プラハの夏休み(その5)

今日は8月最後の日。学校の夏休みは今週末までですが、金曜日には職員会もあるし、雨続きでもうすっかり秋の気候--今年の夏は肌寒いまま終わってしまったような…。今ではその猛暑が嘘のようなプラハの夏休みの記録は、今回でお終いです。

プラハ滞在5日目は、カレル橋の袂にある大複合建築、クレメンティナム(Klementinum) の見学から。入口がすご~く判りにくくて、やっと探り当てたら、入口のある中庭は巷の雑踏がウソのような静けさ。私たちと一緒に30分毎のツアーに参加したのは、わずか20名弱でした。

クレメンティナムの前身は11世紀に建てられた聖クレメント教会。中世にドミニコ会の修道院として使われた後、16世紀にイエズス会の神学校となり、17世紀には大学に昇格。18世紀には、オーストリア女大公マリア・テレジア(マリー・アントワネットの母君)のもと、2ヘクタールの敷地に天文塔、大学、図書館を有するヨーロッパ有数の大複合施設となったそう。

IMG_20150814_105358IMG_20150814_110601IMG_20150814_110704

 中庭から見た天文塔の外観(左)と鏡の礼拝堂。礼拝堂にはパイプオルガンがあり、毎晩のようにコンサートが行われているようでした

上階に行く際「エレベーターが必要な方?」というガイドの問いかけに、手を挙げた人は誰もいませんでした--が、実はひとりずつしか登れない狭い螺旋階段しかないんです!年配の方にはかなり危険!2階にはフレスコ画が美しいバロック様式の図書館があり、神学書を中心に2万冊ほどの蔵書と中世の地球儀や天文儀の貴重なコレクションが。

残念ながら入場も撮影も禁止だったんですが、画像を見つけたのでよろしかったらどうぞ。https://en.wikipedia.org/wiki/Clementinum#/media/File:Clementinum_library2.jpg

IMG_20150814_113416

    天文塔からの風景。塔に登る階段も1段1段が高くて、しかも下が丸見えなので、手摺につかまらないと怖い…

さて、次はモルダヴ河の西岸河にあるカフカ博物館へ。ここはミュシャ美術館と提携していて、一方の入場券を購入すると、もう一方が半額になるシステム(どちらも小規模なので、そのくらいでちょうどいい値段です)。ミュシャ美術館は前日訪れたんですが、ついでに書いておきますね。

IMG_20150813_120506IMG_20150813_112525

アールヌーボーの旗手として知られるアルフォンス・ミュシャ(1860-1939年) といえば、美麗な女性を描いた装飾的なポスターや商業デザインで有名。女優サラ・ベルナールの舞台ポスターを描いて大ブレークしましたが、実はピンチヒッターとして依頼された仕事だったとか。

IMG_20150813_111817IMG_20150813_111731

ミュシャの生涯を綴った映像を観て、祖国チェコや自分のルーツに対する愛着の深さを初めて知りました。パリやアメリカで商業的な成功をおさめた後祖国に戻り、20年かけて油彩画の連作『スラヴ叙事詩』を制作し、市庁舎の内装など精力的に行っています。チェコスロバキア共和国成立の際には、無償で紙幣や切手などのデザインを請け負ったそう。

余談ですが、パリ時代の白黒写真の中に、ミュシャのアトリエでポスト印象派の画家、ポール・ゴーギャンがオルガンを弾いているユーモラスな写真(1893-4年撮影)を発見。上着からシャツがはみ出し、ズボンも靴も履いてないんです。気のおけない間柄だったんでしょうね…ポスト印象派と後のアールヌーボーの巨匠の共同生活って、なんだか不思議な感じがしました。その5年前、ゴーギャンがアルルでゴッホと共同生活した際は、ゴッホの壮絶な耳切り事件が起きてしまったんですよね…ゴッホは全く売れない画家のまま1890年に死没。現在のゴッホへの評価を思うと、やるせない気持ちになります。

IMG_20150814_132521IMG_20150814_132442

話を元に戻して。カフカ博物館へはカレル橋の雑踏を避けてその北側にある橋を渡って行きましたが、とにかく暑い!でも、館内では外の光を遮断し、展示は全て薄暗がりの中。

プラハの裕福なユダヤ人家庭に生まれたカフカ(1883-1924年)は、少数派だった支配階級の言語、ドイツ語で教育を受けました。そのため、ドイツ文化にもユダヤ文化にも馴染めず、文学や芸術を解さない父親との軋轢もあり、自らを異端と感じていたそう。プラハ大学で法律を学んだ後、保険局員として働きながら執筆活動に励みましたが、無理がたたって肺結核にかかり41歳になる前に短い生涯を閉じています。

ここでカフカがものすごい心配症だったことを知り、彼もHSP(Highly Sensitive Person) だったんだ~と、とっても親近感を覚えました。人前ではいたって物静かで目立たず、聞き役に回っていたとか。カフカが安全ヘルメットの発明者だって知ってました?! 仕事で諸企業の生涯危険度の査定・分類、これに対する訴訟の処理を担当していたため、出張や工場視察が多かったらしいのですが、万一のことを考えて常に軍用ヘルメットを被っていたんだそう。事故防止のマニュアル作成の実績もあるのです。心配症で神経細やかで几帳面でもあったのかな?

IMG_20150814_142649

とっても立派なギフトショップ。ミュシャアイテムも揃ってました

カフカが深く関わった女性は4人いたようですが、最初に婚約したフェリーツェとは、結婚したら執筆活動ができなくなるかもという不安が募り、婚約を破棄…。この女性にはめちゃくちゃ酷ですが、ああそういう面倒な性格だったんだと、何となく納得してしまいました。(フェリーツェとは再婚約したのですが、その時は肺結核に侵されていることが発覚して、再び婚約破棄--うわ~2回も辛酸を舐めたんですね…)。

カフカといえば、学生時代に『変身』を読んで鮮烈な印象を受けた記憶があるものの、その後ずーっとその存在を忘れてました。村上春樹の『海辺のカフカ』を読んで、彼のことを思い出した方も多かったのでは?主人公の少年はカラスと呼ばれてるんですが、カフカはチェコ語で「子ガラス」という意味。ちなみに、カフカの著作『田舎の婚礼準備』では、主人公ラバン(Raban)がドイツ語の「カラス(Rabe)」を思わせる名前です。

” ある朝、グレゴール・ザムザが、落ち着かない夢から目ざめてみると、彼は自分がベッドのなかで、大きな毒虫に変わっているのに気がついた。(『カフカ:変身 世界の文学セレクション36』辻ひかる訳)”

IMG_20150814_140918

展示されていたカフカ自筆のイラスト。独特の味がありますね。

IMG_20150814_140909IMG_20150814_140914

カフカの小説は不条理で非現実的な世界で知られていますが、その作風から”カフカエスク” (Kafkaesque「カフカ風」「カフカ的」)という言葉が生まれています。カフカの出生地であることを意識してか、小綺麗なプラハの街を歩いていると、カフカエスクな彫刻やオブジェとの「あれっ」という出会いが…。

IMG_20150810_181304IMG_20150810_181753IMG_20150812_201801IMG_20150810_175716

最後の大道芸人さんは別ですが、予期してないところにこういう不思議な光景が見られます

IMG_20150814_191722IMG_20150814_192000

  最後の夜は、モルダヴ河で足漕ぎボートに乗って夕涼み。むっとした暑さが嘘のように河辺の涼風が心地よかったです

IMG_20150814_200401IMG_20150814_192246

9時を過ぎると、ボートにカンテラを灯してくれます

IMG_20150814_201048IMG_20150814_201042

ボートを降りた後に遭遇したこのオブジェも、相当不思議な光景でした

あれっ、書いてる内に日付が変わって9月に突入してしまいました。最後までお付き合い下さった方、長いことありがとうございます。

<関連記事>

プラハの夏休み

プラハの夏休み(その2)

プラハの夏休み(その3)

プラハの夏休み(その4)

 

プラハの夏休み(その4)

ホリデー4日目は、半日ツアーでプラハの東40kmほどのところにあるクトナ-・ホラ(Kutná Hora)という町へ。ホテルにあったリーフレットの骸骨堂の写真を見て「面白そう」と決めたんですが、行った後に納骨堂を含めた町全体が世界文化遺産 (UNESCO)に登録されてることを発見。我が家の旅行は行き当たりばったりで(事前にちょこっと調べるのは私のみ)、後々になって色々な事実を知ることになるのです。

ミニバスだろうと思っていたら、やってきたのは冷房完備の立派なコーチ!英語とスペイン語のガイド2名と、世界各国から来た30名あまりの参加者と一緒に出発。「チェコのカントリーサイドが見られる」と楽しみにしてたのに、冷房が心地よくて知らないうちに爆睡していました(笑)。

クトナ-・ホラは13世紀頃から中欧最大の銀鉱の町として栄え、14世紀にはボヘミア王国の銀貨製造を担う経済の中心地に。14~16世紀初頭までは首都プラハと肩を並べるほど繁栄し、町は地方から独立して壮大な聖バーバラ大聖堂の建築に着手しました。が、17世紀に戦争や宗教的な争い、銀鉱の閉鎖などにより衰退の一途をたどったとか。

PANO_20150813_144525IMG_20150813_142836

まず最初に、郊外にあるセドレク区墓地の納骨堂 (Kostnice v Sedlci) に到着。足を踏み入れた途端、どこを見ても骨ばかり。骨を積み上げたピラミッドが4つもあり、想定4~7万人の骨が納められているとか。他にも、シャンデリアや紋章など、見事というしかない精巧な骨装飾がいっぱい。

IMG_20150813_142912IMG_20150813_142858

何故こんなに大量の人骨が収められているかというと、その起源は1278年に遡るそう。ボヘミア国王の命を受けて聖地エルサレムに赴いたセドレク修道院長が、ゴルゴタ(キリストが十字架にかけられたとされる地)の土を持ち帰り、復活の象徴として墓地に撒いたのがその始まり。噂はどんどん広まり、中欧中の人たちがこの墓地に埋葬されることを願うようになったとか。加えて、14世紀半ばには黒死病の犠牲者が、15世紀初めにはフス戦争の戦死者が多数葬られ、墓地は満杯状態。15世紀に墓地の中央にゴシック様式の教会を建て、その際に掘り起こした大量の骨はチャペル兼納骨堂に収めることに。とにかく、墓地が足りなくなったんですね。その後も骨を掘り起こしてはチャペルに積み上げることを繰り返したよう。

IMG_20150813_143849IMG_20150813_144300

   人体の骨を全部を使って作ったシャンデリア(左)とその作者、フランチェスコ・リント(František Rint)の名前を標した壁(右)

ここまでくるとアッパレというか、不気味というより精密なアートワークのようでした。ローマのカタコンベの様な暗さはなく、骸骨堂の中は明るくて結構あっけらかんとした雰囲気です。動画を見つけたので、良かったら見てください。

次は、16世紀に「銀鉱夫の聖堂」として建築を始めたものの資金が底をつき、19、20世紀になるまで着手しなかったという聖バーバラ大聖堂。その過程で、最初の設計図をかなり変更しているとか。アメリカ人のガイド、ジェ-ムス曰く、「中欧で最も美しい未完成の大聖堂」だそう。

PANO_20150813_151031IMG_20150813_151406

正面(左)と横から見た支柱の細部

IMG_20150813_153704IMG_20150813_153714

基本はゴシック様式ですが、バロックやロマネスク様式の箇所も

IMG_20150813_155213IMG_20150813_161813

写真左の奥に見えるのは聖バーバラ大聖堂の後部。尖塔の造りが繊細ですね。石畳の右側には17世紀に大学だったバロック様式の建物が。写真右は中世の名残が残る塔のある建物

IMG_20150813_165952IMG_20150813_163625

ジェームス推薦の「チェコで一番美味しい」というピザリア。息子がマルガリータを注文

IMG_20150813_163120IMG_20150814_124048

 メニューにアイスコーヒーがあったので思わず注文したら、来たのが左。アイスコーヒーにヘーゼルナッツのアイスクリームと生クリームが乗ってました。右はヨソで頼んだレモンが入ってないレモネード。どちらも200円ちょっと

帰りはまた冷房車で爆睡してしまい、ついにカントリーサイドの風景は見られず…。最後にチェコ語の表現を10個くらい教わったのに、「アノ、またはノ(Yes)」と「ネ(No)」しか覚えられませんでした。情けない…。

長くてすみません、次で最後にしますね。

<関連記事>

プラハの夏休み

プラハの夏休み(その2)

プラハの夏休み(その3)

プラハの夏休み(その3)

8月12日は息子の15歳の誕生日でした。本人はカントリーサイドに行きたがったんですが、日程が合わず世界遺産のプラハ城に行くことに(城だけでなく街全体が世界遺産だそう)。旅行案内所で「歩いて行ける」と教わったものの、暑すぎて坂道を上るのは無理。地下鉄とトラムを使えば余裕で30分内に着けると思い、24コルナ(約120円)のチケットを買ったところ、トラムが20分来なくて焦りました…。IMG_praguecastle

なだらかな丘の上にそびえ立つプラハ城は、世界最古かつ最大の城。9世紀から建て始め、現在の形になったのは14世紀だそう。宮殿、聖堂、修道院など建築様式の異なる複数の建物群からなり、神聖ローマ帝国王が住んだ歴史も。敷地の広さは東西430mということで、とにかく広くてめっちゃ混んでました。

IMG_20150812_113102IMG_6844

  現在は大統領府として使われていますが、英国王室のように近衛兵がいて交代式も。北門の歩哨兵はこの酷暑のなか微動だにせず。本当にご苦労様です~

PANO_20150812_120448

王宮前の広場で近衛兵によるブラスバンド演奏が始まると、わらわらと人が集まってきました

PANO_20150812_115412PANO_20150812_120014

600年かけて完成させたゴシック様式がメインの聖ヴィート大聖堂。正面(左)と聖堂内

IMG_20150812_120108IMG_20150812_120549PANO_20150812_123350

ステンドグラスとメインタワー(右)。下の写真は東側の景観

IMG_20150812_113745PANO_20150812_120931

旧王宮の外観(左)と戴冠式が行われた大ホール

PANO_20150812_122839

プラハ城で2番目に古い聖イジー教会は10世紀の建物。窓が小さい…

PANO_20150812_123827IMG_20150812_125637

IMG_kafka

敷地の左端にある「黄金小路」は、色とりどりの小さな家が15軒ほど並ぶ石畳の狭い路地。この名称は16世紀に錬金術士が住んだという伝説に由来しているそう。左側2軒目のブルーの家(22番)をカフカが1916年から2年ほど妹と借り、毎晩執筆に通ったとか。後の作品『城』は、プラハ城からインスパイアされたんですね。現在はカフカ関連のグッズを売るショップになっていて、通りの半分くらいがお土産店でした。

IMG_20150812_125402IMG_20150812_131355

当時の暮らしを再現した部屋の数々。これらはプラハで最も小さい家なんだそうで、間取りが狭くて、奥行きもない..戸口で頭をぶつけないよう要注意。左側は仕立て屋さんの家ですが、ベッドは普通のシングルの半分くらい--当時はヨーロッパ人も小さかったんですね

夜は8時頃にホテルを出て、河岸にあるダンシングハウスを見てから、イギリスで友達が推薦してくれたちょっと遠くのレストランへ行く予定でした。

IMG_20150812_202427IMG_20150812_202413

  1996年に建てられたダンシングハウスには「ジンジャー&フレッド」の愛称も。そういえば、カップルがダンスを踊っているように見えますね

この後、歩けども歩けども目的のレストランに行き着けず…。観光地から外れているためか街灯も暗いし、スマホも役に立たたないし。ついに主人が怒り出し、その時そばにあった『マチルダ』というイタリアンレストランへ。混んだテラス席で待つこと30分、既に10時近くになってしまい、息子の誕生日だというのにとっても険悪な雰囲気に…。

IMG_20150812_215100

IMG_20150812_215131

夫婦の危機を救ってくれたのが上のサラダでした~。暗かったのですごく写りが悪いのですが、私のダックサラダ(上)は、鴨肉のスライスとオレンジの組み合わせが絶妙。クルミのトッピングとプラムソースも美味でした。主人のチキンサラダ(下)は、炭火焼きしたチキンとパイナップル、オレンジのスライスの組み合わせで、炭焼きの香ばしい味がサラダ菜と相性抜群。息子はマルガリータピザを注文したのですが、食べはじめた途端に全員の機嫌がコロっと治りました。美味しいものの威力ってすごいですね。

IMG_20150812_223126

 

    帰りは地下鉄で。プラハの地下鉄は深いのでプラットホームはひんやり。かなり斬新なデザインですね

すいません、まだ続きます。

<関連記事>

プラハの夏休み

プラハの夏休み(その2)

プラハの夏休み(その2)

初日の体験を活かし、翌日から「外歩きは午前中と夕方過ぎ、午後は冷房が効いた(多分)美術館などで過ごす」という計画を立てました。まずは、メニュー豊富なホテルの朝食バーでしっかり腹ごしらえし、近くのミニスーパーでミネラルウォーターを買い込んで出発。

2日目は徒歩で「ユダヤ人街」へ。中欧最古の「新旧シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)」を訪れる予定が、ちょっと道をそれたら「スパニッシュ・シナゴーグ」が目の前。無計画でブラブラ行くのが我が家式なので、複数の見学コースの中で一番お得なファミリーチケットを買って、シナゴーグ内を見学しました。

IMG_20150811_113709IMG_20150811_114416

   高級ブティックが立ち並ぶ通りを抜け少し東に行くと、ちょっと違和感を感じる小説家カフカの銅像に遭遇。お隣にあるのが「スパニッシュ・シナゴーグ」

IMG_20150811_115522IMG_20150811_120821

  ユダヤ人街で最も美しい会堂。19世紀半ばに、スペインのアルハンブラ宮殿を模して設計・建築されたとか。2階にはプラハにゆかりのある著名なユダヤ人たちの資料が。恥ずかしながら、カフカ(1883-1924年)がユダヤ人だったこと知りませんでした

内装はものすごく美しかったんですが、それより印象に残ったのは、第二次世界大戦時にホロコーストの犠牲になったユダヤ人の子どもたちの絵や日記など。この子たちは、誰ひとりとして息子のように15歳の誕生日を迎えることはできなかったんだと思うと、なんともいえない気持ちになりました。

実は、SMIRA代表のアリスさんは、ナチス党政権下のドイツがチェコスロバキアを解体する直前、チェコからイギリスに亡命してきたのです。当時19歳のアリスさんは、たった独りで汽車を乗り継ぎ、船でイギリスに辿り着いたそう。後から合流すると信じていたご両親と弟さんは、アウシュビッツ強制収容所に送られて亡くなられたとか…。それを想い出し、平和な時代に生まれ育ったことを本当に幸運に思いました。現在と未来の子ども達のためにも、戦争のない世界を願ってやみません。

もしアリスさんがイギリスに亡命していなかったら、仕事で緘黙児に出遭って緘黙の研究をすることもなかったでしょう。リンジーさんと共にSMIRAを設立することもなかったんだと思うと、人の運命や出遭いって、本当に不思議ですね…。

この後、旧ユダヤ墓地に行ったところ、猛暑の中でチケットを求める長~い列が。家族全員が即「やめとこ」と諦め、近くのカフェでひと休み。主人はビール、私はレモネード、息子は100gのハンバーガーとフレンチフライをパクリ。ちなみに、ハンバーガーは4段階・400gまであって、チェコ人ってお肉好きなんだなと感心した次第です。

ひと休みした後、地下鉄に乗って国立美術館へ。街に貼られたエゴン・シーレのポスターを見て、「あっ、シーレ展やってる!」と思い込んで出かけたら、実は『アーティストと預言者たち』と題したグループ展でした。

IMG_20150811_161024IMG_20150811_142045

観光客が殆どいないHolesovice地区は、ちょっと寂びれた雰囲気

IMG_20150811_143300IMG_20150811_143309

IMG_20150811_143329

IMG_20150811_143417IMG_20150811_150950

  国立美術館の中は涼しくて人もまばら。たっぷり時間をかけて周り、シーレの絵もじっくり堪能出来ました

IMG_20150811_152950IMG_20150811_152750

最後は切り絵でスライド遊び(これは息子による配置)

トラムに乗ってホテルへ戻り、夜はイギリスで予約しておいたバレエ公演『白鳥の湖』を観に出かけました。街には劇場やホールが多数あり、教会や会堂の中でも毎晩のようにコンサートが行われているよう。

IMG_20150811_194924IMG_20150811_195539IMG_20150811_194958

「百塔のプラハ」と呼ばれるだけあって、石畳の街のいたるところに尖塔が。大戦の戦火を逃れることができたため、中世以降1000年に渡る様々な建築様式が残っています

IMG_20150811_195751

バレエ鑑賞した劇場。演目は『白鳥の湖』のハイライト場面を集めたもの

値段がイギリスの三分の1くらいだったので文句は言えませんが、幕が開いてダンサー達が出てきた途端に、「う~ん、これはイマイチかも」と素人の私でさえ思いました。特に、男性陣のジャンプ力と回転が…熊哲氏の三分の1も跳べてなかった。しかも、会場にはエアコンがなくて、もう蒸し風呂のような暑さ!

IMG_20150811_204914IMG_20150811_213630

私のワガママで一番高いチケットを取ったのにどうしようと思っていたら、主役のバレリーナだけが群を抜く上手さ――というか、それが当たり前なんでしょうが、ひとりだけ動きが全然違ってました。彼女が白鳥と黒鳥役を踊り分け、ひとりで舞台を引っ張っている姿に感動。後でネット評を見たら、やっぱりケチョンケチョンに酷評されてましたが…

IMG_20150811_221538IMG_20150811_222240IMG_20150811_222227

私たちが行った劇場の真向かい側にあったのが、『のだめカンタービレ』が撮影されたスメタナホールのあるプラハ市民会館。ミュシャが内装やステンドグラスを手がけた瀟洒なアールヌーボー様式です。黒ずんだゴシック様式の建物は15世紀に建てられた火薬塔

夜11時近くなのに観光客がぞろぞろ。きれいな夜景を眺めながら、夜更けの旧市街をぶらぶら歩いてホテルに戻りました。

長くてすいませんが、また次回に続きます。

<関連記事>

プラハの夏休み

プラハの夏休み

先週、というかすでに1週間ちかく経ってしまいましたが、息子の誕生祝いとホリデーをかねて、家族でチェコ共和国の首都、プラハに行ってきました。冷夏のイギリスから、異常気象でいきなり猛暑のプラハに移動したためか、喉風邪をひいたよう…最高気温23度⇔37度はキツかった。という訳で、今週はどうも体調が今イチでした。

ロンドンからプラハまでは飛行機で1時間半ほど。短時間で行けるので、国内旅行と同じような感覚です。格安航空会社の一番安い時間帯のチケットを購入したため、出発は日曜日の午後6時半。最近、飛行機事故が多いせいか、タラップ式の小型機が無事にプラハ空港に着陸すると大拍手が起きました(笑)。

何とかバスと地下鉄を乗り継いでホテルに着いたのが11時過ぎ。モダンなアパートメントホテルと思って予約したら、実はアパート部分は4階のみで我々の部屋は普通のトリプルでした。同じ値段でもっと豪華っぽいホテルが沢山あったんですが、何故かどこも赤・緑・金の派手な縞模様のベッドリネン。さすがに6泊は耐えられないと、コンセプトが面白そうなこのエコホテルを選んだのでした。

IMG_20150814_102213

      ミュシャ美術館の1件右隣にあるFusion Hotel。同じ通りにミニスーパーと観光案内所があって便利。旧市街までは徒歩5分ほど

IMG_20150811_164357IMG_20150810_150825

天井が高くスペース的には悪くないシンプルな部屋。各室テーマが違い、我々のところは金魚(?)モチーフ。バスルームの壁は真紫!シャワーのみで最初は不満でしたが、暑すぎてバスタブは必要なく…巨大なシャワーヘッドに加え、ノズルがついてるのがGood

IMG_20150811_101334IMG_20150811_101345

なんですか~?と驚いたトイレのサイン。このホテルの特徴はむき出しのパイプや壁のへたうま風イラスト

12時過ぎに眠りについたのですが、とにかく暑い!エアコンのスイッチを探しても見つからず、説明書を見たら「エコ主義に則り空調は建物全体で」と。天井の太いパイプから、生ぬるい風が入る中、汗をかきながら就寝。全員が何度も目を覚まし、朝5時前に耐えられなくなった息子が窓を開けました。でも、やっぱり暑い!

IMG_20150814_091325IMG_20150814_091334IMG_20150813_100233

このホテルで一番良かったのは広い食堂での朝食でした

親子3人で朦朧としながら朝ごはんを食べ、主人が頭が痛いというのでまず最初に薬局へ。ここからやっと旧市街を歩いて観光。

IMG_20150810_114818IMG_20150810_114743

旧市街は観光のメッカ。露店商が集中するコーナーの果物屋さんにあったフルーツ盛り合わせ。「これで250円って安い!」と思ったら、100gのお値段でした

IMG_20150810_114442IMG_20150810_114459

有名なボヘミアグラスとガーネットのお土産店が多数

IMG_20150810_120920IMG_20150810_121205

有名な天文時計 。旧市庁舎経由でこの塔に登るのに、待つこと約1時間

IMG_20150810_132039IMG_20150810_132806

   でも、時計台の上からの景色は最高でした。右側の写真の丘の上に黒く見える塔がプラハ城

塔から降り、旧市庁舎の建物の中や広場を見学しただけで、すっかり疲れ果てた私たち。迷路のような路地の中で見つけたカフェへ。食欲は消え失せ、とにかく冷たいものが欲しい!

IMG_20150810_143128IMG_20150810_135903

暑すぎて次を巡る元気がなく、ホテルに戻って冷たいミネラルウォーターとホテルの無料アイスクリームを食べて、3人でお昼寝。この時点で私も頭痛が――もしかして熱中症?

午後6時ころに有名なカレル橋に向かってぶらぶら。夕暮れ時には多少涼しくなるかもと期待していたら、甘かった--西日が射してさらなる暑さ!そして、すごい人混みなのでした。

IMG_20150810_182152IMG_20150810_182545IMG_20150810_182905IMG_20150810_183250

 

左上の写真はカレル橋に行く道。大きなゲートをくぐると橋なのですが、もう人だらけ

IMG_20150810_200040IMG_20150810_192944

夕食は旧市街の裏通りで見つけたレストランで。殆どのレストランはエアコンがなくて、蒸し暑かったです…。驚くことに、ミネラルウォーターよりビールの方が安い!大きなジョッキで200円弱

IMG_20150810_194014IMG_20150810_194058

まずはチェコの伝統料理を注文。写真 左はハンガリー料理としても有名なグラーシュ(牛肉のシチュー)、右はローストポーク。双方とも「チェコの茹でパン」と呼ばれるクネドリーキが添えてあり、ポークの方にはじゃがいもの蒸しパン、ブランボロクネドリーキとザワークラウトも。疲れてたので、お酢の味が嬉しい。お値段は各150コルナ(約770円)くらい

IMG_20150811_191126

別の日に食べてみた、こちらも伝統料理というグラーシュのスープ。3人がかりでパンを食べたのですが、食べきれませんでした。これで450円くらい。ちなみに、スーパーで買ったクロワッサンは8コルナ(約40円)でした~パンもめちゃ安い

ということで、まだ1日分しか書けなかったので、次回に続きます。ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございます。

決めつけないで

ここのところ、”Judgement” と ”Judgemental” という言葉に頻繁に出くわします。別に意識していないのに、ふと気づくと同じ単語がキーワードのように現れる――そんな体験ってないですか?

”judge”という動詞には「裁く」とか「察する」という意味があり、よく知られた名詞の意味は「裁判官」。”judgement” は 「判断」「察し」「独断」など似たような訳ですが、”Judgemental” になると「批判的な」「独断的な」と否定的な意味合いを帯びることが多いよう。

人に “Don’t be judgemental” と言われたら、いい意味ではありません。思い込み、偏見、決めつけに繋がるような、自分の価値感だけでものを見てはいけないという警告なのです。「決めつけないで」とか「独断で決めないで」という訳が一番ぴったりくるでしょうか。

私が最初にこれらの言葉を意識したのは、特別支援TAのエージェントが行った ”Behaviour Management” の研修会でした。これは「学校での子どもの態度・ふるまい(特に、問題行動)にどう対処すべきか」をテーマにしたもの。

ここで重要なポイントになったのが、”Observation(観察)” と“Judgement(判断)” の違いについて。例えば、緘黙児が授業中黙っているのを見て、先生が「A君は授業中ずっと話さなかった」と観察するのと、「A君は話さない子」と判断するのとでは、その後の先生の態度や対処法が変わってくる可能性が大きいのです。さらに、子どもとの関係やコミュニケーションがネガティブなものになる可能性も…。

というのも、”Observation(観察)”は客観的な見方ですが、“Judgement(判断)”ではどうしても判断する人の主観や先入観が入ってきてしまうからです。「A君は話さない子」と判断すると、無意識のうちに子どもにそのレッテルを貼ってしまい、「今回もどうせ話さないから」と思い込みがち。そのためにA君だけ当てなかったり、順番を飛ばすようになったとしたら、子どもはどう感じるでしょうか?また、それを見て他の子ども達はどう思い、行動するでしょうか?

緘黙児は目立ちたくないけれど、みんなと同じでいたいんです。授業中に順番を飛ばされたら、無視されたように感じるでしょう。先生にいい感情を持てず、ますます学校生活が不安になったり、自己評価が下がったり、非言語のコミュニケーションにも問題が出てきてしまうかもしれません。

研修会では、教育関係者は子どもを観察し、理由・原因を多面的に考えたうえで対処方法を決めるよう教わりました。先生も人間だから、やっぱり好き嫌いはあります。これまでに多数の子どもに接してきただけに、自分の見方・やり方を確立していることも多いでしょう。だからこそ、先入観を持つことなく、心を開いて子どもを見ることが大切になってくると思います。

先生が「A君は授業中ずっと話さなかった。どうしてかな?どうしたら授業に参加できるかな?」と探求心を持ってポジティブに考えてくれれば、様々なアイデアが生まれるはず。母親から子どもに、授業中はどんな方法で非言語コミュニケーションを取るのが楽か訊いてもらうという案も出るかもしれません。こうすることで、子どもとの関係やコミュニケーションがポジティブなものになれば嬉しいですね。

これって何も学校や先生に限ったことでなく、日常生活においても気をつけたいことですよね。慎重な性格ゆえに何事もゆっくりめの息子に対して、常に「早く!早く!」と急かしたててる私…。スピードばかりに気を取られ、彼の持つ良い特性や可能性の目を摘んでしまっているかも…。何事も決めつけないように、注意しないといけませんね。

話がそれてしまいましたが、もう一つこれらの言葉をしっかり意識したのは、7月にBBCで放送された『Victoria Derbyshire』の場面緘黙特集でした。

実際のTV番組ではカットされてましたが、ウエブ版に収録された17歳の緘黙少女ケイティの話の中で、 ”Judgemental” という言葉が繰り返し出てきます。

(詳しくは、過去記事『緘黙を克服しつつある17歳』の映像をご参照ください)

ケイティの友達のひとりが、「セカンダリースクールに入って、知らない子に話しかけるのはどんな気持ちだった? 人に評価されるよね?」と訊きます。

(「人に評価されるよね」の部分は、原文だと “That’s where people are most judgemental about people, isn’t it?” なので、「(新学期のセカンダリースクールは)みんなが人に対して最も選別的になるところだよね」ですが、解かりやすいように変えました)

これに対して、ケイティは「そうね、偏見を持っていそうな、人気のある子達からは距離をおいたわ(I tried to stay away from the people, who are most judgemental…)」と答えています。

やはり「しゃべらない(変な)子」という目で見られるのは、緘黙児にとって深刻な問題なんだなとつくづく思いました。先生やクラスメイトは本来の自分の姿を全く見たことがない訳で、本人はものすごいストレスを抱えているんでしょうね。

また、傍らで見ている親もフラストレーションが溜まりますよね。ついつい「何で家にいる時みたいにしゃべらないの?」と言いたくもなるもの…。親にも息抜きが必須です。

そういえば、息子が小1の頃、人がまばらな放課後の校庭を走り回ってリラックスしたのか、知らずと大きな声を出していたことがありました。それを見たママ友が、「以前、精神遅滞(retard)かと思ったこともあったわ。でも、違ってて良かった」とポロリ…。「え~っ、そんな風に見られてたの?!」と大ショックでした。

緘動があった時期は、だんまり+動きも鈍かったので、そいういう風に見えたのかな…。緘黙児って、こんな風に思われちゃうこともあり得るという実例ですね。

(イギリス人って、かなりストレートにものを言う人も多く、グサっと来ることもあるけれど、ずっと黙っていたり、私のいないところで噂されている方がもっと怖い…)

でも、自分でも知らないうちに、とんでもない思い込みをしていることもあるかも…。ちょっと見だけで人を判断しないよう、いつもニュートラルかつフェアな目でものを見るよう、胸に刻む今日この頃です。

 

何だか肌寒いイギリスの夏休み

息子の夏休みは7月25日から始まりましたが、ロンドンのお天気は今ひとつ。初日の夕方に友達家族を招いてバーベキューパーティを計画していたところ、大雨になってしまい急遽スシパーティに変更するはめに…。この水曜も泊まり客があったのでBBQにしようと計画していたら、またもや雨!で、今度は手巻き寿司にしたのでした(外国人に「何がいい?」と訊くと、必ず「スシ」という答えが返ってくるのです)。

7月中旬に一度決行したきりの幻のバーベキュー。夏の醍醐味なので、8月下旬にも予定してるんですが、果たして実現できるかどうか…。でも、既に5袋入りの炭を購入済みなんですよね。

IMG_6651IMG_6653IMG_6652

これは7月に行った時のもの。主人の従兄弟がベジタリアンなので、豆腐バーベキューに挑戦。今友達から連絡があって、明日再びBBQに挑戦することになりました!

我が家の夏の恒例行事になっているカーブーツセールも、夏休み最初の日曜日に予定していたら大雨…。仕方ないのでパブランチに出かけたところ、「今日はシェフが急病で、今代わりが来るから」と、待つこと1時間。他のお客さんが帰り始め、主人が訊いたところ「まだ来てない。着いてから準備するまで1時間かかる」とのこと。「え~っ、そういうことは最初に言ってよ」と、日本ではあり得ない対応なのでした…。

なんだか天気は冴えないけれど、日本から友人が来ていたので、曇り空の下を一緒に歩いて、ロンドン巡りをしました。

IMG_20150715_111354IMG_20150715_111539

セントポール寺院で騎乗警察官に遭遇

IMG_20150715_111734IMG_20150715_111746

セントポール寺院からテムズ河を超えた真向かいが、テートモダン美術館。2000年にできたミレニアムブリッジを歩いて渡ります

           IMG_20150715_112142 IMG_20150715_112424

橋から見た風景。このところガラス張りの高層ビルが急増中です

IMG_20150715_112700IMG_20150715_114619

テートギャラリー内。無料のうえ、展示を柵で囲ってないので間近で見られます

IMG_20150715_154706

カムデンタウンに移動し、マーケット内で休憩

IMG_20150715_152330IMG_20150715_152020IMG_20150715_152035

ハイストリートから脇に入ったDelancey Street で 発見したCamden Coffee Shop。サイプロス出身のジョージさんが、1978年に伯父さんから引き継いだ店なんだそう。看板は剥げかけてるし、何だか薄暗くて怪しげ…。でも、通りいっぱいにコーヒーのいい香りが漂っていて、思わず中に入ってしまいました。写真のロースターは60年代のものだとか

IMG_20150715_195214IMG_6664

エチオピアン・モカを購入したら、その場で挽いてくれました。帰宅中も、帰ってからもモカのいい香りが漂って幸せな気分

IMG_20150719_105810IMG_20150719_113522IMG_6665

イーストエンドにあるスピタルフィールズとブリックレーン・マーケットにも行きました。住んでいるとなかなか行かないんですが、友達と一緒に地元民が行くディープな蚤の市にも潜入。戦利品は、大きな真珠がついたシルバーのネックレス£10(約2000円)

そうそう、この夏はメタボ対策をと思いたちフラフープを購入しました。庭の納屋に息子が小学生の頃使っていたプラスティック製のがあったんですが、やってみたら全くできず――これは玩具だからできないんだと思い、エアロビクス用のを購入したものの、やはりできなかった(笑)。息子にやらせてみたら、何と平気な顔をして50回くらい!小学校の頃流行って校庭でやってたらしんですが、通常運動は苦手な方なので、びっくりしました。

IMG_6707

毎日練習していたら、私もついに20回くらい回せるように。でも、腰を回すのではなく、前後に動かすんだと解り、う~んウエストを取り戻すのは無理かも…。

皆さんも素敵な夏休みをお過ごしくださいね。

 

BBCの最新データ

7月15日 (水) に放送されたBBC2の情報番組『Victoria Derbyshire』では、場面緘黙の最新データが提示されました。それによると、場面緘黙の出現率は下記のように推定されています。

  • 子ども(11歳まで?)       150人に1人(0.67%)
  • 青少年(12~19歳?)           1000人に1人(0.1%)
  • 若者(20~29歳?)                      2500人に1人(0.04%)
  • 大人(30歳から?)                       不明

この数字をみると、小学校を終える11歳頃までに、6、7人のうち1人を残して緘黙を克服(克服率は約85%)する計算。これってすごくないですか?

イギリスでは特別支援教育が根付いていて、学校での場面緘黙の教育もかなり進んでいるとは感じます。ただSMIRAの集会などでは、早期発見・介入はしているものの、各学校の方針や予算の問題があり、きちんと対応できていない学校も多いという印象。個人的には、この克服率はかなり高いのではという印象を受けました。

ただ、全般的に日本より学校の規則が緩いため、保護者が学校内でサポートしているケースも多く、それが高い克服率に結びついているのではないかと推測しています。小学校低学年(4~6歳)だったら、親が一緒だと不安がぐんと減り、環境次第(例:教室で2人きり、少人数)では学校で話せる子も多いはず。また、子どもの自意識もそれほど過剰でない年齢ではないでしょうか?放課後でなく、授業やランチタイムに親がボランティアとしてクラスに入ることができたら、進歩も速くなるのではと思います。

なお、ウエブマガジンの方では、イギリスの支援団体iSpekの創始者、カール・サットン氏による緘黙の大人のリサーチ(経験者を含む83名が参加)にも触れています。

それによると、大人が緘黙を克服するターニングポイントは22歳。緘黙の大人はうつ病や広場恐怖症など、他の不安障害を併発する可能性が大きいと示唆しています。

テレビ放送では、緘黙で苦しむ大人、サブリーナの言葉を借りて、場面緘黙を次のように紹介していました。

「場面緘黙の人生って、箱のなかに閉じ込められてるみたいな感じ。箱は透明だから外にいる人の姿も見えるし声も聞こえる。だけど、どんなに頑張っても出られないの。箱のなかで声の限りに叫んでも、誰にも聞こえない。怪我をしたり、怖くて助けを求めても、聞いてもらえないのよ」――これは、小さな頃から場面緘黙に苦しんできたある女性が、自分の状況を表現した言葉です。場面緘黙というのは、話すことへの恐怖症です

DSM(アメリカ精神医学会による診断・統計マニュアル Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)では、2013年から場面緘黙を不安障害と分類しています。この番組では更に踏み込んで「場面緘黙=恐怖症」と紹介。解説者として出演したSLTのアリソン・ウィンジェンズさん (『場面緘黙リソースマニュアル』の共著者)は、この分類や定義によって周囲の人に場面緘黙を理解してもらいやすくなったと語っていました。SMIRAやアリソンさん、マギーさん他の専門家が、これまで学会などに働きかけてきた成果ですね。

場面緘黙は話すことへの恐怖症が引き起こす症状であり、その背景には抑制的な気質やバイリンガル環境、言語や発達の問題などがある――アリソンさんは緘黙の引き金となった要因と緘黙を定着させている要因を見定めることが難しいと指摘していました。その2つの要因(複合的なケースも多い)を踏まえた上で、それぞれに合う方法で支援することが大切ということ。不安障害の治療に使われるCBT(認知行動療法)の有効性と、早期発見・介入の重要性も強調していました。

アリソンさんによると、引き金となる要因は毎日のささいな出来事であることも多いそう。場面緘黙になりやすい子どもは、リスクを冒したがらないタイプが多く、自意識過剰で用心深いため、入学など人生を変えるような出来事や、学校で誰かがしゃべらせようとすることなどは、子どもにとっては大きなショックだとも。

イギリスでは、10月が場面緘黙啓発月と指定され、1~17日まで全国で啓発キャンペーンが行われる予定です。私も今年はSMIRAのキャンペーンに参加する予定なので、おいおいその内容を紹介させていただきますね。

<関連記事>

BBCが大人の場面緘黙を紹介

緘黙を克服しつつある17歳

母親も緘黙だった6歳の男の子のケース

 

 

母親も緘黙だった6歳の男の子のケース

BBCで放映された場面緘黙の番組の続きです。今回もBBCニュースYou-Tube チャンネルの映像『話すことへの恐怖症があります』をお借りして、最後の部分をご紹介します。

8:00~12:34までの、ダニエルのケースを御覧ください。

「ダニエルは6歳、場面緘黙です。彼のお母さんも子供の頃緘黙でした。」

記者アシュリー(A): ダニエル、話すのは難しい?

ダニエル(D): 頷く

A: 話さなきゃいけない時、怖くなる?

D: 頷く

A: いつか、自由にしゃべれるようになると思う?

D: 肩をすくめる

A: いつでも話せるようになりたい?

D: 頷く

ダニエルの母親、フラン(F): 学校に迎えに行ったら、今日したこととか、楽しかったこととか、学校での出来事を話してくれたわ。(背景にダニエルの話し声が聴こえる)。

先生には話せないの。しゃべれない人は多いけれど、友達には私(の緘黙時代)より多く話せるわね。私が小さかった頃は、まったく誰にも話せなかったから。当時は何故か解らなかったし、今でも解らない。誰かに話しかけられると、すごく返事をしたかったのにできなかった。どう頑張っても、やっぱり無理だった。先生も(場面緘黙を)知らなくて、ただの恥ずかしがり屋だと思われてたの。話さないことが問題になって、教室の外に出されたこともあったわ。質問にも答えられなかった。

あら、ダニエルはブランコを降りてしまったわ。クラスの女の子がブランコに乗ってきたから、声を聞かれるのが心配なのよ。私はダニエルが赤ちゃんの頃から、自分と同じだと気づいてたの。ベビーカーの中から私に向かって元気におしゃべりしてるのに、誰か知らない人が来て「こんにちは」って話しかけた途端、顔が石みたいに固まってしまうの。そして下を向いて、その人と視線を合わそうとしない。例え、くすぐっても、笑わせようとしても、表情は固まったまま…。

この子の気持ちは誰よりもよく解る。私も同じだったことは伝えたから知ってるし、「マミーも話せなかったけど、今は話せるから大丈夫」って言ってあるの。

A: 場面緘黙を知らない人は、ダニエルが頑固だから、もしくは注目されたくてわざと話さないと思うかもしれない。そういう人たちに何かいいたいことはある?

F:もしダニエルが話せたら—それはあの子が一番したいことよ。普通でいたいのよ。自分ではコントロールできないの。もしできるんだったら、黙ってなんかいないわ。皆と同じでいたいんだから。

<ダンス教室で>

F: ダンス教室には1年位かよってるの。踊ることが大好きなのよ。
最初は恐がって教室に入るのも嫌がったし、全くやりたがらなかった。でも、最初のレッスンの後、ダンスクラスが大好きになって、今では皆の前で踊るようにまでなってるの。以前はできなかったことよ。

ダンスの先生: 最初にダニエルに会った時、何か通じるものを感じたんです。すごくいい子よ。お母さんは彼が話さないのを心配してたけど、踊りは動きで自分を表現することでしょ。最初に来た時から、彼にとってここは我が家のようなもの。自分自身でいられる場所、自分を表現できる場所を見つけたんだと思うわ。彼が私達を見つけてくれて、本当に嬉しく思ってます。

12:35~ 150人に1人の子どもが場面緘黙です。共感的な支援で、ほとんどの子どもが回復します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ダニエル君の場合は、お母さんも小さいころ緘黙だったというケース。抑制的な気質が遺伝したんですね。親子揃って恥ずかしがり屋というパターンだと、子どもの気持ちを理解しやすいと思います。でも、子どもの抑制的な気質を理解できないという保護者の方もいるでしょう。

もしそうだったら、エレイン・アーロン著の『ひといちばい敏感な子(Highly Sensitive Child)』を読むことをお勧めします。超敏感な子どもの気質、行動、育て方、スモールステップ式の支援の仕方などについて詳しく書かれています。私はこの本を読んで、「これうちの子だ!HSCだったんだ」と安心し、同時に「育て方はかなり難しいな」と思いました。

私は、かつてから場面緘黙になる子(人)には、HSP(Highly Sensitive Person 日本語では「とても敏感な人」/『ささいなことでもすぐに動揺してしまうあなたへ』エレイン・アーロン著より)が多いのではないかと思っていました。アーロン女史は著書の中で、子どもの行動抑制的な気質を研究した発達心理学者、ケイガン(Jerome Kagan 1989) の研究を頻繁に引用していて、私は彼女のいうHSP=ケイガンの行動抑制的な子どもと捕らえています。

以前、『遺伝的な要因-動抑制的な気質』という記事の中で、ケイガンの研究について触れましたが、「行動抑制的な子ども」は全体の10~15%、HSC (Highly Sensitive Child) は全体の15~20%と、似たような数字です。緘黙児には行動抑制的な気質を持った子どもが多いと言われています。『ひといちばい敏感な子』に場面緘黙や緘黙児は出てきませんが、原本では確か入園後に数ヶ月間話さなかった子どもの例が複数あげられていたような…。今パラパラと見返してみたら、「ランダルがクラスで一言話すまでに6ヶ月かかった」、「アリスは入園してから4ヶ月話すことを拒否した」という行を発見。「話せなかった」とは書いてありませんが、やっぱり緘黙傾向のある子が多いんだと思いました。

子どもの好きなことを伸ばすことが奨励されますが、ダニエルはダンス教室でとても活き活きとしてますね。ダニエルには緘動はないようですが、家の他にも自分を表現できる場所があれば自己評価の向上にも繋がると思います。

おしまいに、最後の字幕には150人に1人の子どもが緘黙だけど、その殆どが回復するとありますね。早期発見・介入して、適切な支援をしていけば、子どもの緘黙は克服できるということだと思います。希望が持てますね。

<関連記事>

BBCが大人の場面緘黙を紹介

緘黙を克服しつつある17歳

 

緘黙を克服しつつある17歳

前回のBBCで放映された場面緘黙の番組の続きです。実は、テレビで取り上げたのはサブリーナさんのケースのみで、お借りして貼り付けている映像はBBC News のMagazine サイトで紹介されているものです。いつまでアップされてるか分らないので、消されない内に映像の続きを翻訳しました。(聞き取りづらい部分もあり、正確ではないかもしれませんが、その辺りはご容赦ください)。

今回は17歳のケイティさんのケースです。映像の5:47~7:59を御覧ください。

<ケイティの独白>

話さなきゃいけないというプレッシャーに押されて、やっても無駄だと思うこともあったわ。自分の感情を押し殺して、きまり悪さを完全にシャットアウトしてたの。しゃべらない状態のほうが幸せなんだって。

友達A:カレッジを終了したらどうするつもり?

ケイティ(K):大学に行って、できればテレビやラジオ制作を学びたいの。

「ケイティ・スミスには3歳の時から場面緘黙の症状がありました。今17歳でカレッジの最終学年。場面緘黙を克服しようと、大きなステップを踏みだしています」

友達B: 場面緘黙を克服して、たくさんの人と接するようになって自信をつけていくって、どんな感じ?

K:うーん、説明するのは難しいわ。えーと…。

友達B: 多くの人に助けられたと思ってる?それとも、自分で何とかしたの?家族とか友達とか、助けてくれる人はいっぱいいた?

K:えっと、実は7年生になってあなた達と出会った時期が――あなたやトーリア達と出会って、新しい友だちができたことが、大きな助けになったわ。

友達C: 友達関係が変わったことで自信がついたの?

K: そう思うわ。家族は私がずっと緘黙だったことを知ってたから、変わってほしいと願ってたけど、もちろん強制するようなことはしなかった。進学してセカンダリーやカレッジに行ったら、新しい友人関係を築かなきゃいけないって思ってたから。

友達D: セカンダリースクールに入って、知らない子に話しかけるのはどんな気持ちだった? 人に評価されるよね?

K: そうね、偏見を持っていそうな、人気のある子達からは距離をおいたわ。あなた達がいてくれて本当に良かった。だって、あなた達だったら人をこうだって決め付るようなことはしないと判ってたの。

友達B: 私もちょっと変わった子だったし(笑)。

K: 変わった子が一番よね(笑)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

17歳のケイティが友達に囲まれておしゃべりしている様子を見る限り、青春真っ只なかの普通の高校生にしか見えません。前出のサブリーナと比べると、ものすごく対照的です。

「捕われた様に感じている」というサブリーナは見るからに固まっていて、文字を打ち込みながら眉間にしわをよせ、いつの間にかしかめっ面のような表情に…。彼女のボディランゲージからは、「逃げたい」、「見られたくない」、「隠れたい」というネガティブなメッセージを受けませんか? きっと、長い間沈黙を続けている間に、縮こまったようなオドオドした態度や姿勢が身についてしまったのではないかと…。 一方、友達と談笑しているケイティは、自然でオープンな印象。最初の独白部分で沈黙している彼女とは違う人みたいです。

ちょっと微笑むだけで、人が受ける印象は随分違うもの。オープンな感じだと、声をかけやすそうだなと思ってもらえます。その点でも、サブリーナはすごく損をしてるなと思わずにはいられません。場面緘黙が長引くと、弊害はより広範囲で大きなものになってしまう可能性を含んでいるのではないでしょうか?

詳細は判りませんが、ケイティは小学校の頃から両親や学校から支援を受けていたものと想像しています。学校からの支援はなかったにしろ、両親の場面緘黙への理解と支援があったのは確かですね。イギリスでも10年ほど前は緘黙が知られておらず、学校や教育関係者、心理士から適切な支援を受けられない状況でした。

ケイティは、セカンダリースクールに進学した7年生(12歳)の時、新しい友達を作ったことが大きな転機になったと語っています。進学したり、転校したりして新しく環境が変わると、周りは「自分がしゃべらない」ということを知らないから、話し始めるのが楽になると言われています。年が上の緘黙の子どもに有効な方法ですが、誰にでも効果的という訳ではありません。

ここで決め手になるのは、やはり自ら「話すんだ」という意志を持ってチャレンジすることでしょう。そのためには、それ以前にスモールステップを積み重ね、「新しい環境だったら話せる」という自信を持っていることが重要だと思います。学校で話さなくても、外で話せるとか、知らない人には話せるとか、親以外にも親密に話せる人がいるとか…。

また、話せなくても同年代の友達がいるということが、すごく重要になってきそうです。ずっと友達付き合いがないという場合、最初は話せても、どんな話題で、何を話をしたらいいのか見当がつかず、友達付き合いが難しくなるかもしれません。好きなことや趣味が話の糸口になったりするので、子どもが好きなことを尊重してあげるのも大切ですよね。

なお、新しい環境だったら絶対に大丈夫という保証はどこにもありません。もし、ケイティが新しい友達を作れなかったら、学校で嫌な体験をしていたら、徐々にまた沈黙の世界に戻ってしまっていたかも…。新しい環境が自分に合うか合わないかは、宝くじのようなものだと思います。でも、これは緘黙でなくても、誰にとっても同じですよね。

<関連記事>

BBCが大人の場面緘黙を紹介