プラハの夏休み(その5)

今日は8月最後の日。学校の夏休みは今週末までですが、金曜日には職員会もあるし、雨続きでもうすっかり秋の気候--今年の夏は肌寒いまま終わってしまったような…。今ではその猛暑が嘘のようなプラハの夏休みの記録は、今回でお終いです。

プラハ滞在5日目は、カレル橋の袂にある大複合建築、クレメンティナム(Klementinum) の見学から。入口がすご~く判りにくくて、やっと探り当てたら、入口のある中庭は巷の雑踏がウソのような静けさ。私たちと一緒に30分毎のツアーに参加したのは、わずか20名弱でした。

クレメンティナムの前身は11世紀に建てられた聖クレメント教会。中世にドミニコ会の修道院として使われた後、16世紀にイエズス会の神学校となり、17世紀には大学に昇格。18世紀には、オーストリア女大公マリア・テレジア(マリー・アントワネットの母君)のもと、2ヘクタールの敷地に天文塔、大学、図書館を有するヨーロッパ有数の大複合施設となったそう。

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 中庭から見た天文塔の外観(左)と鏡の礼拝堂。礼拝堂にはパイプオルガンがあり、毎晩のようにコンサートが行われているようでした

上階に行く際「エレベーターが必要な方?」というガイドの問いかけに、手を挙げた人は誰もいませんでした--が、実はひとりずつしか登れない狭い螺旋階段しかないんです!年配の方にはかなり危険!2階にはフレスコ画が美しいバロック様式の図書館があり、神学書を中心に2万冊ほどの蔵書と中世の地球儀や天文儀の貴重なコレクションが。

残念ながら入場も撮影も禁止だったんですが、画像を見つけたのでよろしかったらどうぞ。https://en.wikipedia.org/wiki/Clementinum#/media/File:Clementinum_library2.jpg

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    天文塔からの風景。塔に登る階段も1段1段が高くて、しかも下が丸見えなので、手摺につかまらないと怖い…

さて、次はモルダヴ河の西岸河にあるカフカ博物館へ。ここはミュシャ美術館と提携していて、一方の入場券を購入すると、もう一方が半額になるシステム(どちらも小規模なので、そのくらいでちょうどいい値段です)。ミュシャ美術館は前日訪れたんですが、ついでに書いておきますね。

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アールヌーボーの旗手として知られるアルフォンス・ミュシャ(1860-1939年) といえば、美麗な女性を描いた装飾的なポスターや商業デザインで有名。女優サラ・ベルナールの舞台ポスターを描いて大ブレークしましたが、実はピンチヒッターとして依頼された仕事だったとか。

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ミュシャの生涯を綴った映像を観て、祖国チェコや自分のルーツに対する愛着の深さを初めて知りました。パリやアメリカで商業的な成功をおさめた後祖国に戻り、20年かけて油彩画の連作『スラヴ叙事詩』を制作し、市庁舎の内装など精力的に行っています。チェコスロバキア共和国成立の際には、無償で紙幣や切手などのデザインを請け負ったそう。

余談ですが、パリ時代の白黒写真の中に、ミュシャのアトリエでポスト印象派の画家、ポール・ゴーギャンがオルガンを弾いているユーモラスな写真(1893-4年撮影)を発見。上着からシャツがはみ出し、ズボンも靴も履いてないんです。気のおけない間柄だったんでしょうね…ポスト印象派と後のアールヌーボーの巨匠の共同生活って、なんだか不思議な感じがしました。その5年前、ゴーギャンがアルルでゴッホと共同生活した際は、ゴッホの壮絶な耳切り事件が起きてしまったんですよね…ゴッホは全く売れない画家のまま1890年に死没。現在のゴッホへの評価を思うと、やるせない気持ちになります。

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話を元に戻して。カフカ博物館へはカレル橋の雑踏を避けてその北側にある橋を渡って行きましたが、とにかく暑い!でも、館内では外の光を遮断し、展示は全て薄暗がりの中。

プラハの裕福なユダヤ人家庭に生まれたカフカ(1883-1924年)は、少数派だった支配階級の言語、ドイツ語で教育を受けました。そのため、ドイツ文化にもユダヤ文化にも馴染めず、文学や芸術を解さない父親との軋轢もあり、自らを異端と感じていたそう。プラハ大学で法律を学んだ後、保険局員として働きながら執筆活動に励みましたが、無理がたたって肺結核にかかり41歳になる前に短い生涯を閉じています。

ここでカフカがものすごい心配症だったことを知り、彼もHSP(Highly Sensitive Person) だったんだ~と、とっても親近感を覚えました。人前ではいたって物静かで目立たず、聞き役に回っていたとか。カフカが安全ヘルメットの発明者だって知ってました?! 仕事で諸企業の生涯危険度の査定・分類、これに対する訴訟の処理を担当していたため、出張や工場視察が多かったらしいのですが、万一のことを考えて常に軍用ヘルメットを被っていたんだそう。事故防止のマニュアル作成の実績もあるのです。心配症で神経細やかで几帳面でもあったのかな?

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とっても立派なギフトショップ。ミュシャアイテムも揃ってました

カフカが深く関わった女性は4人いたようですが、最初に婚約したフェリーツェとは、結婚したら執筆活動ができなくなるかもという不安が募り、婚約を破棄…。この女性にはめちゃくちゃ酷ですが、ああそういう面倒な性格だったんだと、何となく納得してしまいました。(フェリーツェとは再婚約したのですが、その時は肺結核に侵されていることが発覚して、再び婚約破棄--うわ~2回も辛酸を舐めたんですね…)。

カフカといえば、学生時代に『変身』を読んで鮮烈な印象を受けた記憶があるものの、その後ずーっとその存在を忘れてました。村上春樹の『海辺のカフカ』を読んで、彼のことを思い出した方も多かったのでは?主人公の少年はカラスと呼ばれてるんですが、カフカはチェコ語で「子ガラス」という意味。ちなみに、カフカの著作『田舎の婚礼準備』では、主人公ラバン(Raban)がドイツ語の「カラス(Rabe)」を思わせる名前です。

” ある朝、グレゴール・ザムザが、落ち着かない夢から目ざめてみると、彼は自分がベッドのなかで、大きな毒虫に変わっているのに気がついた。(『カフカ:変身 世界の文学セレクション36』辻ひかる訳)”

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展示されていたカフカ自筆のイラスト。独特の味がありますね。

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カフカの小説は不条理で非現実的な世界で知られていますが、その作風から”カフカエスク” (Kafkaesque「カフカ風」「カフカ的」)という言葉が生まれています。カフカの出生地であることを意識してか、小綺麗なプラハの街を歩いていると、カフカエスクな彫刻やオブジェとの「あれっ」という出会いが…。

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最後の大道芸人さんは別ですが、予期してないところにこういう不思議な光景が見られます

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  最後の夜は、モルダヴ河で足漕ぎボートに乗って夕涼み。むっとした暑さが嘘のように河辺の涼風が心地よかったです

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9時を過ぎると、ボートにカンテラを灯してくれます

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ボートを降りた後に遭遇したこのオブジェも、相当不思議な光景でした

あれっ、書いてる内に日付が変わって9月に突入してしまいました。最後までお付き合い下さった方、長いことありがとうございます。

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