SM H.E.L.P. 2022年10月サミット(その3・エイブリーさん)親子の緘黙

イギリスでは12月に入って急に冷え込んできました。夕方4時頃になるともう薄暗くて、長~い冬の到来という感じです。光熱費や食料品、ガソリン代などが高騰していて、鉄道、郵便局、医療スタッフや救急車まで、クリスマスにかけてストが目白押し…人々の暮らしがどうなってしまうのか、本当に心配です。

散歩する公園のカフェに温かな光を灯すクリスマスツリーや飾り

<エイブリーさんが行った支援>

長女:4歳ころには緘黙などの症状があるのに気づくが、診断がおりたのは6歳。特に、社会性の問題が顕著だった

次女:2歳半~3歳くらいの時から兆候があり、入園の際に極端な母子分離不安が判明

<小児科・ソーシャルワーカーとの取り組み>

長女の症状に気づいてからすぐリサーチを始め、「場面緘黙」という症状名を発見。小児科医に連絡し、病院を通してソーシャルワーカーと2年ほど取り組みを続けた。しかし、少し進歩したところで、「娘さんは私には話すから場面緘黙じゃない。外でも一言二言話せるから、もう私のサポートは必要ない」と支援を打ち切られた。

<心理士との取り組み>

元主人が長女の学芸会をひとりで観に行き、娘の状態を危惧。「全然動かなくて無表情だった。絶対に何かおかしい」と、心理士を受診することを提案。

心理士とCBTを中心にしたセラピーを続けることで、少しずつ改善。誕生会などではしゃべれないが、先生に質問されたら小さな声で短く答えられるように。

それから次女が誕生。入園したあと、何もせず、何も食べられず、他の子達と一緒に座ることさえできない状態だった。

心理士に相談したところ、長女の症状の他に、社会恐怖や全般性不安障害も。より深刻で、園にいる間は全くしゃべらず、わずかに口を動かすだけ。そこからのスタートだった。

<学校での取り組み>

学校や園でもできる限りの支援を求めた。長女は小学校1年生から、次女は幼稚園からIEP(個人支援プラン)を作成してもらうことに成功。オハイオ州ではIEPのある子どもに予算がつくため、これが大きな転換点に。次女は幼稚園で週に3回TA(教育補助員)がつき、心理学者と相談して決めたゴールを目標に、スモールステップの取り組みを実施した。

保護者は子どもの学校での様子が全く分からないから、学校とのコミュニケーションは大切。子どもの可能性を違う視点で見ることもできる。

<心理士からのアドバイス>

・就学前に担任に会う

・教室内でその時々のゴールを子どもに確認させる

・学校と家庭間のコミュニケーションを密に

<講習会などへの参加>

場面緘黙の講習会にも積極的に参加。学んだ知識や情報をもとに、より効果的な治療法を探って、心理士の治療と並行して取り組んだ。NYで開催しているBrave Buddy’sにも参加した。

次に、娘たちを連れて1週間のSMキャンプに参加。母子分離不安がある次女は最初は嫌がったが、常にオープンに話していたことで心の準備はできていたと考えている。

長女にはキャンプの効果大で、初めてなのに全ての挑戦をクリアできた。その反面、次女には難関だったが、その後も諦めずに3年ぐらい参加した結果か、囁き声で話せるように。

SMキャンプには保護者の講習会もあり、緘黙への理解、取り組みを継続することの重要性、各ステップの実施、不安がどのように機能するか、していい事いけないことなどを学習。不安を抱える保護者にとって、緘黙は改善できるという希望を持てた。キャンプ終了後に普段の生活で何をすればいいのか学べたのも収穫。

成功のモメンタム(勢い)を継続させるため、高額だったが心理士を2人に増やした。場面緘黙を専門とする心理士と月に1度オンラインで話し(母親のみ)、取り組みや対処法を細かく計画。もう一人の心理士に取り組みを実践してもらう方法で、数年間続けた。

<専門家を味方につけること>

母子で取り組みをしていると、母と子の関係がセラピストと緘黙児の関係に変わってしまうことがある。だから、第三者の心理士がいるのはとても大切。その上に、学校関係者と専門家を含めたチームを作ることができれば、異なる場所(家と学校)での子どもの状態や進歩を確認できる。

<薬の服用について>

薬は最後の手段にして、まずできることを全部やってみた。次女の場合はSMキャンプを数年続けたが、心理士に「話す時だけでなく、通常でも不安が強い」と言われ(ASDの可能性も考えている)、服用に踏み切ることに。プロザックを低量から開始。

服用3日目に「私、話してる。どうしてこんなに話せるの?ママ、友達に言って」と、娘から言ってきた(この状態は継続した訳ではなかったよう)。これが、自分から友達に電話する挑戦を後押しすることに。

自分が「声を出せる」「話せる」と解った時、「自分はできるんだ」と考え方が変わり、自信が持てる。色々治療を試してみて、超えられない不安の壁があると解ったら、薬を試してみてもいいのではと思う。

(またまた次回に続きます)

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SM H.E.L.P. 2022年10月サミット

SM H.E.L.P.2020年10月サミット(その2)

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SM H.E.L.P. 2022年10月サミット(その2・エイブリーさん)親子の緘黙

天気が変わりやすい灰色の日々が続くイギリス。時どき青空が見えると、本当にほっとします。

    勤務先は小高い丘の上。母と小学生の子ども達による通勤路の街路樹アートはまだまだ続く

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さて、SM H.E.L.P.の秋サミットの続きです。

講演者: アメリカ在住のエイブリー(Avery Sunshine)さん。緘黙体験者で2人の娘の緘黙を支援しているうちに、自らの緘黙の過去を断ち切り理想としていた自分になることに成功。現在、他の子ども達や保護者が内なる太陽を見つけられるよう支援を行っている。エイブリーさんのサイト:sunshine mindset

<成人しても緘黙に苦しんできた>

私は人生のほとんどを社会不安、分離不安、場面緘黙に悩まされてきました。そんな私が変わったのは、幼い娘たち2人に同じ兆候があると気づいたとき。娘たちには自分とは違う未来を歩んで欲しい――勇気を奮い起こしてサポートしている内に自分自身も変わることができたんです。今では、かつて理想としていた人生を送れています。

<場面緘黙と社会不安>

私は幼少の頃から、極端に内気で不安の強い子どもでした。それは大人になってからも変わらなかったわ。これらの症状は場面緘黙の人なら誰でも持っているという訳ではないけれど、重なる部分も多いのでは?

<場面緘黙と社会不安の違い>

場面緘黙と社会不安との違いは、SMは話すこと・口語でのコミュニケーションに対する恐怖症。一方、社会不安は自分がいつも舞台の上にいるような気持ち――常に人に見られていて、どう判断されることへの恐れです。この2つが併存していることは多いのではないでしょうか?

<幼少期の思い出>

小さい頃は社会不安が大きくて、両親としか話せなかった。自分から友達を作れなかったから、母が友達を連れてきてくれたけど、すごく孤独でした。

中学では虐めにあって「ミュート(唖)」と呼ばれて…。特にひとりに虐めのターゲットにされて、髪にガムをつけられたり、持っている本を落とされたり。どうしていいか判らず、とにかく忙しいふりをしていたの。ひとりで座ったり、誰かのグループに入ったりする勇気がなかったから、用事もないのに学校の公衆電話から母親の職場に電話したり…。すごく大変だった。

高校では少しマシになったけど、個人発表やグループプロジェクトが苦痛で。1000%正しいと解っていても、挙手できない。個人の発表が迫ってくると、仮病で学校を休むすこともしばしば。課外活動を見学に来た母が、誰にも話をせず・かかわらず、何もしない私を見て狼狽していたのを覚えています。

<子どもの心情を理解して>

保護者や教師たちが子どもの心情を理解することは本当に大切。「恥ずかしがり屋なだけ。成長したら治るから大丈夫」と客観視するのは危険です。子どもは心の中で多くの葛藤を抱えている。独りぼっちでいたくないのに、自分からグループに混じることはできない――どうしたら輪の中にいるよう見えるのか、絶えず心配し心を痛めていました。それなのに、傍からは「平気そうだから大丈夫」とみられてしまう。誰かに判ってもらえるだけで、全然違うと思います。

<子どもが抱えている違和感>

「私はみんなとどこか違う。どこがいけないの?」と自分でも判ってました。実は、私の家庭は機能不全で健全ではなかったから、家族からのサポートや手引きを受けるのは無理だったの。「もし支援を受けられていたら、自分の人生はどう変わっていたんだろう」とよく思います。

娘たちが生まれるまでは、自分はこんな家庭で育ったからこんな風なんだと思い込んでいた――娘たちが私と同じパターンの行動を取るようになるまで。その時点で、やっと自分が場面緘黙で不安障害と分離不安も抱えていたことを発見したの。私が娘たちに注いでいる愛情や支援が、私の両親にはまったくなかった。大きな困難を抱えていたのに…。支援や支援チームがあるかないかとでは、子どもの未来が全く変わってくると思います。

(長いので次回に続きます)

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SM H.E.L.P. 2022年10月サミット

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ISU フィギュアスケート イギリス・シェフィールド杯

もう11月も後半ですね。しばらくブログをお休みしてしまいました。

私はずーっと昔からフィギュアスケートのファンなんですが、今年ISUグランプリシリーズの試合が、初めてイギリスで開催されることになりました。ロシアがドーピング事件と戦争で、中国がゼロコロナ政策で開催中止となり、急遽シェフィールドが立候補したのです。

イギリスでの国際大会ってめったにないので、先週末11~13日に観戦してきました。また、シェフィールドには主人の大学時代の友だち家族がいるので(お互いの結婚式に出席した後、私は今年春に再会(^^;)、泊めてもらって親交を温める目的も。

        グランプリシリーズが開催されたアイスシェフィールド(IceSheffield)

最終日は路線工事のためロンドンに戻るのに電車とバス乗り継ぎで5時間近くかかり、夕方7時からのエキシビションは観れず…。寒かったためか翌日から何年振りかの風邪をひき、ダウンしていました。最近、緘黙ブログが少ないと思いつつ、記念のためにフィギュア観戦のことを書き留めておこうと思います。

    赤丸急上昇中、アイスダンスのフィアー&ギブソン組(英)

イギリスで有名なスケーターといえば、思い浮かぶのはトービル&ディーンとかロビン・カズンズぐらい? ひと昔前という感じですが、最近アイスダンスのフィアー&ギブソン組がぐんぐん頭角を現してきて、今年は世界トップ5に入りそうな勢いです。

日本人選手で参戦したのは、女子シングルの三原舞依と男子シングルの佐藤俊、島田高志郎、壷井達也の4選手のみ。熱烈応援しているアイスダンスのかなだい組が来なくて残念でしたが、とにかくこの機会を逃す手はない。途中、お誘いしたスケオタ友が抜けてしまったものの、独りでも行く気満々(^^;

(国内のフィギュア人気が低いから、チケットは安いんじゃないか?! そう考えていた私は甘かった…イベント通し券は300ポンド(約5万円)+手数料。う~ん、さすが国際大会)

  

  私の席はジャッジ席の左側で1列目はカメラマン席。ジャッジがメモを取りながら、ボタンを押すところもバッチリ見えました。各試合の前に人の手で穴を埋めてから製氷車で氷を整えます。6分間練習は大迫力

で、実際に行ってみたら会場が小さい!1500人収容だそうで、TV画面で観る選手たちが3Dビジョンになって飛び出してくる様な感じ。臨床感と躍動感が半端なかったです。どういう訳か2列目の席に変更されたので、近くに来る選手たちの表情まで見えました。男子シングルで1位になったダニエル・グラッスル選手(伊)が、目の前で3Aを決めてニッコリ笑うと、左隣の若い英国人女子達から「キャーッ!!!」っと悲鳴が(^^;

友達宅が会場と正反対の方角だったのもあり、私は午前中の公式練習はパスして試合から見たのですが、TVで観るのと違って選手たちの体格や滑りが目の前。「こんな感じなんだ~」と発見がたくさんありました。例えば、小柄な選手が多かった女子シングル選手の中で、韓国のヨン・ユー選手はかなり大柄。彼女が滑るとゴーっという音が聞こえてびっくり。その反面、小柄で細い三原選手は丁寧な滑りで殆ど音がしませんでした。

この大会のハイライトは、まず男子シングルのデニス・バシリエフス選手(ラトビア)。ショートで3位につけた彼は、フリーの6分間練習では転びまくり。他の選手がジャンプを決める中、大柄なのですごく目立つ訳です。大丈夫かな~と思っていたら、試合では一度も転ぶことなく演技がどんどん盛り上がり、ジャンプやスピンを決めるたびに「ワーッ!」という大歓声と拍手。滑り終えた時には、皆立ち上がって大会初の総スタオベになっていました。2日目が終了した時点で手が痛かった(^^;

  

   ランビ先生も満足気。佐藤俊選手は丁寧な滑りで3位に

次のハイライトと総スタオベは三原舞依選手。演技前から凄い声援で、会場中に日の丸が。私は持参した小ぶりの旗を振っていたのですが、右側でひとりクールに観戦していた女性が特大の日の丸を取り出し、左隣の女子たちは💛マークの手描きバナーと特大日の丸で大声援。ありがとぉお💛

最終滑走で、しかも前のイザボー・レヴィト選手(米、15歳)が143点出したので、ひとつも失敗できない重大な局面。でも滑り出すと、柔らかさと優雅さの中に力強さも感じられました。技をひとつ決めるごとに大声援が飛び、最後のロングスパイラルで会場は大盛り上がり。こちらも盛大なスタオベとなりましたが、演技が終わって小走りする姿、キスクラで縫いぐるみの陰に隠れる姿が可愛かったです。

  

    なんとグランプリシリーズ初優勝だそう。本当におめでとう!来週のヘルシンキ杯でも上位に入って、是非ファイナルに行って欲しいです。

そして、イギリス人が大熱狂したのが、自国のフィアー&ギブソン!氷の上を飛んでいるような滑りで、応援ともども凄かったです。

表彰式ではロビン・カズンズから花束贈呈

今回、感心したのは英国人スケオタ達の応援。どの選手にも温かい拍手と声援はもちろん、各国の国旗や手描のバナー、縫いぐるみ(小さいのは会場で販売)の投げ入れも多かった。私の左隣は20代の女子3名ほどだったのですが、英国の他に日本、アメリカ、カナダ、ラトビア、ジョージア、スイスなど何種類もの特大国旗や手描きバナー、そして投げ入れ用のヌイグルミも毎日準備。

左隣の子はロマン・サドフスキー(カナダ)の大ファンだったようで、フリーで彼が登場した途端、「あー、気絶する!!!」と絶叫。が、残念ながらジャンプの失敗が多く、ショート1位から総合6位に。それでも、彼女は元気に他選手の応援を続けたのでした。偉い!

今回の観戦で色々な人とおしゃべりしたのですが、海外に観戦に行くという強者も多くて、みんな詳しかったです。中でも、三原選手のファンが多くて、病気のことや昨年の全日本で北京オリンピックを逃したことを話をしたら、「ああ、近くに座ってる日本人ファンから聞いたわ」と(^^;

小規模な会場だったけど、温かい応援が嬉しいシェフィールドのMKジョン・ウィルソン杯でした。ちなみに、スポンサーのMK社とジョン・ウィルソン社はフィギュアスケートのブレードを製造する世界有数の企業なのだそう。ブレードはかつて鉄鋼業の街として有名だったシャフィールドの特産品のひとつなんですね。

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SM H.E.L.P. 2022年10月サミット

今日はイギリスの緘黙支援団体、SMiRA(Selecive Mutism Information & Research Association )の30周年記念日です㊗ どうもおめでとうございます🎊

故会長のアリスさんとコーディネーターのリンジーさんがSMiRAを創設してくれたお陰で、我が家を含めどれだけ多くの家族が助けられたか。

関係者の皆さんの努力に、本当に頭が下がります。長い間ありがとうございます。

秋も深まってきて、日暮れがどんどん早くなってきました

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10月は場面緘黙の啓発月なのでSMiRAでもオンライン講習会などを開催しているのですが、時間が取れないでいました。やっと先週末にSM H.E.L.P.の秋サミットを視聴できたので、紹介させていただきます。

今秋のサミットでは場面緘黙の経験者や保護者らが自らの体験や支援状況、取り組みなどを語ってくれました。絵本や活動本を出版したり、セッションなどを提供している人も多く、現在子どもの緘黙と格闘している保護者にはとても励みになると思います。

講演者: アメリカ在住のヴェロニカ(Veronica DeStefano)さん。3人の子どもの母親で次女のルーシーちゃんが緘黙

ルーシーは他の子とどこか違う――そう気付いたのは、ルーシーが3歳のころ。幼稚園に通い始めて1年の間、「すごく静かで、全然話さない」と言われ続けたとか。最初は「とてもシャイだけど、今に慣れるわ」と答えていましたが、結局最後まで慣れることはなかったのです。

全く応答しないため園ではアセスメントも図工もできず、自宅に送られてくることに。話せないだけでなく、行動の抑制もあり、ルーシーが園で何を学び、何ができるのか全く見当がつかない状態でした。

「本当に不思議だったわ。家では姉弟の中でも一番賑やかで、ものおじせず声も大きいの。頑固なところもあるわね。園に入るのを楽しみにしてたのに、園と家では全く別人のようで…」

4歳検診の際に医師に1年間ずっと園で話さなかったことを告げると、「それは内気なだけじゃない、違う症状です」といわれました。

幸運なことに、そのクリニックで働く同僚の息子が場面緘黙と診断されたばかりだったとか。医師は同僚に意見を聞き、同じ症状だと確認。ヴェロニカさんは場面緘黙に関する情報や専門家・セラピストのリストを入手することができたのです。

すぐに行動を起こし、デンバーの不安障害センターを訪問。そこで正式に診断が下り、翌月には娘と一緒にSMキッズキャンプに参加したそう。

キッズキャンプで出会った専門家の協力を得て、園での支援体制を整えることができ、家でもスモールステップでの取り組みを始めました。

ルーシーは順調に進歩し続け、現在はレストランで注文したり、クラスでの発表もできるように。支援チームができたことで先生とクラスメイトの理解も得られ、友達もできたということ。ただ、7歳になった現在、学年が上がって新しい校舎、新しい支援チームと環境が変わり、家で癇癪を起こすことも。始めて学校に行きたくないと言い始めたとか。

SM H.E.L.P. 主催者のケリーさんとのQ&Aから

<場面緘黙の知名度はまだまだ低い>

「ルーシーはいつも隅っこにいて、誰とも遊ぼうとしない」と教諭にいわれ、不安が募った。医師から「場面緘黙」という症状名を聞くまで、誰も知らなくて…。ネットを検索すると多くの情報やビデオが出てくるのに、何故教諭や医師が知らなかったのか疑問に思った。

<SMと恥ずかしがり屋の違い>

極端にシャイな子でも最終的には人や環境に慣れて、遊びに加わったり、話したりするようになると思う。でも緘黙児は違う。いつまで経っても慣れることができず、不安が強いまま。特に、顔の表情が違うと思う――恐怖のためか無表情でその場にいたくないのが明白に感じ取れた。

<SMキッズキャンプ>

キャンプに参加した時は最年少。1日8時間のセッションで、色々なことにチャレンジさせてくれた。例えば、犬と猫とどちらが好きか他の子達にステッカーで答えてもらったり、1ドルショップで買い物をしたり。チャレンジブックにたくさんのステッカーをもらえて、それが自信に繋がった。今でも時々眺めて「こんなに頑張れたんだね」と話すそう。キャンプでは途中で疲れてスタッフの膝で寝てしまったことも。

保護者のミーティングでは主催者が長時間の質疑応答に応えてくれ、とても有意義だった。また、ここで出会った専門家が園に来て緘黙についての講習を行ったことで、支援体制を整えることができた。

<家庭での取り組み>

短時間の間にキャンプで学んだエクスポージャー法を、帰宅してからさっそく日常生活で実行。それが大きなターニング・ポイントとなった。

例えば、レストランに行ったら「注文を取りに来た時、あの小さい女の子に水がいいか、レモネードがいいか訊いてくれる?」と事前にウエイトレスに耳打ちするなど。常時、何ができそうかを考えて計画を立てる。娘の前で「この子の名前を訊いてくれる?」と訊ねるのは自身も恥ずかしいけれど、母親が勇気を出している姿を見せることも大切という。

<IEPと支援体制の重要性>

園や学校に緘黙の知識をつけてもらえるよう働きかけることは本当に重要。関わるスタッフ全員にルーシーのニーズを知ってもらえ、学校全体で対処できるようになる。特に、IEP(個別教育支援プラン)を作ってもらえたことが大きかったと思う。

<著書:『ルーシー・レモンと勇気のシャボン玉』>

ヴェロニカさんは自らの体験を生かして緘黙支援本『ルーシー・レモンと勇気のシャボン玉』シリーズを3冊出版。1冊目は子どもにも判りやすく緘黙を、2冊目はエクスポージャー法を説明。3冊目はエクスポージャー法にスモールステップで挑戦する実践的な内容。

Lucy Lemon and the Brave Bubbles      

Lucy Lemon’s Brave Bubble Pop!

Lucy Lemon’s Brave Bubble Activity Book

 

 

 

みく感想:

やはり緘黙治療には早期発見・治療が必須だと思い知らされます。診断後すぐにSMキッズキャンプに参加したり、専門家と学校との懸け橋になるなど、ヴェロニカさんの行動力には脱帽です。アメリカでも、イギリスでもそうですが、まだまだ緘黙支援が得にくい地区もあり、保護者も大変。抑制的な傾向のある人も多いと思うのですが、保護者もスモールステップで勇気を出していきたいですね。

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SM H.E.L.P主催者、ケリーさんのスモールステップ(その1)

SM H.E.L.P マギー・ジョンソンさんの講演(その1)

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ノルマンディの夏休み(その3)モネの家と庭を訪ねて

この旅のハイライトのひとつは、印象派画家クロード・モネ(1840~1926年)が晩年を過ごした家と庭園(Maison de Monet)を訪ねること。拠点としたオンフルールの町からジヴェルニー (Giverny)までは車で約120㎞。高速を使えば1時間半ということで、朝早めに出てパリ方面へと車を東に走らせました。

道中まったく混んでおらず、「これは楽勝!」と思ったのもつかの間。メインの駐車場はすでに満車で、オーバーフローの駐車場へ。「えっ、いつの間にこんなに沢山の車が?! 」という位混んでました~(^^;

チケットは事前に予約しておいたのですが、入口が判りづらくてモネ邸と庭の裏側にあるクロード・モネ通りをぐるりと一周するはめに。やっと入ってみると、家の前には長蛇の列が…。

クロード・モネの名前がついた通りと庭から見たモネ宅。邸宅見学は長蛇の列

20分くらい並んでやっと家に入ると、まず目に入ったのは家中の壁に飾ってある広重、北斎、歌麿の浮世絵の数々。1855年に開国した日本からヨーロッパへと、陶器、扇子、着物、美術品などが大量に流入。日本文化の一大ブームが起こりました。当時は、浮世絵(版画)が陶器や漆器の梱包材として使われており、これが画家たちの注目を浴びたのです。

遠近法を無視したような構図、大胆なフォルムや色使いは、全く新しい美の形・世界として多くの芸術家たちを刺激しました。モネもそのひとりで、30代の頃から浮世絵を集めはじめ、コレクションの総数は290点を超えるとか。モネの代表作である睡蓮は浮世絵の画法の影響を色濃く受けています。

   いたるところに浮世絵のコレクション(左)。アトリエには自らの作品の他、印象派画家の作品が。モネが息を引き取った2階の寝室にはセザンヌとルノワールが飾られて(右)

   薄いピンク系の外壁に鮮やかな緑の窓枠。キッチンはレモンイエローや水色などパステル系が使われていたのが印象的でした

家の前に広がる庭園(Le Clos Normand)は2.5エーカーの広さ。モネが丹精して改造し、広げていった庭には、色とりどりの四季の花々が咲き乱れ、40年間彼の作品のインスピレーションとなったのです。

 

  家屋からまっすぐ続く中央のアーチの両側に広々とした庭が。黄色やオレンジ系の夏の花を中心に、自然の風情そのままに咲き乱れる花々。バラもカモミールも画家の心を癒し、創作意欲をかきたてたんですね

フランスで感じたのは、イギリスとは光が違うなということ。どう表現したらいいのか難しいんですが、より透明で眩しい光。モネの庭の花々を、緑を、より鮮明に息づかせているように感じました。

モネといえば、まず最初に思い浮かべるのが『睡蓮』の絵ですよね。その睡蓮の咲く池のある庭(Le Jardin D’eau)は、道を隔てた向こう側にあります。清流の流れる小川沿いの小路を歩いて行くのですが、片側は竹林風でところどころに緑の橋が架かり、ここにも日本文化の影響が。

  竹林の脇を通って睡蓮の池へ。モネの絵に描かれた緑のお太鼓橋は人だらけ(^^;

モネが偶然通りかかって心惹かれ、定住地と決めてジヴェルニーに移り住んだ頃、モネの経済・精神状態は決して良くありませんでした。最愛の妻、カミーユが幼い子ども達を残して先立ち、パトロンのオシュデは破産という厳しい状態--まだ印象派が革新的と受け止められていた時代。でも、この頃からモネの作品は認められ始め、買い手がつくように。暮らしは安定し、庭師や家政婦などの使用人を雇えるようになっていったのです。

1983年に借りたスタジオ件自宅と小さな庭のついた果樹園を徐々に改装・改造し、1890年には買い取って、更にスタジオや生活スペースを増設。道を隔てて庭に隣接する土地を買い求め、小川を利用して有名な睡蓮の池造りにものり出します。モネは目を患いながらも、1899年から20年に渡って睡蓮や池の絵を描き続けました。

睡蓮の池を後にして、お昼ご飯を食べる場所を物色。モネの作品がたくさんあるだろうと期待して、ランチもかねてジヴェルニー印象派美術館(Musée des Impressionnismes Giverny)へ。レストランが満席だったため、先に展示を観ることにしたんですが、モネの作品は睡蓮の池を描いた1点しかなくて、後は印象派の歴史とその後に焦点を当てた展示(また予習不足)…。シスリー、モーリス・ドニ、モネに大きな影響を受けた平松礼二等の作品などが飾られていました。

2時過ぎにレストランに戻ると、店内はガラガラ。主人と息子はエスカルゴに挑戦し、私はメインに牛肉のカルパッチョ、デザートに巨大な焼きプリンとラテを堪能しました。今回の旅行では一番美味しかったけれど、3人で1万4000円位と、やっぱりすごく高かったです😢 自動的に夜は自炊…。

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ノルマンディの夏休み(その1)樫の木の礼拝堂

ノルマンディの夏休み(その2)印象派の画家たちを魅了した風景

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ノルマンディの夏休み(その2) 印象派の画家たちを魅了した風景

もう10月に入り、場面緘黙およびメンタルヘルス全般の啓発月になりました。が、夏休みの記憶がこれ以上薄れないうちに、まず旅行記を書きとめておこうと思います。

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ノルマンデイに着いて2日目。午前中は拠点としたオンフルール(Honfluer)の町を探索し、午後から北上してイギリス海峡を望む白亜の断崖とエトルタ(Étretat)の庭園を見に行くことに。どちらも風光明媚な観光地として知られ、モネやクールベなど印象派の画家たちが集った町です。

まずはオンフルール旧市街をぶらぶら。なにせ借りたアパートが旧市街のど真ん中だったので、名所は目と鼻の先。今回の旅行はどこに行っても観光客だらけでしたが、その殆どがパリなどの都会からバカンスに来ているフランス人でした。

バラのアーチが美しい公園の前を通って、オンフルールのシンボルとなっている旧港(Vieux Bassin)へ

16~18世紀の細長いタウンハウスに囲まれた旧港は、当時の面影がそのまま。石畳の港畔を歩いていると、まるで中世にタイムスリップしたかのよう。静かな水面に反映する建物やヨットの印影が美しく、モネらが好んで描いたというのも頷けます。モネの師匠だったブータンはこの町出身で、近くにブータン美術館も。

   フランス最古の木造教会、サント・カトリーヌ教会(Église Sainte-Catherine)。広場を挟んで教会の別棟となる木造の鐘楼(現在は博物館)が

次は15世紀に建てられた木造の教会、サント・カトリーヌへ。イギリスとの100年戦争で破壊された石造りの教会を、船大工たちが木造で建て直したもの。資材不足のため近隣の木材を使用し、当時の造船業の技術を駆使して建てたとか。その歴史ゆえ、教会内には船の模型がたくさんありました。

     2コース18ユーロ(現在約2,600円)のランチのお味はまあまあ。エイヒレのバター焼、大鍋に入ったムール貝の白ワイン蒸しは定番。ノルマンディはリンゴ酒シードルの産地で、メニューには必ずアップルパイが

せっかくなので旧港に面したレストランでランチ。当時は間口の大きさで税金の額が決まっていたため、幅が狭く縦に細長い(6、7階建て)タウンハウスが流行したのだとか。

昼食後、白亜の断崖があるエトルタへ。ここにはユニークなエトルタ庭園(Les Jardins D’Étretat)があり、楽しみにしていたのです。セーヌ河口に架けられたノルマンディ橋を渡り、車をとばしてエトルタの町の入口にさしかかると、なんと道路の両脇に路上駐車の車がびっしり(*_*;

海辺のリゾート地とは知ってましたが、こんなに混んでいるとは!(全く予習が足りませんでした(^^;)まだぜんぜん海岸が見えてないのに――なんだかいやな予感。有名な庭園らしいし、駐車場はあるよね?!

その願いも空しく、エトルタ庭園への路はなんと通行止め!仕方なく駐車スペースを探して町をはずれ、やっと車を停めることができました。坂道を25分くらい歩いて崖の上にある庭園へ。ここでも入場券を求める人の長蛇の列…事前に予約しておいて良かった~。

   生垣にいきなり巨大な顔(群)!うずまきのような生垣のデザインは渦潮や波など、ノルマンディの自然を表現したものだとか。庭に設けられたデッキから、アヴァルのアーチ(Porte d’Aval)が見えます

エトルタ庭園はもともと1903年に女優のマダム・テポーが画家モネの援助を得て創設。2016年に造園デザイナーのアレクサンドル・グリヴコが、忘れられていた庭園を樹木と彫刻が織りなす近未来的なコンセプトの庭に再生させました。庭園には15万本以上の植物が植えられ、そこかしこに前衛的な彫刻が。

     アモンの断崖から海を見下ろす礼拝堂とアヴァルのアーチの絶景。右はモネが1819年に描いた同アーチと帆船

エトルタの庭園の西側は小高い丘になっていて、その先は切り立ったアモンの断崖。ここから眺めるアヴァルのアーチ(Porte d’Aval)はまさに絶景!  海を臨む丘の上にはノートル・ダム・ドゥ・ラ・ガルド礼拝堂(Chapelle Notre-Dame-de-la-Garde)が。

予定では、19世紀からリゾート地として有名な海岸まで降りていくつもりだったんです。でも、反対方向に停めてある車まで歩いて戻ることを考えると、ちょっとしんどい…。ということで、絶景を思い切り堪能したあと帰路に着いたのでした。

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ノルマンディの夏休み(その1)

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イギリスの場面緘黙支援団体、SMiRAからの声明文

もう9月も後半ですね。イギリスでは19日にエリザベス女王の国葬を終えてから、穏やかな秋の日が続いています。

 空には一面のうろこ雲。秋バラが咲く中、バラやボケの実が変わりゆく季節を感じさせます

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先週の水曜日、9月21日にSMiRAのFBでコーディネーターのリンジーさんから声明文が発表されました。

「話したがらない(reluctant speaker*)」「話すことに回避的(reluctant talker*)」という表現に関するSMiRAからの声明

SMiRAでは、このところ場面緘黙と同じ意味あいで「話したがらない」「話すことに回避的」という表現の使用が増えてきたことに気づきました。これらの表現を使うことは、誤解を招いたり、場面緘黙の子・人たちは「話せない」のではなく「話すことを拒否している」という誤った考えを助長したりするため、有益ではありません。

会員の家族の多くは、「Selective Mutism 場面緘黙」という症状名は理想的ではないと考えています。というのも、「選択的  Selective(日本語訳は場面)」という言葉は、まだまだ混乱を招きやすいからです。Selective Mutism/ SMにおける「Selective 選択的」とは、あるものには影響を与え、他のものには影響を与えないことを意味する医学用語です。何かを選ぶときに用いる「選択」を指しているのではありません。これは重要な違いです。

「Selective Mutism  場面緘黙」という名前は、アメリカ医学界の診断統計マニュアル(DSM 5)や国際疾病統計マニュアル(ICD 11)により、国際的に認定され、診断基準が設けられています。SMiRAでは、正式に名前が変更されるまでは、この名前を使用すべきだと考えます。

これまでの研究から、場面緘黙はその複雑さ、症状の現れ方、発生に寄与する要因などの点で差異が広範囲にわたることを示す証拠が増えています。単純にタイプ分けしたり、スペクトラムだと説明できないことが明らかになってきました。従って、診断基準に適合するすべてのケースを場面緘黙(SM)と呼ぶべきです。ただし、SMiRAでは現在のところ、ジョンソン&ウィンジェットが2016年に『場面緘黙リソースマニュアル第2版』『ハンドアウト3』で定義した記述「Low Profile Selective Mutism(認識されにくい場面緘黙)」および「High Profile Selective Mutism(認識されやすい場面緘黙)」を引き続き使用します。場面緘黙は今なお見過ごされたり、誤解されがちな症状です。これらの記述を使うことで、若者が緘黙かどうか見分ける際に、話すことが困難な状況で全く無言である必要はないことを明確にすることに役立つはずです。

SMiRAでは過去30年にわたり、場面緘黙は話すことを拒否しているのではなく、(全く話せない、もしくは自由に)話すことができない不安障害としての認識を高め、風説を払拭し、場面緘黙の特性に関する誤った情報に異議を唱える努力をしてきました。今後も精力的に取り組んでいく所存です。

*speaker・talker(話し手)をより解りやすいと思われる表現にしました

SMIRA statement regarding the use of the terms ‘reluctant speaker’ and ‘reluctant talker’.

SMIRA has an increase in the terms ‘reluctant speaker’ and ‘reluctant talker’ being used as synonyms for Selective Mutism. We find the use of these terms is unhelpful, as they may be misleading, he mistaken belief that people with SM may be refusing to speak, rather than being unable to do so.

Many of our families feel that ‘Selective Mutism’ as a name for the condition is not ideal, as there is still confusion over the word ‘Selective’. In SM, ‘Selective’ is being used as a medical term to mean affecting some things and not others. It does not refer to selecting, as in making a choice. This is an important distinction.

The name ‘Selective Mutism’ has international recognition and diagnostic criteria within the Diagnostic Statistical Manual (DSM 5) and the International Classification of Diseases (ICD 11). SMIRA believes that until such time as the name is changed officially it should be the term used.

There is increasing evidence from research to suggest that SM varies widely in complexity, in how it presents and in the factors that contribute to its occurrence. It has become clear that SM cannot be simply divided into types or described as a spectrum and therefore all cases that fit the diagnostic criteria should be entitled ‘Selective Mutism’ or ‘SM’. However, at present, we will continue to use the descriptors ‘Low Profile Selective Mutism’ and ‘High Profile Selective Mutism’ as defined in the Selective Mutism Resource Manual 2nd Ed., Handout 3, Johnson & Wintgens (2016). SM is currently still an often overlooked and misunderstood condition, so we feel that the use of these terms helps to ensure that it is clear that young people do not have to be completely silent in their challenging spaces to “qualify” as having SM.

Over the past thirty years SMIRA has striven to raise awareness of SM as an anxiety disorder in which the person is unable to speak (either at all or freely) rather than refusing to speak, and to dispel myths and challenge misinformation around the nature of SM whenever possible, and we will continue to do so vigorously into the future.”

最近ではASD(自閉症スペクトラム)などの発達障害と場面緘黙を併発するケースの研究や、脳医学的な研究が進み、これまでの場面緘黙の定義が揺らぎ始めているという印象を受けます。それが上記の声明文からもうかがえますね。

もしかしたら、近い将来に場面緘黙の診断基準や定義が変更されるかもしれませんね。ただ、治療法としてCBTを利用したスモールステップ法が有効なのは同じじゃないかなと感じています。

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エリザベス女王を偲んで

ご存知のように、9月8日にエリザベス女王が亡くなられました。車で通勤中に「女王の健康状態が悪化、王族のメンバーがスコットランドのバルモラル城にかけつけている」とのニュースが流れてビックリ。そして、午後6時半頃に訃報が…。

  19日の国葬まで国中が喪に服します。街中に、インターネット上に、女王の死を悼むメッセージが溢れ、私が住む北ロンドン郊外でも電光掲示板に女王のお姿が

その2日前に、リズ・トラス氏を新首相に任命するニュース映像が流れたばかり。かなりお痩せになったなあと思いましたが、久しぶりにいつもの笑顔を見ることができたのに…。

今年6月に行われた即位70周年を記念する祝祭、プラチナジュビリーも記憶に新しく、訃報を聞いて大きな喪失感を覚えました。私は別に王室ファンではないので、それだけ大きな存在だったということですね。

エリザベス女王の長い治世が幕を閉じ、今ひとつの時代の終わりをひしひしと感じています。首相が変わり経済も悪化する中、イギリスはこれからどうなっちゃうのかなという不安も…。

  月曜日にロンドン中心部に行く用事ができ、バッキンガム宮殿まで行ってきました。グリーンパークを抜けて一方通行で宮殿前にたどりつくまで、途切れない人の波

チャーチルの時代から激変するイギリスで、唯一変わらない存在として国と王室を支えてきたエリザベス女王には尊敬の念しかありません。

私は人生の半分以上をイギリスで過ごしているのですが、ちょうど1990年代前半からチャールズ皇太子とダイアナ妃のスキャンダルが大々的に報じられ、王室の人気が急落した時期に居合わせました。

特に、ダイアナ元妃が急逝した際は、バルモラル城に籠っていた女王が批判の的に(王室メンバーは感情を表に出さないのが慣習、かつ女王はウィリアム王子とハリー王子を保護していた)。女王が国民の声に応えてバッキンガム宮殿に戻り、ダイアナ妃の追悼を述べた頃から事態が好転したように記憶しています。

  バッキンガム宮殿のゲートのみならず、近くの公園の樹木の根元にもたくさんの花束が。近隣の花店では花が売り切れ状態に

社会の変動だけでなく、子ども達が次々と巻き起こすスキャンダルが大きな心労だっただろうことは想像に難くありません。最近でもヘンリー王子夫妻の王室離脱、アンドリュー王子の児童買春スキャンダルなど、英王室を揺るがす事件が起きたものの、的確な対処の故か女王が国民の信頼を損なうことはありませんでした。優れた危機管理能力やバランス感覚をお持ちだったんでしょうね。

訃報の後で知ったのですが、幼いころは犬や馬たちに囲まれた田舎のレディーになるのが夢だったとか。ペットのコーギー犬をはじめ、競走馬のオーナーでもあった女王の乗馬好きは有名です。

            花束といっしょに敬意や感謝を表すたくさんのメッセージも。特に、熊のパディントンからみのものが多かったです

そもそも伯父のエドワード8世が退位しなかったら女王になることもなかった訳で、運命に逆らわず与えられた役割を全うされたんですね。21歳の時に「人生を国に尽くす」と宣言され、主体的にその言葉を守ってこられたんだと思います。

周囲の反対を覆して、13歳の時の初恋の相手だったフィリップ王子と結婚されたエピソードからは、忍耐強さや自分の意思を貫く強さが伝わってきます。

25歳で即位してから96歳まで、70年の在位は英国史上最長。世界的にも72年在位したルイ14世に次ぐ第2位だそう。母君のエリザベス王太后が101歳と長寿だったので、100歳まで頑張っていただきたいと願ってましたが…。

生涯現役という言葉がありますが、エリザベス女王はまさにそのお手本のよう。身体が衰弱していたはずなのに、最後の最後まで公務を行ったのがすごい!

そして、女王のユーモアのセンスも忘れられませんよね。ロンドンオリンピックでのジェームズ・ボンドとの共演、そしてプラチナジュビリーのパディントンとの共演は、女王からの贈りもののような気がしています。それまでは、クリスマスに放送される『女王のお言葉』で、真面目な面しか見えていなかったので。

どうぞ安らかにお眠りください。

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ノルマンディの夏休み(その1)

もう9月に入ってしまいましたね。イギリスは8月末からすっかり秋の気候に変わり、夜は冷えるので長袖が必要。急ぎのフリーの仕事が一段落したので、やっと夏休みの話題です。

この春からイギリスでは3年ぶりにコロナ規制が全て取り払われました。「もう面倒な証明書は要らないし、これが絶好のチャンス!」とばかりに、夏休みに海外に出る人が続出。我が家もフランス北西部のノルマンディ(Normandy)地方に行ってきました。

イギリスから車でフランスに渡るには、フェリーとユーロトンネル(汽車)の2つの方法があります。所要時間はフェリーだと1時間半、ユーロトンネルだと35分くらい。春休みにドーバー港が大混雑してニュースになったため、初めてユーロトンネルにチャレンジすることに。

まずロンドンから車でフォークストーン(Folkstone)まで行き、時間通りユーロシャトルに乗り込みました。夏休みが始まった頃は21時間遅れ(^^;という大混乱があったので、念のため食料と飲み物を持参。

     列車の中にトイレはあるものの、歩き回ったりは禁止。お昼のサンドイッチは車に乗ったまま動く列車の中で

カレーに着いてから、今回の旅の拠点となるオンフルールの町を目指して南西に下りました。行けども行けどもトウモロコシ畑と刈入れを終えた牧草地ばかり。日曜日だったためか、時折通り過ぎる村のレストランやお店は全部閉ってる?! 焦って唯一開いていたアラブ系のミニスーパーを見つけて買い物したんですが、高っ!(◎_◎

オンフルールまでは3時間弱でしたが、その近くで寄り道。アルヴィル=ベルフォス(Allouville-Bellefosse)という村(コミューン?)にあるサン・カンタン教会に行くためです。この教会の敷地内に17世紀に造られた樫の木の礼拝堂があって、その写真を見た瞬間から「絶対行くぞ!」と決めてました(なお、家族は行き先を調べるのが面倒らしく、私の選択がそのまま反映されるのです)。

牧草地がえんえんと続く田舎道をひた走りながら、一体こんなところにあの奇妙なムーミン屋敷みたいな大木があるのかなと、少々不安に…。そうしたら、あった~! ありました!!

 

  教会の片隅にエントツの様な木の家(?)が…フランス最古というこの樫の樹は、中が空洞になっていて礼拝堂が2つあるのです

   1696年に落雷で空洞になった樫の木(当時の樹齢500年?)に礼拝堂を建造。この「アルヴィルの大樫」は樹齢800~1200年と想定され、フランス歴史的記念物に指定されているとか。瓦のような部分は樹を保護するためのこけら葺き。根元近くの礼拝堂が Notre-Dame-de-la-Paix

  樹をぐるりと囲む螺旋階段を上がり、第2の礼拝堂 Chambre de l’Ermiteへ。中には木彫りのキリスト像が

   18世紀の木版画に描かれた「アルヴィルの大樫」(左)。成長してる?! 猛暑の中、緑の葉が生い茂り青いドングリがたわわに実っていて、元気なのにひと安心。人口1200人弱という可愛らしい村(右)

歴史的記念物といっても、柵がある訳でもなく、監視カメラが設置されている訳でもなく、誰でも勝手に見学できるのです。私たちがいた間、バイクでカップルがやってきた他は、地元の人も通りかからず…。帰りに開いていた近くのデリで買い物して、イギリス海峡にセーヌ河が流れ込む河口の港町、オンフルールへ。

人口8000人足らずというオンフルールの町に着いてみると、人気の観光地だということが判明。予約したアパートは旧市街地のどまん中と書いてあったのですが、まあそれほど人通りはないだろうとタカをくくっていました。が、カフェ&レストラン街のどまん中(^^;

また、出発の3週間くらい前までは雨降りの肌寒い気候になるという予報だったのがどんどん変わって、旅行中は1週間ずーっと真夏日という。この夏2度目の熱波襲来の時季に当たってしまったのでした…。

    夕方7時ごろ到着したのですが、まだまだ青空。古い灯台の近くの無料駐車場からアパートまで歩いて8分くらい

   ブティックやレストランが建ち並ぶ石畳の賑やかな通り。途中に次の通りへと続く細い坂道が。中世から残る木組みの家々が可愛らしい

 アパートはこの通りの雑貨店の2階。ベッドルームはホテル風の内装で、居心地もなかなかでした

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緘黙と寡黙の違いは?

もう8月も後半ですね。イギリスを含む西ヨーロッパでは8月に2度目の熱波が襲来し、第2週は毎日30度を超える真夏日が続きました。その後に雷雨がくるまで全くというほど雨が降らず、歴史的な干ばつを記録。世界中で大きく気候が変動していて、一体この先どうなってしまうのか本当に心配です。

そんな中、なんと保育園時代の親友がロンドンに来ることに! 彼女の息子さんがロンドンに駐在していて、2週間ほど夏休みを取ったのです。最後に故郷で出遭ったのは2012年の夏でしたが、その前に25年以上もの空白がありました。

   小雨の中セントポール大聖堂を見学し、528段の階段を上ってドームの小塔へ。長~いランチタイムと夕暮れのテムズ河畔でのお喋りが本当に楽しかった!

………………………………………………………………………………………………………………………….

私は保育園に馴染めなくて、よく脱走して泣きながら家に帰ってきたそうです。亡母はそんな私を見て「私の子育てが間違っていたの…?!」と随分悩んだとか。幼稚園ではなく時間が長い保育園に入れたのは、母が家で仕事を始めたからでしたが、内弁慶だった私の性格を案じてのこともあったよう。

なお、同じ様に保育園に入れられた兄(1歳11か月年上)は私(3月生まれ)とは正反対。大人にもハキハキものを言い、すぐ園に馴染みました。友達もたくさん作って、みんなを引っ張るリーダー的な存在になっていきます。同じ兄妹なのに、どうしてこうも違うのか…^^;

園で落ちこぼれていた私を救ってくれたのが、近所に住む同年のA子ちゃん。遠回りなのにわざわざ私を家まで迎えに来てくれて、一緒に登園していたのです。

私たちはいつも二人でくっついて、園の中でも外でも双子の様に仲良くしていました。ささいなことで喧嘩をすることもありましたが、すぐ仲直りして「変わらぬ友情」の誓いを立てたものです。

それは私たちが小学校に入学し、3年生になってクラスが別になるまで続きました。以前も何度か書きましたが、私にとっての小学校は、大きくて人が多く、常に騒がしい不安な場所。たくさんの上級生や先生たちは、全く親しめない存在だったのです。

私は学校では常に緊張していて、家での自分を出すことなんて不可能でした。授業中は借りてきた猫のように大人しく、休み時間はA子ちゃんがいてくれたお陰で、少しほっとできる時間だったのです。

授業中に当てられたり、発言しなければならなくなると、緊張して頭が真っ白になり、必要最低限のことしか言えなくなってしまう…。休み時間にA子ちゃんとお喋りするのと、授業中やみんなの前で発言するのとでは、全く別の自分がいました。

彼女がいなかったら、私は登園・登校拒否になっていたかも…。中学校時代に少しずつ自信をつけて、学校はそれほど恐ろしい場所ではなくなりました。が、小・中・高を通して私の評価は「大人しい」でした。

でも、そんな私でも一応学校では話せて動けていたので場面緘黙ではありませんでした。というか――ではないと思っていたんですね。

でも、現在のイギリスの場面緘黙の定義では、場面緘黙のカテゴリーはひとつ(詳しくは『場面緘黙のカテゴリーはひとつだけ』をご参照ください)。でもその中で、認識されやすい場面緘黙( High Profile Selective Mutism)認識されにくい場面緘黙(Low Profile Selective Mutism)とに分かれています。で、後者の説明を見ると、

認識されにくい場面緘黙Low-profile selective mutism

これらの子どもや若者たちは、促されると少しは話すので、大人は「恥ずかしがり屋」「大人しい」または「反抗的」と捉えがち。認識されやすい緘黙児と同様に、話すことが強い不安を引き起こすのに、それを理解されにくいのです。彼らは期待に応えようとする思いが強く、なんとか言葉を絞り出します。実のところ、話さない結果への不安が、話す恐怖に勝るために声が出るのですが、このバランスは微妙で、話題に自信がある時しか作用しません。学校では出席の返事をしたり、要求に応じて音読したり、シンプルな問いに答えたりすることがあるかもしれません。しかし、普段より声は小さく、アイコンタクトも減ります。トイレなど必然の要求を発したり、指示に従って短いメッセージを伝えたりすることもあるかもしれません。しかし、親しい友達や家族を除いては、相互的な会話をすることはなく、自分からは話しかけません。「(して)ください」や「ありがとう」といった、何でもない依頼や挨拶が非常に難しいのです。いじめや病気を報告したり、助けや許可を求めたり、自ら説明したりできないことを解ってもらえるまで、彼らは危険にさらされます。困難に気付かれず、自分を守る発言ができないため、支援どころか懲戒されてしまうかもしれません。

もっと大きな声で話しなさい、もっと貢献しなさいと繰り返し奨励することは、更に子どもを苦しめるだけです。彼らの困難を誤って把握し続けると、ますます話さなくなり、不登校が多くなり、どんどん自信を失っていく可能性があります。

マギー・ジョンソン&アリソン・ウインジェンズ共著『場面緘黙リソースマニュアル(Selective Mutism Resource Manual)』より抜粋・翻訳

うう~ん、実際のところ、私は場面緘黙だったんでしょうか? それとも、超内気であがり症の子どもだったんでしょうか?

  • 恥ずかしがり屋だと思われていた
  • 返事や受け答えはできたが、普段より文章は短く、声が小さかった
  • 親しい友達や家族、近所の人たちを除いては、普通にお喋りができなかった

該当する箇所が多いですね^^;

私の子供時代は地域のコミュニティが結束していて、田舎ではご近所付き合いが濃厚。学校を離れて家の近くまでくると、途端に元気になって地が出ていました。また、帰宅後は近所の小学生が集まって夕暮れ時まで一緒に遊んでいたので、A子ちゃんと私もその集団に含まれていた訳です。兄がその集団のリーダー格だったのも、安心できる要因だったかもしれません。

誰かのお母さんがおやつをくれたり、夕食時に「早く家に帰りなさい」と促してくれたり、「それは駄目」と注意してくれたり。だから近所の母親たちは第二の母のような存在だったのです。

そのお陰で普通に話せる場面が家庭だけに限定されず、場面緘黙にならずにすんだのかも。安心できる地域コミュニティで社会的な体験を多く積めていたんだと思います。

都市化や核家族化が進んで、地域コミュニティのきずなが薄くなっている現代。話せる家庭と話せない学校だけでは、社会との関わりが少なく、子どもが社会と接する機会が激減しているように思えます。

私の場合は場面緘黙になる資質が大きかったものの、親友のA子ちゃんがいてくれて、親しめる地域コミュニティもあったお陰で、緘黙にならずにすんだケースなのかもしれませんね。

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