11月もあと数日で終わりですね。今回で、やっと湖水地方の夏休み記事が終わりです。最後まで付き合ってくださった方、ありがとうございました。
湖水地方でのホリデーを終えた後は、ヨークシャーを経由して帰途に就きました。リーズの北にあるハワースという小さな町で、19世紀の英国文学に大きな影響を与えたブロンテ姉妹が育った牧師館を見学し、何年かぶりにリーズに住む友達家族と会うためです。
湖水地方の南東にあるヨークシャーへ向かう途中には、『嵐が丘』に出てくるような荒涼としたヒースの原野が広がっていました。
小高い丘の上にある牧師館(左)と兄弟のブランウェルが描いた3姉妹の肖像画。牧師館の隣には父親パトリックが牧師をしていた教会がある
牧師館は現在博物館になっていて、『ジェーンエア』を書いたシャーロット(1816~1855年)、『嵐が丘』のエミリー(1818~1848年)、『ワイルドフェル屋敷の住人』のアン(1820~1849年)の3姉妹が使った家具や所持品、原稿や日記、書簡などが展示されています。
ブロンテ牧師夫妻が6人の子どもを連れてこの牧師館に引っ越してきたのは1820年のこと。 その翌年に母親のマリアが死亡し、子ども達は伯母に育てられることに。
上の姉妹4人は聖職者の子女のための寄宿学校に入学しましたが、長女マリアと次女エリザベスが結核にかかり相次いで死亡。その昔『ジェーンエア』を白黒映画で初めて見た時、カソリック寄宿学校の過酷な生活描写に驚き、本を読んでまた驚いたんですが、実体験に基づいて書かれたよう…。当時ハワースでは人々の暮らしは貧しく、平均寿命がなんと25歳未満だったとか!生後6か月未満の乳児の死亡率は41%だったというから驚きます。
シャーロッテが描いたアンの素描とアンが描いた風景画。右は姉妹が使っていた裁縫箱
上の子ども2人を続けて亡くしたパトリック牧師は、3女シャーロット、長男ブランウェル、4女エミリー、末っ子のアンを家庭で教育しました。3姉妹が描いた絵が複数展示されていましたが、皆なかなかの腕前。当時、貧しい牧師の娘は裕福な家に嫁ぐことは望めず、自立への唯一の道は教師や家庭教師になることだったそう。そのためには、美術や音楽も極める必要がありました。
ピアノがあるパトリック牧師の書斎。若きブロンテ姉妹が作ったミニチュア本は、虫眼鏡がないと読めないほどの大きさ
外の世界から孤立して育ったこともあり、3姉妹と第4子で長男のブランウェルは非常に仲が良かったそう。子どものころから共同で空想の物語を創って遊び、次第に複雑な物語を書くようになったのです。芸術全般に優れていたブランウェルを父親も姉妹も天才とみなし、彼の将来に大きな期待を寄せていたとか。でも、彼はアルコールとアヘンに溺れ、大成することなく31歳でこの世を去りました。
3姉妹がそれぞれの小説を書いた応接間兼ダイニングルーム。簡素であまり飾り気がありません
3姉妹は1846年に自費で詩集を出版。当時は女流作家が認められておらず、男性名のペンネームを使っていました。1847年に『嵐が丘』(エミリー29歳の時)と『ジェーンエア』(シャーロッテ31歳の時)が出版されて大きな話題に。翌年にはアンの2作目『ワイルドフェル屋敷の住人』(28歳の時)が出版され、人気を博しました。
階段の踊り場にある大時計(左)と簡素なキッチン(中)。シャーロットのドレスから(右)から彼女がどんなに小柄だったか伝わってきます
でも、彼女たちの小説家としての活動はとても短いものでした。エミリー(享年30歳)とアン(享年29歳)は出版から時を経ず結核で死去。ひとり残されたシャーロットは結婚したものの翌年に38歳で亡くなり、父親のパトリックが子ども達より長生きする結果に。6人の子宝に恵まれながら、誰ひとりとして子孫を残せず、ブロンテ家は途絶えてしまったのです。
少ない人生経験からあれほどドラマチックな物語を生み出した彼女たちが、そろって薄命だったのは、ハワースの気候や当時の暮らしぶりも大きく影響していたんでしょうね…。
当時の面影を残す目抜き通りの坂道。町の向こうは長閑な田園風景
小雨が降り出しそうな曇り空の下、カフェの中庭で友達一家とランチをしながら、色々語り合うことができました。しばらく見ないうちに、子ども達が大きく成長していてビックリ。コロナ禍はまだまだ続きそうですが、時間はどんどん流れていくので、うまく息抜きをしていけるといいですよね。
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