィタの庭に似せたのか、庭を部屋のように区切ってそれぞれ違う仕立て。ちなみに、ヴィタとは別れた後もずっと友人であり続けたそう。

        

ヴァージニアが夏の間仕事をしたという東屋

     

 

      訪問客も巻き込んでボランテイアの男性がヴァージニア作品を朗読。右は夫レナード・ウルフの墓碑。二人の遺骨は楡の木元の下に埋葬されています

この後、主人の大学時代の友達と奥さんに会うため、アンティークの町といわれるルイスの中心地へ。早目に着いてルイス城を見学する計画を立てていたのですが、なんだか空が暗くなり雲行きが怪しくなってきました。

     

       今から1000年ほど前、イギリスを征服したノルマン公、ウィリアム1世の部下が建てた石造りの城。2つの丘に2つの天守閣を設け城壁で繋げた珍しい構造。

  

廃墟になった天守閣からは町が一望できますが、今にも降り出しそうな気配

たまたまウエディングの準備中だったのですが、お天気持つかな…

       

    場内はまだ結婚式の飾りつけ続行中でした。城門前ではウエディングゲスト達に遭遇

     

    待ち合わせのカフェBillsに向かう途中、土曜日のマーケットや素敵なアンティークショップを通過。町並みも可愛い。温かいエルダフラワードリンクが来たところで、ついに大粒の雨が!結婚式大丈夫だったかな?!

ということで、ホリデーの記事はこれでお終いです。最後までお付き合いくださった方、ありがとうございます。

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ケント&東サセックス州のコテッジホリデー(その5)

 

ケント&東サセックス州のコテッジホリデー(その5)

今回の旅行の目的のひとつは、名高いシシングハースト城と庭園を訪れることでした。主人の大学の同級生にプロのガーデナーがいて、「ケントで一番美しい庭」と推薦してくれたのです。

最初の印象は「あれっ?お城っぽくないなあ」というもの。もともと中世の豪族のマナーハウスだったそうですが、15世紀に所有者だったベイカー家が建物を増築し、爵位を授かってから「城」と呼ばれるようになったようです。16世紀には、敷地は2.8k㎡にも及ぶ広大なディアパークに。でも、エリザベス1世が200人のお供やゲストを引き連れて3日間滞在した際、費用が嵩みすぎて家が傾いてしまったんだとか…。

   メインハウス、タワー、図書庫の他、エリザベス王朝時代の厩舎やファームハウスなど、広大な敷地内は小さな村みたいです

その後、18世紀には牢獄として使用された時期もありましたが、次第に忘れ去られ廃墟に。その廃墟と土地を1930年に購入したのが、詩人で作家のヴィタ・サックヴィル・ウエストと貴族で外交官だったハロルド・ニコルソン(後に政治家)夫婦でした。

ヴィタはサックヴィル男爵家の一人娘として、英国最大の邸宅ノールで生まれ育ちました。が、男子でなかったため爵位と財産を引き継ぐことはできず…。シシングハーストに懐かしいノールを再建しようとしたといわれています。ロマンティックな趣のある建物や庭園には、彼女の郷愁が宿っているのかも。

   

  邸宅へと向かうゲートの中にはダリアの花が。二人が最初にキャンプした塔

とはいえ、暖房設備も何もない雨風吹きさらしの廃墟。当初は、寒さに震えつつ塔の中でキャンプしながら、屋敷の修理や庭造りに打ち込んだとか。

    (左から)階段を上る途中の窓に青いカラス器のコレクション。当時のまま保たれているヴィタの書斎。ウルフ夫妻の出版社、ホガースプレスで使用していた印刷機も

タワーにはヴィタの書斎や展示があるのですが、そこにあったヴィタとハロルドの交友関係図を見てビックリ。オープンマリッジを公言していた二人の恋多きこと(同性多し)!特に、ヴィタのレズビアンの恋人は10人以上も…。

その中で特に有名なのが、作家のヴァージニア・ウルフです(1920年代末から10年ほど)。ウルフはヴィタをモデルに『オーランド』を書いたことを、初めて知りました。私が最初に読んだウルフの作品が『オーランド』でした。

1992年にサリー・ポッター監督によって映画化された『オーランド』は、すごく記憶に残っています。主人公のオーランドを演じたのがティルダ・スウィントン。彼女はデレク・ジャーマン監督(今回の旅行で終の棲家と墓地を訪れました)に見出され、彼の作品には欠かせない存在でした。どこか人間離れした中性的な風貌が、オーランド役にぴったりだと思ったものです。

ヴィタとハロルドがデザインした、色やテーマの異なる個別の部屋を垣根やレンガの壁で巧妙につなげた庭園は、当時の画期的なデザイン。その頃、ヴィタが担当していた『オブザーバー』紙のガーデンコラムが大人気を博し、シシングハーストの庭も一気に知られるように。特に、白い花だけを配したホワイトガーデンが大流行したそう。

  

  塔の上から見下ろしたホワイトガーデンと咲いていた白い花々

   

  

バラの季節に訪れることができなくて残念…

庭を見て回っている途中で家族とはぐれてしまったのですが、その分ゆっくり堪能できました。彼らの一番の楽しみは、コテッジに戻ってソファに腰を落ち着け、PCをしたり(主人は地元ビールやサイダーを味わいながら)TVを観たり(受信料を払うのを止めたので家では観られない)することだったよう。二人とも私の趣味につきあってくれて、ありがたいことです。

ゲートをくぐって帰ろうとしたら、白いハトがやってきました

    ギフトショップで白いカボチャ、パティソンを2ポンド(約300円)で購入。見かけは芸術的ですが、カボチャというより瓜の感じで、カレーに入れたら今ひとつでした

 

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来週から新学期が始まるのですが、まだまだ夏休みの話題です。なんとか今週末までには書き終えたいと思ってます。

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雨降りの木曜日には近隣の港町、ヘイスティングスへ。ここは1066年にヘイスティングスの戦い(実際の戦場は近くのバトルという町)でノルウェー軍がイギリス軍を破り、ウィリアム1世がノルマン王朝を築くことになった歴史的な町。ずっと昔、女友達二人と訪れた懐かしい思い出が。

クリフレールで崖を登って聖クレメンツ洞窟へ

その時、密輸業者がお酒やタバコを隠した洞窟やお城などは見たので、今回は港の東側にあるジャーウッド・ギャラリーへ。お目当ては、『チャーリーとチョコレート工場』などロアルド・ダールの児童文学の挿絵で知られるクエンティン・ブレイク展。(ちなみに、ダールは主人の母校の卒業生なんです)。

全然知らなかったんですが、クエンティン・ブレイクはヘイスティングスの住人で、ギャラリーから歩いてすぐのところに家があるんだとか。今回展示されている作品は、ここ6ヶ月くらいの間に描きあげたそう。

 

“The Only Way To Travel”と題し、100点あまりの作品を展示

          常設展示は20・21世紀のイギリスのアーティストの作品

ギャラリーの窓から見た港の風景

港にはその朝獲った魚を販売する小さな店がいっぱい。ランチは全員シーフードを注文。でも、マッシュポテトを乗せて焼いたフィッシュパイだと思って注文したら、まんまシーフードグラタンでした。美味しかったです。

イギリスにはお城が山ほどあるのですが、中でも堀に囲まれた14世紀の古城、ボディアム城はその美しい佇まいが人気。廃墟ながらその景観は未だに健在で、おとぎ話に出てくるお城そのもの。

 でも、どうしてお堀の中はでっかい黒鯉だらけ!?

   

別の日、ボディアム・ボートステーションからフェリーでロザー川を上って再びお城まで行きました。最初、主人と息子はカヤックに挑戦する予定だったのですが、根性無しの二人は「フェリーに乗ろう!」と。フェリーといっても本当に小さなボートでしたが…。

 途中、船長が乗客の女の子に舵を取らせ、家族に大ウケ

    

      帰り際に真っ黒な雨雲が出てきて、カフェで雨が過ぎるのを待っていたんですが、窓に数滴落ちただけですみました

今度こそカヤックに挑戦というので、次はイングランド南東部で一番大きいベウル湖に。が、湖の岸に行き着く前に貸し自転車屋さんがあって、二人の心はマウンテンバイクに移ってしまいました。彼らがバイクで遊んでいる間、私は湖を一周するフェリーでのんびり。

そうそう、水曜日の夕方コテッジに戻ってきたら、何と戸が開いているのです!もしかして、と思ったらコテッジの持ち主のお父さんがシャワーレールを修理してくれてました。貸しコテッジ業者と旅行保険会社にはすぐ連絡したのですが、反応が悪くてどうしようかと思っていた矢先。弁償かもと思っていたのに無料で修してくれて、本当に助かりました。

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今日で8月も終わりですね。ホリデーの話が長くなってしまいそうなので、今回はダイジェストで。

ドーバー海峡の白い崖は世界的に有名ですが、私たちが今回訪ねたのはイーストボーンの東側にあるバーリングギャップ(Burling Gap)。ナショナルトラストの所有で、崖の上を散策できるだけでなく、海岸にも降りられるのが魅力。お天気が良かったので、海は美しいエメラルドグリーンでした。

崖に架けた恐ろしげな階段を下って海岸へ。季節外れには外されるそう

 

足元は大きな石がゴロゴロ。白い崖のすぐ側まで行くと、なるほど脆そう…。

  

  次はピクニックを持って崖の上へ。柵もないし行こうと思えば先端まで行けちゃうんですが、崩れると怖いのでみな注意を守って近づきません

 

草原には可愛い野草がいっぱい。木陰がないので藪陰でピクニック

余談ですが、8月27日夜にBBCニュースで『Burling Gapに謎の靄』との報道が!なんでも、突然海にモヤが発生して、海岸や崖にいた人たちにアレルギーのような反応がおこったんだとか。目の痒みや痛み、頭痛や吐き気を訴えた人も。すぐ避難勧告が出て、付近一帯の人は屋内退避・窓を閉めるよう警告されたのです。何らかの化学物質だろうということでしたが、その後も原因は不明…観光はすぐ再開した模様ですが…。

   ライの町の西側にあるランドゲートは、14世紀に造られた4つの要塞のうち唯一残っているもの。赤煉瓦の家とコブルストーンという丸い石畳の道が古風

中世の町並みが可愛らしいライの町には何度も足を運び、観光がてら骨董品店をのぞいたり、公民館で開かれる地元のマーケットへ行ったり。お勧めしたいのが、個性的なショップやカフェが立ち並ぶハイストリートにあるRye Art Gallery。間口が狭いのに奥はアラジンの洞窟のように複雑に繋がる広いスペースなのです。多彩なクラフト作品やコンテンポラリーアートが展示・販売されてました。

  密輸入者たちが集ったマーメイドイン(ホテル)のある通りの先を右に曲ると、角にあるのは米国の作家ヘンリー・ジェイムスが住んでいた家。その先には聖マーガレット教会があります

  ヘンリー・ジェイムス邸の庭は、外からは想像できないほど広々としてました

  

   ハイストリートのカフェ、ヘイデンズのクリームティー。好みのお茶とジャムを選べます

   コテッジに戻る途中で見つけたファームショップで食料を調達。サラダとチーズの晩ごはん

ダイジェストにしようと思ったのに、できませんでした…まだまだ続いてしまいそうです。

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ケント&東サセックス州のコテッジホリデー(その2)

翌日も晴天に恵まれ、まずは海辺に行くことにしました。いつも旅の計画は私が勝手に立てるので、今回も自分の趣味丸出し(家族は面倒なのか計画に加わることなく、黙って着いてきます)。ライの町を通り越して海辺を東に進むと、ダンジネスという砂利だらけの荒涼とした土地が広がり、イギリスらしからぬ風景。岬の先には、1904年に築かれた古い灯台とダンジネス原子力発電所があります。

左にあるのが旧灯台、右の灰色の建物群が原子力発電所です

でも、私の目的は灯台ではなく、70~90年代前半に活躍したイギリスの映画監督、デレク・ジャーマン (1942-1994)が住んでいたプロスペクト・コテッジ(Prospect Cottage)。ゲイであることを公言していた彼は1986年にHIVに罹患し、このコテッジに移り住みました。Prospect(期待・見込み)という名前は自分でつけたのか、それとも元からだったのか…。

黒く塗られた木造のコテッジの傍らに、朽ちかけたボートが無造作に置かれて

不治の病を抱えたデレク・ジャーマンがここで綴った日記『Modern Nature』を90年代に読んんで、その文章と写真の庭がとても心に残っていたのです。原子力発電所のある荒涼とした土地は「イギリスで一番太陽が当たるところ」であり、沈黙の中に風の音と鳥の鳴き声、漁師のボートの音が聞こえる場所。「水平線が境界」という庭に出て、花や植物、自然から季節を感じ、石や鉄の棒、海辺で見つけた流木・漂流物でオブジェを創る喜びが綴られていました。

辛い治療を受けながら創作活動を続け、恋人や友人たちに支えられてここで最期の静かな暮らしを営んでいたんだなと感慨深かったです。映画の衝撃的・退廃的なイメージとは裏腹に、静かで彼らしい最期というか…。現在の住居に迷惑がかからないように、舗装されていない道から写真をパチリパチリ。流木を立ててカニの鋏や貝殻などを乗せたオブジェや石を並べたサークルはどこ?彼が大切にしていた植物やオブジェは、残念ながらそれほど手入れされていないような…。

目立って何もない風景の中をぶらぶら散歩して車まで戻ると、コテッジの前には複数の巡礼さん(観光客?)が。カナダから来たカップルに彼のお墓が近くにあると教えられ、行ってみることに。すぐ近くだと思っていたら、そうでもなく――ただOld Romneyという地名が頼りだったので不安でしたが、教会に到着しました!

主人と一緒に墓標を探したのですが見つからず。諦めかけて帰ろうかと思った時、お墓地に来た女性に尋ねたら、確かにここだとのこと。もう一度ひとりで探してみたら、ありました~!

 

51歳の若さで亡くなったデレク・ジャーマンの墓標

お墓参りができてほっとした後は、ライに帰る途中にあるカンバーサンドの海岸へ。イギリスでは珍しく砂浜と砂丘があるビーチです。ダンジネスに近い側だったためか、いい天気なのにそれほど人がいませんでした。裸足になって砂浜を歩いてみたら、波型がついた砂は予想外に固くてちょっと不思議な感覚。

ランチはライにあるシーフードレストラン、グローブインマーシュで。エビとイワシとイカフライのプレートで海の幸を堪能しました。

お腹がいっぱいになった後は、町を少し見てからライハーバーの自然保護地区でお散歩。晴天のもと海に向かって沼地帯の中に造られた道を歩いたのですが、水がキラキラ光ってきれいでした。

     海岸近くには第1次世界大戦で使ったバンカーが。こんな風に海から上陸してくる敵を狙って銃を構えたかと思うとシュールですね..。

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お久しぶりです。先週頭から仕事が入って忙しくなってしまい、なかなか更新できませんでした。ふと気づくともう8月も終わり…今年の夏も残すところあと僅かですね。

今年の夏休みは、8月12日からの1週間をイングランド南東部にあるケント&東サセックス州で過ごしました。歴史ある小さな港町、ライの近くの村にコテッジを借り、海岸沿いの町や海辺を訪れたり、庭巡りをしたり。ずっと冷夏が続いていましたが、奇跡的にも快晴の日に多く恵まれて、つかの間の夏を楽しむことができました。

ロンドンからライまでは2時間ほどですが、まず最初に訪れたのはブライトンにほど近いルイスという町の東ばずれにあるファームハウス、チャールストン Charleston。ここは20世紀初頭にロンドンのブルームズベリー地区に集まった文化人や芸術家のサークル、「ブルームズベリーブループ」の主力メンバーだったヴァネッサ・ベルが1916年に移り住んだ田舎家です。

途中で道が渋滞して、私たち家族が着いた時にはすでにハウスツアーが始まっていました。知識豊富なボランティアさんが、10人くらいのグループを連れて、各部屋や住人たちの説明をしてくれるのです。

インテリアデザイナーとしても知られる画家のヴァネッサは、作家ヴァージニア・ウルフの姉。この姉妹が住んでいたブルームズベリーに、美術評論家のクライブ・ベルなど主にケンブリッジ大学の仲間たちが集っていたのです。その中には作家のEMフォスターや経済学者のケインズなども。

ポスト印象派後のモダニズムを追求し、19世紀の古い道徳観念から逃れようとした彼らの人間関係は、複雑にもつれ合うもの。男女の愛人を持つことが当たり前のオープンマリッジ――夫婦関係や恋愛関係が壊れても、仲間であり続けたのがすごい。LGBTの権利が叫ばれる現代より進んでたかも。

チャールストンでヴァネッサと2人の息子と同居したのは、夫のクライブ・ベルではなく(彼は新たな恋人と同棲中)、画家のダンカン・グラントと その恋人のデヴィッド・ガーネットでした。この男同士のカップルは、農場の仕事をするという名目で兵役を拒否してここに引っ越してきたんだとか…。後に、ヴァネッサはダンカンと恋に落ちて娘をもうけ、その娘が成人した時デヴィッドと結婚したそう。う~ん。

ヴァージニア・ウルフ夫妻など、グループのメンバーや友人達がロンドンから頻繁に訪れ、経済学者のケインズに至っては、ここで『平和の経済的帰結』を執筆しました。ロンドン暮らしに疲れたら週末にやってきて、英気を養う拠点となっていたんですね。

(館内の写真撮影は禁止。これは窓から中を写したものです)

話を戻すと、インテリアデザイナーと画家の隠れ家的な田舎家は、家具だけでなく、壁、窓、暖炉の周辺など至る所に絵や模様が描かれ、家全体がキャンバスという感じ。グレーやくすんだ青など、ちょっと懶い感じの色調や20年代風のデザインが素敵でした。ヴァネッサが1961年に亡くなるまで絵を描き続けたアトリエも。画家ロジャー・フライが手がけたという庭も、絵を描いたような自由でワイルドな趣きでした。

実は、車を降りた途端に田舎の匂い(牛の糞の)が鼻をついたのに、人間の慣れって怖いものですね。見学後は全く気にならず、カフェの中庭でランチを楽しみました。

 

すごいボリュームでびっくり

コテッジに向かう途中、ヘイルシャムという町にあるお堀に囲まれた中世の修道院、ミチェルハム(Michelham Priory)に寄りました。修道院といっても、教会は地域民を統制する立場にあり、修道僧達は外で活動していたとのこと。戦争や地域民が反乱した時に備えて、修道院なのに堀を巡らせて見張り塔までつけたんですね。とにかく庭が広すぎて、とても全部は回れませんでした。

チューダー王朝時代には権力者のカントリーハウスだったそう

まだまだ明るいうちにBeckley村のコテッジに辿り着きました。18世紀ころ建てられたものらしく、ドアの鴨居が低くて私でも頭をぶつけそうなほど(当時のイギリス人はかなり小柄だったんですね)。よく見ると、天井は古い梁は補強され、床板は新たに入れたものでした。私たちが借りたコテッジは左側。お隣さんとゲート前の小路をシェア

左から居間とキッチン、そして2階へと上がる急な梯子段

ベッドルーム2つとかなり狭いバスルーム

でも、マリーンをテーマにした青と白の爽やかな内装に、「いい感じ」と喜んでいた初日から事故が勃発。ゆっくりお風呂につかり、シャワーを浴びて出ようと思ったんですね。シャワーの位置が高かったので、調整しようと思って下に押したら、何とシャワーレールごとタイルの壁からお湯に落下!

「え〜っ、そんなあ」と泣きそうになって家族に訴えたら、うちの男子2人は冷たくて…。息子は私が何か失敗したんだろうと「マミ〜」と顔をしかめ、夫は「見せてみろ」と2階へ。

「これ、スクリューを緩めてから高さを調整するんだよ」と言われ、よく見たらその通りでした。でも、そんなに力を入れてないのに、いきなり壁から落ちますか?! 旅行保険が効くかどうか--トホホ…。

    この急な階段から転げ落ちないよう、毎回気を使いました

 

 

 

息子の緘黙・幼児期4~5歳(その12)ダイニングルームで耳ふさぎ?

久しぶりに息子の緘黙記に戻ります。なかなか前に進まなくてすいません。

学校の資料に書いてあったSchool Nurse(学校看護師?養護教諭?)に相談しようと思い、お迎えの時に担任に問い合わせました。すると、School Nurseは週に数日しか出勤していないとのこと。それから何気なく、「○○君は今日ダイニングルームで耳をふさいでました」と言われたのです。

一瞬「は?」と思いました。それまで息子が耳をふさぐ姿なんて見たことがなかったからです。

イギリスの小学校では、大きなダイニングルームに複数の学年が集まって給食やお弁当を一緒に食べます。クラス毎に固まって大テーブルに並ぶのですが、人数が多いのでかなり賑やか。でも、それまではランチタイムのことは何も言われたことがありませんでした。

「耳をふさいでいた」というのがとても気になり、ネットで調べてみたところ、ヒットしたのは「自閉症」。恥ずかしながら、当時の私は自閉症の知識はほとんどありませんでした(当時は、まだASDという呼び方もしてなかったと思います)。

息子は物心ついた頃から車・電車オタクで、特に2歳後半~幼稚園に入るまで仲良しだった日本人の男の子とは、いつも道路や線路などを組み合わせてマニアックな模型遊びを楽しんでました。二人とも腹ばいになって、「あーっ、僕のホンダが中央線にぶつかる」「ストップ、ストップ」などと、自分たちでストーリーを作りながら車や電車を走らせるのです。

ある日、その子のママが「自閉症の子って、車輪が回るのを見てるのが好きなんだって。うちも車輪を見てるから、昔ママ友と『もしかしてうちの子も』って疑ったことがあるの」と思い出話をポツリ。その時に初めて自閉症という言葉を意識したのでした…。

でも、彼女の説によれば、「この子達は、車輪も含めて車が走行しているところを見てるんだよね。自閉症の子は車輪だけを延々と回すらしいの。それに、行き先とか次に何が起こるか想像しながら物語を作ってるでしょ?これってごっこ遊びの一種なんだって」とのこと。

その時は、「ふーん、そうなんだ」と思ったきり…。ごっこ遊びをしない、指差しをしない――息子はそうではなかったし、検診でも引っかからなかったため、他人事のように考えてたんですね。

なので、ネットサーチで「自閉症」をヒットした時には、「えええっ?!」という感じで驚きました。

2005年当時はまだPCとモデムを繋げ、電話回線を使ってインターネットをしていた時代。スピードもとても遅かったのですが、ここから私のネット徘徊が始まりました。最初のうちは、毎日、毎日、自閉症の解説とか、保護者の方のブログを読んでいたのです。

その世界はとても奥が深く、同じ自閉症といっても人によって全く違っていて、症状にも大きな差があることを初めて知りました。衝撃的でした。

自閉症の3つの特徴は

  1. 社会性と対人関係の障害
  2. コミュニケーションや言葉の発達の遅れ
  3. 行動と興味の偏り

息子の場合、集団や慣れない場所だと引っ込み思案になるのですが、慣れた人と1対1だったら問題はありません。大人に甘えるのが結構上手で、1歳になる前から常に友達がいて、仲良く遊ぶことができてました。なので、1と2はクリアしてるのかなと思いました。が、頑固なところがあり、こだわりはかなり強い方。さらに、自閉症児に多い感覚過敏もありました。

ブログ巡りをしているうちに、言葉の遅れはないので、もしそうだとしたらアスペルガー症候群なんだろうなということが解ってきました。でも、「こだわり」については似てる部分もあるのですが、パニックになったことは一度もないし…。

悶々としているうちに、学校でやっとSchool Nurseに会うことができました。「もしかしたらアスペルガーかもしれないんです。どうしたらいいでしょう?」と訊いたところ、小児クリニックに紹介してくれることに。

たしか、3月頭に申し込んでくれて、実際の診察まで3ヶ月以上待たなければなりませんでした。

その間も、私のネットでの探求は夜な夜な続いたのでした…。

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不安のメカニズム(その4)

不安のメカニズム』は(その3)で終了したつもりだったんですが、思い出したことがあるので追記します。

前回、私の小学校時代の思い出として、授業中に挙手する時の心境を書きました。手を挙げている間は、当たったらどう言うかを頭の中で何度も繰り返してました。が、いざ当てられると極度にアガってしまい、回答だけをぶっきらぼうに述べることに…。頭のなかで用意していたことの半分も言えませんでした。

こういった体験は授業中だけではなく、普段でもあったように記憶しています。特別親しい場合を除き、3人以上のグループで何かを話す時、「間違えてはいけない」と緊張してしまうんです。基本的にはおしゃべりなので、仲良しの子と1対1だったら、ただ思いついたことをベラベラしゃべるんですが…。

そして、調子に乗ってくると活舌が良くなり、徐々に声のトーンが高くなって、知らないうちに大きな声になってるという。(そういえば、緘黙を克服しつつあった息子が、全校集会中に友達と無駄話をしていて注意されたことが何回かありました。きっと話す音量が調整できてなかったんでしょう)

一方、授業中に発表しなければならない時は、大きな声で話しているつもりなのに、「もっと聞こえる声で」とよく言われたものです。小学校時代の私の印象は、多分「おとなしくて声が小さい子」だったのではないかと…。

普段、私たちは周りの状況に合わせて無意識のうちに声の音量を調整していると思うんですが、不安になったり、緊張したり、興奮したりすると、調整がうまくいかなくなります。また、「聞こえる音量」も心理状況によって変わってくるんじゃないでしょうか?

例えば、テストをしている時、いつもは気にならない時計の音がやけに大きく聞こえたという経験はありませんか?神経を使ったり、緊張している時は、周囲の音が大きく聞こえるものです。

学校でずっと沈黙している緘黙児の耳には、先生の声や友達の声、教室のざわめきがどんな風に聞こえてるんでしょう? 聴覚過敏があれば、音が気になって普段より疲れるはず。抑制的な気質が強いと、「心配症」や「取り越し苦労」の傾向が強くなるので、色々思い巡らせてどどっと疲れるのでは?

だからこそ、自宅では自由にのびのびと過ごさせたいですよね。

抑制的な気質の緘黙児にとって、家の外=社会は「神経が高ぶる」場所です。エレイン・アーロン博士の『ささいなことにもすぐ動揺してしまうあなたへ』には、HSP(とても敏感な人)には、「神経の高ぶり」を収める時間の必要性が説かれています。引きこもりにならない程度に、「毎日ひとりになる時間をつくる」ことを勧めています。多分、普通の人より長く「自分でいられる時間」が必要なんだと思います。

子どもが自分の部屋に閉じこもってしまうと親は心配です。でも部屋に閉じこもったり、ぼーっとしたり、PCゲームに没頭したり、TVや動画に見入ってる時間が、実は子どもにとって「ほっとできる時間」なのかもしれません。私にとっては、それが少女漫画や本だったように思います。つい没頭しすぎて、宿題やお手伝いの時間を忘れ、父に叱られた思い出が…。

子どもによって「自分でいられる時間」が違うと思いますが、そういった時間を適度に許可してあげることが重要かなと思います。また、あまり長時間自分にこもってしまうと、外に出て人と関わる気持ちが薄れたり、社交が不安になるかもしれないので、なるべく社会的な時間とのバランスが取れるよう注意したいですね。

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不安のメカニズム

不安のメカニズム(その2)

不安のメカニズム(その3)

サンドウィッチの秘密の花園

今週の火曜日、イングランド南東部にあるケント州のサンドウィッチという町に行ってきました。この海辺の町に「秘密の花園(Secret Garden of Sandwich)」があると聞き、ずっと前から訪ねてみたいと思ってたんです。ケント州に住む友達にも会えたし、一石二鳥でした。

ところで、サンドイッチの語源は四代目のサンドウィッチ伯爵、ジョン・モンターギュにちなんだもの。トランプゲーム好きの伯爵が、ゲーム中に片手で食べられるようパンに具を挟んだものを作らせたのがその始り――だと思っていたら、実はこれは間違いでした。サンドイッチ状の食べ物は18世紀前からあって、当時は単に”bread and meat”や”bread and cheese”と呼ばれていたとか。よって、発明者はサンドウィッチ伯爵ではないのですが、この食べ物に彼の名がつけられたのは事実のようで、1760年代から1770年代にかけて一般にも普及したようです。

これが四代目サンドウィッチ伯爵。著名な政治家で海軍卿や国務大臣も務めており、多忙でカード賭博(?!)なんかする暇はなかったという説も。忙しくて食事を摂る暇がなく、サンドイッチを常用していたんでしょうか?彼は探検家ジェームス・クックを支援したことでも知られ、ハワイ諸島の旧名「サンドウィッチ諸島」と南大西洋のサウスサンドウィッチ諸島は、彼を記念して名付けられたそうです。ちなみに、サンドウィッチ伯爵は代々貴族議員を務めていて、現在の11代目伯爵も上院議員なんだとか。

ロンドンのセントパンクラス駅からサンドウィッチへは急行で1時間20分ほど。ここのところお天気が悪く、最高気温が20度前後の曇った日が続き、この日も曇り空。無人の駅で友達が待っててくれて、16世紀に建てられたギルドホールのある広場でランチを食べました。それから、中世の趣を残す田舎町をのんびり散策しつつ花園へ。

人口5000人ほどの小さな町ですが、チューダー様式の建物がそこかしこに残り、当時イギリスの主要港だった面影が忍ばれます。13世紀、イギリスに初めて象が運びこまれたのはこの港だったとか。石畳の狭い通りをけっこうなスピードで車が行き交うので、よそ見してるとちょっと危険。ストゥー川にヨットが停泊する風景は情緒たっぷりでした。町中からサンドウィッチ湾までは少し距離がありますが、世界的に有名なゴルフコースが2つあります。

秘密の花園の本名(?)はサリュテーション・ガーデン(The Salutation Garden http://www.the-salutation.com)。高い壁に囲まれた瀟洒な屋敷と3.7エーカーの広大な庭園は1912年にエドウィン・ラッチエンスによって設計され、近年復元・改良されたもの。赤煉瓦の邸宅は現在レストランとカフェを併設するブティックホテルになってます。

季節柄か植物が奔放に生い茂っているという感じで、伝統的なボーダーにワイルドな植物が混じってるのがユニーク。私達の前にいたグループの一人は、テッポウウリを勝手に触って中身を噴射させてました。

野草を想わせるような花も多く、天候のせいか何となくそこかしこに秋の気配。

一番奥には温室や菜園もあり、美味しそうなリンゴや野菜が実り始めていました。そんな中に赤紫蘇発見!今までガーデンセンターでも、ハーブガーデンや菜園でも見たことがなかったので大感激。入口付近で植物の販売もしていたので、もしかしたらあるかもと期待が膨らみました。

二重のコスモスですが、こんなのは初めて。

その後、この写真の一番奥に写っているベンチに座って久々のオシャベリを楽しみました。

メインの庭から屋敷を望むとこんな感じ。家屋敷の周囲は仕切られていて、「白黒の庭」など異なるテーマの複数の庭(部屋)を楽しめます。

ティータイムは園内のカフェではなく、来る途中で見つけたScrumalicious Cake Company(http://www.scrumaliciouscakecompany.co.uk)で。ほんのり酸っぱいルバーブケーキがめっちゃ美味でした!

お土産はこの£2(約280円)の赤紫蘇。すでに何度かサラダに入れて食べました。以前、青紫蘇の種を日本で購入し、毎年栽培してた時期があったのですが、種が古くなったためか発芽せず…だから嬉しいサプライズでした。

不安のメカニズム(その3)

前回、不安から起こる様々な症状とその原因に関する記事の翻訳を載せました(『不安のメカニズム(その2)』)。一般的な症状の中には、場面緘黙の特徴的な症状「声が出なくなる」や緘動の症状である「動けなくなる」はありませんでした。

これらは一般的に出る症状ではないため、不安からおきる症状として広く認識されていないということ…。だから、「わざと話さない」とか「意固地」とか思われてしまうんですね――その反面、家庭や学校外では普通に話せるので、保護者は「今は恥ずかしがり屋でも、成長すれば大丈夫だろう」と思いがちです。

子どもが自分から「学校で話せない」と言い出すことは殆どないと思うので、担任に「学校でひとことも話しません」と指摘されて驚愕する保護者も多いのでは?だからこそ、学校側が「あれっ」と思ったら、放っておかないで保護者に相談して欲しいと思います。

子ども自身は「自分と他の子との違い」に早い時期から敏感に気づいているよう。「なぜ自分は他の子のように話せないのか?できないのか?」――幼児の心の中でそれはとても大きな問題です。が、幼心に「話せないことは悪いこと」と感じ、そのことに触れられることを嫌がる子が多いんじゃないでしょうか?

問題に気づくまでに時間がかかると、かかった時間だけ緘黙が定着してしまい対応がより大変になる可能性があるので、とにかく早期発見が第一。専門家の助言がなくても、子どもの不安を減らす工夫はできるはず。気づいたらすぐ、どうしたらその子が安心できるのか、よく観察してその子に合った対応をすることが大切だと思います。

Country Living誌の記事を翻訳していて気になったのは、「何種類かの症状が重ねて出る人もいる」という部分。不安だから緘黙状態になっている訳ですが、重症の場合は「身体全体が硬直」「動きが緩慢になる」、いわゆる「緘動」の症状が出てしまうことも(これは筋肉の緊張に関係在るんでしょうか?)。

他にも、心臓がドキドキしたり、緊張でお腹が痛くなったり、頭が真っ白になったりすることもあるかと思うんです。そういう時、子どもはそれを隠そうとして、身体がこわばって姿勢がぎこちなくなったりするのでは?授業中にそんな状態だと、相当疲れるはずだし、授業が耳に入らなくなるでしょう。

以前にも書きましたが、私は中学生になるまですごい内弁慶で、非常に大人しい子どもだと思われていました。学校ではとにかく目立ちたくなかったです。

小学校2年生くらいのある日、授業中にお腹が痛くなったんです。「お腹痛~い」「先生に言わなくちゃ、でも怖い」「保健室に連れて行かれるかも」「もしかして盲腸?死んじゃうかも」などと、頭の中は不安でいっぱい。

心臓ではなく頭が鼓動してるような感じで、冷や汗まで出てきたのですが、絶対に気付かれたくない。とにかく平静を装うよう努力しました。休み時間まで多分20分ほどだったと思うのですが、時間が永遠に過ぎないのではないかと思うくらい長かったです。

ところが、チャイムが鳴って授業が終わった途端、私の腹痛はきれいサッパリなくなってしまったのです!(きっと不安のために腹痛が増長されたんでしょう)たしか国語の時間だった覚えがあるのですが、全く授業どころじゃありませんでした。

(この時の先生はそれほど神経の細やかな人ではなかったと思うんですね。まあ、当時はひとクラス45人くらいいたので、授業を進めるのに集中してたのかもしれませんが…。子どもの細かな変化に気づく先生、さり気なく支援できる先生というのは、それほど多くないのかもしれません)

あと、私は授業中に手を挙げることはありましたが、いつも当たらないように願ってました…。答えが解っていても、立ち上がってみんなの前で言うのは恥ずかしい。でも、手を挙げないと解ってないと思われる――胸の中には常にこんな葛藤があったんです。でも、「当てて欲しくない」という気持ちが強いほど、当てられるんですよね…。きっと、隠れよう隠れようとする態度が、かえって悪目立ちしてたんでしょう。

それから、自分ではちゃんと手を挙げてるつもりでも、傍から見ると中途半端な挙げ方だったんだろうなと…。よく観察すれば自信がないのがミエミエだっただろうと思います。小学校までは、休み時間に自分が属する「おとなしい子小グループ」にいる時だけが、ほっとできる時間でした。

緘黙であっても、授業中でも割とリラックスして見え特定の友達となら小声で話せる子、話せなくても休み時間は友達と元気に遊べる子から、緘動で授業中は先生に手を添えてもらわないと字も書けない子まで、緘黙の状態は様々です。

だからこそ、ひとりひとりの子どもをよく観察して、その子にあった対処法・支援法を考えてもらいたいと思います。

緘黙が長期間に渡ると、社会不安障害、パニック障害、強迫性障害(OCD)など不安に起因するメンタルヘルスの問題を併発することが多くなるよう。多分、思春期に入ると「集団の中の自分」を客観的に捉えるようになり、人と比較して「自分ができないこと」を自覚し、自己否定したり、自信をなくして悩み・苦しむことが大きな原因じゃないかと思えるのです。

(緘黙であっても、自己肯定感をキープできることが重要になってくると思います。のびのびできる家庭環境、得意なこと、打ち込めることがあるといいですよね)。

それまで抱えてきた他の不安の症状も、緘黙と同じように悪化したり、固定化してしまうのではないか?そうなると、もう自分ひとりでは克服が難しくなるかもしれません。

複数の不安の症状が表面化し、勉強面で遅れが出たり、登校拒否や不登校になってから保護者が動き出しても、子どもが思春期だと支援に抵抗を覚えることも..。

小学校の低学年くらいまでは、周囲の子どもも「他者と自分の差」にそれほど頓着しないもの。大人のような疑問や偏見はまだなく、「この子はこういう子」と丸ごと受けとめる年齢だと思います(反面、あまり考えずにストレートにものを言うので要注意ですが)。

やはり、早期発見・介入は大切だなと思わずにはいられません。

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