北風と太陽

ロンドンは例年になく秋晴れの日が続いていましたが、11月に入ってからは雨や曇の日ばかり…。そんな中、うちでは屋根裏の改装工事をすることになり、屋根裏に溜めてあったものを貸倉庫へと大移動。先週から本格的に工事が始まりました。

2003年に引っ越してきた時、屋根裏にはもう部屋があったんです。でも、それは素人がDIYで改築したもの。断熱材も入れてないので、夏は暑く、冬はものすご~く寒い…。現在の規定だと違反の部分がいっぱいあるんだそう。今までは、主人の事務所&ドラムの練習室、そして物置き&室内物干し場となってました。

実は、来年の春に着工予定だったのに、改装業社からいきなり「空きが出たから始める」と言われ、主人がOKしちゃったんですよね…。その主人は3週間前にヘルニアの手術をしたため、重いものが持てず、運転も1ヶ月はお預け。仕方なく、息子を連れて何度も近くの貸倉庫を往復し、やっと屋根裏をカラにしたんです。

不要なものをなんでも突っ込んでおいたので、イザ移動となると驚くほどの量!本や雑誌、息子の小学校時代のノートや絵など、過去に整理しておくべきだったものが山ほどありました。でも、私は昔から整理整頓が苦手で…。

ところで、本棚を整理していたら、息子が小さい時の記録ノートを発見。ページをパラパラめくっていたら、昔の記憶がドドっと蘇ってきました。

今はほとんど気にならなくなりましたが、息子が小さい頃は感覚過敏に悩まされたものです。小学校低学年までは服についているタグが苦手で、全部切ってました。首の後ろを気にするので見てみると、擦れて皮膚が赤くなってるという…。襟付きの服を嫌がるため、コットン100%のTシャツっぽいものばかりという時期が続きました。

でも、ジュニアスクール(小3~6年)の制服がポロシャツだったんです。どうしようかと悩んだんですが、着せてみたらスンナリOK。セカンダリー(12歳~16歳)に進むと、毎日カッターシャツにネクタイ姿で登校するように。襟付きを拒否していたあの日々は一体何だったのか…という感じでした。

記録ノートで鮮明に思い出したのは、息子が2歳8ヶ月の春、いつものように近くの公園に行った時の出来事。晴天のいつになく暖かい日で、周りの子どもはみんな上着なしで遊んでました。さすがに暑くなってきて、息子の上着を脱がせようとしたら、嫌がって断固拒否!

うっすらと汗を浮かべながらも、絶対に脱ごうとしないのです。今考えれば、自分で脱ぎたくなるまで放っておけば良かったんですが、なにせ新米ママのこと。「○○君、暑くないの?」とママ友にも指摘され、周りの目が気になってしまい、何度も「脱ぎなさい!」とガミガミ言ってしまいました。

でも、言えば言うほど、意固地になって脱ごうとしないんですよね…。明るいパステルカラーの軽装の子どもたちの中で、息子だけ赤い顔をしながらも濃紺のジャケットを着たまま。私のほうが自意識過剰になって、「穴があったら入りたい」という心境になってしまったのでした。

今考えれば、脱ぐのがなんとなく嫌だった(不安だった)んでしょう。息子にとって、その時の上着は『スヌーピー』に出てくるライナスの毛布みたいなものだったんだと思います――自分を守ってくれる大事なもの、着てると安心できるもの。安定剤のようなものだったのかな。

『北風と太陽』のように、無理やり旅人の外套を脱がすのでなく、あたたかな陽射しで照らし続けて、自分から脱ごうと思えるまで待つのがベストなんでしょうね。子どもの気持ちに寄り添いながら、とにかく忍耐忍耐。

場面緘黙の治療も、これに似ているような気がします。待っているだけでは何も進展がないから、太陽の光で少しずつ少しずつ温めて、少しずつ少しずつ勇気を出せるようにしていく。他の子と比べないよう根気強く気長に、がポイントでしょうか。

そういえば、私の姪っ子は感覚過敏はありませんでしたが、赤ちゃん時代から偏愛(?!)しているヌイグルミがありました。いつでも、どこでもそのヌイグルミと一緒。それがないと眠れない、ないと泣きながら探して回る、という時期が結構大きくなるまで続いたような…。

義妹は同じものを複数個買い込んで使いまわしてました。が、2年位でモデルチェンジして購入不可に。何度も洗濯しているうちに布は擦り切れ、さすがに最後はボロボロ。「その汚い布切れは何?」というまで使い込んでました(笑)。

そんな姪っ子もいつの間にか、そのヌイグルミを卒業し、ものすごい偏食もあったんですが治ってきた模様。他にも、いつまでたってもオシャブリが手放せない子や、哺乳瓶が手放せない子なんかもいますよね。

程度の違いさえあれ、みんなそれぞれ色々あります。後から振り返って、「あの時は大変だった」と早く言えるようになるといいですね。

ところで、工事が始まって1週間の間に、屋根裏の下のバスルーム、息子の部屋、私たちの部屋の天井にヒビが入り、家の中は毎日埃だらけ…。今屋根がない状態で、土曜の夜の嵐の後、息子の部屋の天井のヒビから雨漏りが…。クリスマス、お正月をまたいでの工事となるんですが、早く普通の生活に戻りたいと願うばかりです。

 

「思いやり」が育ってない?

以前も触れましたが、息子が生まれた2000年にイギリスの国営放送BBCで『Child of Our Time』というドキュメンタリー番組が始まりました。ロバート・ウィンストン教授の解説で、数年毎に2000年生まれの25人の子どもたちの成長を追うもの。周りのママ友達はみんなこの番組を観ていて、よく話題になったものです。

2003年に放映されたプログラムでは、3歳くらいになれば親に何かあったら心配するようになることを実証。例えば、母親が怪我したりしたら、3歳児でも心配して普通は「ママ大丈夫?」と言ってくれますよね?

でも、それまで息子が「大丈夫?」と言ってくれたことはありませんでした。じゃあ、息子には人の気持ちが解らないのかな、思いやりが育ってないのかな、とめっちゃ不安になったのを覚えています。

が、ある日そうではないことが判明しました。何が原因だったか覚えてないのですが、私と主人がケンカ(口論)していた時のこと。息子は主人が私を虐めてると思ったのでしょう。泣きながら主人の脚にくらいついて、「ダメ!」と抗議してくれました。

あっ、息子が私のことを心配してくれている――その時の感激は今でも忘れられません。

その後、普段は丈夫な主人が風邪をひいて寝込んだことがありました。息子の様子をうかがうと、主人の側に近づこうともせず、何だか避けているような…。それに、いつもより私に纏わりついてくるんです。どうして?

二人になった時「どうしたの?」と訊いてみたら、「ダディ、違う人になったみたいで恐い」と言うのです。そういわれてみると、主人は体調が悪いためかブスっとして口数も少なく、ネガティブな雰囲気を撒き散らしていました(笑)。息子はいつもと違う主人の様子を敏感に感じ取り、怖がっていたんですね。

それから徐々に、どうやら息子は細かいところまで色々気づいているけれど、自分の気持を口や行動に出すのは苦手なんだなということが解ってきました。

DVDで一緒に『ムーミン』の映画を観た時、息子は登場人物たちがスニフの臆病な行動をからかう場面にものすごく反応して、「かわいそう…」と。変なところで反応するな、とその時は不思議に思ったんですが、息子にはスニフの気持ちが良く解ったみたい。

また、私にだけ癇癪を起こすことが多いのは、どうも「マミーは自分のことは何でも解ってくれているはず」との思い込みがあったよう。息子が小3くらいの時にそれに気づき、「マミーはあなたじゃないから、頭の中で何を考えているかは解らない。ちゃんと言葉で説明してね」と話すようにしました。私のこと、一心同体だと思ってたフシがあります。

息子が自分の意見や気持ちを口にする様になったのは、小学校の高学年になった頃からだったでしょうか。私が息子の友達に言った言葉や何気なくとった行動を、後からたしなめられたりすることも…。とても友達思いのところがあることに気付かされました。

そして、今年16歳になった息子は、人の気持ちを考えすぎて、なかなか「No」と言えません。そんなに自分が我慢せず、もっと自分勝手でもいいのに、と思う今日このごろです。

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息子が初めて育てた世界で一番小さい(?)トマト

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「ごめんなさい」がいえなくて

「ごめんなさい」がいえなくて

たいていの緘黙児は、例え話せる人にでも「こんにちは」や「さようなら」などの挨拶がなかなかできません。親しい間柄でも「ありがとう」の言葉が出にくいようです。何か間違いをしたとき、家族にでさえ「ごめんなさい」と言えないことが多いかもしれません。

その理由を考えてみると、これらは日常の挨拶や習慣の言葉で、「言うのが当たり前」だからじゃないでしょうか?

子どもが、「この子はこう言うハズ」と予期している相手の空気をいつも感じているとしたら、結構なプレッシャーじゃないかと思うのです。多分、子ども自身は「ここで言わなきゃいけない」と明確に意識してる訳じゃなく、漠然と場の空気を感じてるだけだと思うんですが。

また、一度言えなくて注意されたとすると、次はその記憶が手伝って余計言えなくなるということもあるかもしれません。

子育てをする上で、特に母親は子どもの行儀作法をしっかりしつけたいと願うものです。子どもが小さい頃、「ありがとうは?」「ちゃんとバイバイしようね!」などと、頻繁に促してませんでしたか?

私は――やってました。今思えば、息子には細かいところまでかなりガミガミ言ってたと思います…。新米母親だったし、ちゃんとしつけなきゃと一生懸命でした。超敏感な子どもの性格なんかお構いなしに。

緘黙の子どもの中には、感覚過敏がある子が多いという統計がでています。今はそれほどでもないですが、うちの息子もそうでした。触覚、聴覚、嗅覚、味覚などが、めっちゃ鋭い。それだけでなく、周囲の反応や雰囲気、場の空気に対して、とても敏感に反応することが多かったように記憶しています。観察力もけっこう鋭い。(この特性は場面緘黙がASDと混同されてしまう理由のひとつと思うのですが、それはおいておきます)。

この周りの空気を感じ取る敏感さが、緘黙児が挨拶できない要因のひとつになってると思うんです。それと、息子についていえば、頑固というか、すごく意固地なところがありました。

親が「○○しなさい」というのは当たり前とはいえ、今思うとうちの子にとってはガミガミ言うのがすごくマイナスだったような…。やらせようとすると、「やらせられる」と敏感に感じとって、意固地になってやりたがらない。幼児のプレイグループでは、私は子ども達に何かやらせるのが結構うまかったんです。他の子はみんなやってるのに、自分の息子だけやらないという…。

息子が4歳か5歳の頃だったと思うんですが、ある日何かの拍子にコップに入っていたジュースを大量にこぼしてしまったことがありました。私が「あ~、こぼれちゃた!」と大声を出し、慌ててキッチンペーパーを持ってきて拭いている間、息子は何もしないんです。「ホラ、一緒に拭いて」と言っても、動かない。

あれっと思って見ると、その場で固まってました。こぼしてしまったショックから全然立ち直ってなくて――こぼしてしまった自分に唖然としている感じ。私の態度や場の空気が急に変わって、「怒られる」と思ったのもあったかもしれません。

「あ、この子は私が思ってるより、もっともっと繊細だったんだな」と気付きました。

片付けてから、「こぼれちゃったのは仕方ないね。こういう時はすぐ『ゴメンナサイ』っていおうね」とゆっくり話しました。それまでは、息子の状態をしっかり見ずに、「ゴメンナサイは?」「駄目じゃない」と叱っていたかも…。

このことがあってから、私は小さいことでも頻繁に「ありがとう」や「ごめんね」を言うようにしました。主人に対しても、息子に対しても。そうしたら、これらの言葉に対する息子の抵抗が、徐々になくなっていったような気がします。

「押し付けられた」と感じると意固地になっちゃうし、プレッシャーと感じると殻に閉じこもってしまう――息子の小さい頃はそんな難しさがありました。

敏感な子どもには、その子どもに合ったしつけや対応の仕方が必要かもしれません。

 

声を出す練習を!

場面緘黙の人は、自分から話しかけるのが苦手です。でも、自分から言葉を発しないと、話す機会がかなり減ってしまいます。学校で話せない分、家で家族と話せているでしょうか?

中学生にもなると、親と話すのはかったるいかもしれません。干渉されたくない気持ちも強いでしょう。でも、兄弟姉妹とは気軽にオシャベリできていますか?学校外でもあまり話さないでいると、だんだん自分が話せないような気持になってしまいませんか?

私は緘黙ではありませんでしたが、ものすごい恥ずかしがり屋でした。特に、小学校の頃は授業中に発言するのが怖ろしく、緊張して声が小さくなりがちでした。先生に、「もう少し大きな声で」と言われると、余計恥ずかしくて、声がくぐもってしまうことも…。休み時間に親友と話している時は普通なのに、先生が近づいて来たりすると、途端に小声になったり。今思うと、意識しないうちに、身体が緊張してしまっていたのかな…。

緊張すると、音量の調整をするのが難しくなるような気がするんです。シャイな人にとって、適切な音量でハッキリ発音することって、結構難しいんじゃないでしょうか?私は大人になって随分面の皮が厚くなりましたが、まだたまに「えっ、聞こえない」と言われてアセルことも。

緘黙になる人は不安が強いため、あまり話さないでいると、人に話しかけるのが余計に怖くなる傾向があるよう。話しかけるタイミングとか、音量とか--自信がないので、うまくできないような気持ちに陥ってしまうのです。

少しずつ自信を回復するには、やはり実際に声を出して話す必要があると思います。家でも黙っていることが多い人は、なるべく意識して声を出してください。勉強してる時は声を出して暗記したり、教科書や本を音読したり、歌でもいいんです。

あと、声を出す練習に、携帯やPCの音声操作アプリが使えます。私が知ってるのは、iPhoneとiPadのSiriとOK Googleくらいですが、もっとありますよね?これらのアプリを操作するには、ハッキリものを言わなければなりません。自分が言った言葉が即座に文字化されるので、目で確認できます。特に、Siriは返事が返ってくるので、会話の練習にはちょうどいいのでは?なかなか面白い返事がかえってきたりして、結構楽しめます。 

アプリで話すことに慣れてきたら、次はあまり家の近くじゃない、気軽に入れるお店(コンビニ、本屋、ドラッグストア等)に行って、頑張って店員さんに話しかけてみましょう。「すみません」「○○はどこにありますか?」「ありがとう」という感じで。

これを何度か繰り返し、自信がついてきたら、もう少し長い質問をしてみたり、言葉を増やしてみてください。駅に行って観光地までの行き方を訊ねるとか、電化製品のお店で新しい製品について訊ねるとか、図書館で本を推薦してもらうとか。

知らない人に何かを訊ねるのは、知っている人より気楽だと思うのですが、人によってそれぞれです。まずは自分が一番楽な人・方法を探してみてください。(良かったら、サキ君のビデオを参照してくださいね https://www.youtube.com/watch?v=lA4-GSJxUac)。

今は誰もが携帯やPCを持ち、電話でオシャベリすることも減ってしまいました。でも、リアルで会話をすることは、本当に大切だと思います。

もちろん、SNSで友達などとメッセージのやり取りをすることも大切。コミュニケーションの手段を色々使いこなして、少しずつ緘黙を克服していけるといいですね。

 

同年代の友だちの重要性

前の記事で「場面緘黙の後遺症」について書きました。

やっと緘黙を克服したのに、仲間とのおしゃべりにうまく参加できない、社会的な場面での緊張がひどく人付き合いが苦手、という人が一定数いるようです。これは緘黙をひきずったまま社会に出た人に多く、早期発見・治療すれば、学校や社会生活に順応できる傾向が強いよう。

以前「発音・言語・コミュニケーションの困難を持つ子どもの支援(Supporting Children with Speech, Language and Communication Needs)」というコースを受講した際、子どもの言語の発達は18歳くらいまで続くと習いました。例えば、皮肉を理解し対応できるようになる年齢は11~16歳頃。身近で見聞きしたり、実際に使ったりと、実践を重ねるうちに自分なりの受け答えができるようになるのです。

家庭でもそうした体験はできますが、家族ではない他者との体験もとても大切。第三者の大人たちや同年代・同世代の子どもたちと接したり、コミュニケーションを取る機会が持てる場といえば、やはり学校です。そう考えると、学校は勉強するだけの場所ではないんだということが、ひしひしと感じられます。

色々な体験をしながら社会的なスキルを身に着けていく場――学校は子どもが一日の大半を過ごす社会であり世界です。何年間も通わなければならないのに、ずーっと口をきけず、ただ周囲の話を聞いているだけというのは、本当に辛い…。会話に加われないことで、会話やコミュニケーションの練習ができないだけでなく、自信を積み重ねていくことが難しいのではないでしょうか? 

不安になりやすい子どもにとって、学校環境はとても重要です。でも、どんな担任とクラスに当たるかは、誰にとっても宝くじのようなもの。学校で話せなくても、休み時間に一緒にいられる友だちがいること、クラスメイトと交わえることが、大きなポイントになってくるかと思います。友だちの有無は自己評価の問題にも関わってくるので、本当に大切です。

親が子どもの友達関係に関与できる期間は、それほど長くありません。頑張っても、せいぜい小学校の中学年くらいまででしょうか?でも、まだ小さいうちだったら、親が友達を作るきっかけを作ってあげられると思います。できたら、子どもが好意を持っている園の友達や学校のクラスメイトを頻繁に自宅に招き、一緒に遊ばせてあげてください。

私も息子が4歳半で緘黙になってから、クラスで一番好きだった子のママに協力してもらって、家に遊びに来てもらったり、一緒に公園に行ったりしました。息子は自宅だとすぐにしゃべりだしましたが、親が遊びの仲介をしなければならないケースもあるかと思います。子どもの緊張感を解くには、鬼ごっこや風船つきなど、体を使った動きのある遊びがお勧めです(『まず体を動かす遊びから』をご参照ください)。

息子の場合は、教室でまずその友達に囁くようになり、徐々に囁き声が大きくなって、話せる友達が多くなっていきました。学校側が同じグループになるよう配慮してくれたのが、功をなしたと思います。

うちでは息子が小6の時まで、だいたい週1回のペースで友達グループ(息子を入れて計5人)を家に招いていました。持ち回りで、週3回くらい順々に誰かの家に遊びに行ってたかな…。友達の家で早い夕飯(というか簡単ごはん)を食べて、6時半くらいに帰宅するんですが、友達の家族とも顔見知りになり、いい体験ができたと思っています。

子どもたちを身近で見ていて感じたのは、同世代でしか共有できない流行や文化があって、子どもだけの世界があるんだなということ。例えば、Dr Whoが流行っていた頃、グループ全員がカード集めやフィギュア集めに熱中し、番組が放送された翌日はその話で持ちきり。Dr Whoの知識がなければ話にのれないし、カードを持ってないと、ゲームの仲間には入れないんです。

こうした子ども同士の交流や会話は、親が絶対に教えてあげることができないものです。だからこそ、そのきっかけ作りを親が手伝ってあげられたらと思います。

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場面緘黙の後遺症?

まず体を動かす遊びから

 

緘黙児と学校

自分にとって、学校ってどんな場所だったかな?そう思い返してみると、特に小学生低学年の頃は、教師も上級生もなんだか怖ろしく、いつまでたっても馴染めない、とても窮屈な場所だったように記憶しています。

私は引っ込み思案で、文字通り内弁慶な子どもだったので、学校では絶対に地を出せず常に小さくなっていた覚えが…。小1の時、家ではしゃいでいる姿を見た担任から、「本当は、こんなに元気なのね」と驚かれたことがありました。「大人しくて、自分からはあまり話さない子」が、大笑いしながらベラベラ喋っていたので、ビックリしたんでしょうね。

先日、知人に頼み込んで、村上春樹の新書『職業としての小説家』を日本から送ってもらいました。この自伝的エッセイと称される作品には、村上春樹が小説を書く(小説家として生きる)理由や姿勢が真摯に綴られています。で、その中に『学校について』という章があって、とても共感するものがあったので、ここに書き留めておきたいと思います。

詰め込み式の教育システムを窮屈に感じていた村上さんにとって、学校で何人かの親しい友人を作れたこと、たくさんの本を読んだことが救いになったといいます。本の世界が一時的な避難場所となり、彼にとっての「個の回復スペース」であったと。

――現実の学校制度にうまく馴染めない子供たちであっても、教室の勉強にそれほど興味が持てない子供たちであっても、もしそのようなカスタムメイドの「個の回復スペース」を手に入れることができたなら、そしてそこで自分に向いたもの、自分の背丈に合ったものを見つけ、その可能性を自分のペースで伸ばしていくことができたなら、うまく自然に「制度の壁」を克服していけるのではないかと思います。しかしそのためには、そのような心のあり方 =「個としての生き方」を理解し、評価する共同体の、あるいは家庭の後押しが必要になってきます。――P210&211 第八回 『学校について』より

沈黙のうちに学校生活を送らなければならない緘黙児にとって、学校はやはりのびのびと自由に過ごせる場所ではないと思います。学校で常に不安や緊張を感じ、窮屈な思いをしている子どもだからこそ、「個の回復スペース」を持つことはとても重要ではないでしょうか?

でも、子どもの個性を伸ばし、自己評価を高めていけるような何か・場所を見つけるのは、そんなに簡単じゃないですよね?話さないことで、習い事をするにも支障がでてくるかもしれないし、学校の友だちや知り合いのいる場所を避けるかもしれないし。一番安心できる家が「個の回復スペース」になればいいですが、家にこもってばかりいては社会性が育たないし…。

ところで、習い事をさせるんだったら、なるべく早いうちに始めた方がいいように思います。小学校中学年になって周囲を意識するようになると、新たに集団に入って何かを始めるのが、結構難しくなってきます。その集団に、学校の友だちや知り合いがいる場合は特に。「やる気になった時に」と待っていると、同年代の子たちは先に進んでしまい、差を感じてしまうかもしれません。

子どもの好きなこと・得意なことを見つけ出して、伸ばしてあげる――口でいうのは簡単ですが、とても難しいです。うちは主人の仕事と趣味に影響されて、息子はすっかりPCオタクになってしまったので…。

ただ、それが漫画やPCゲームであっても、侮れないもの。もう4年ほど前ですが、息子はマインクラフトの個人サイトの管理人(?)をしていた時期があって、10人くらいの友だち・知人と一緒にバーチャルの世界で色々作って遊んでいました。また、漫画を描くのが得意な緘黙児が、漫画を友だちとのコミュニケーション・ツールにしているのを目の当たりにしたこともあります。

人に迷惑がかからなければ、何でもいいと思います。好きなもの・やりたいことがあったら、どんどん応援してあげてください。共通の趣味が、友だちとの接点になったり、なにかを始める原動力になればいいなと思います。そして、それが学校での疲弊を回復させてくれるものになればいいですね。

 

お知らせ

めっちゃ遅れてしまいましたが、教育・知育ソフト、学び空間などの企画・開発を行っているレデックス社のメールマガジンで、『場面緘黙の子どもへの理解と対応』という連載記事を掲載中です。この連載はかんもくネットが執筆を担当し、リレー方式で5回まで続く予定です。第2回目の『(第2回)場面緘黙児の不安を減らす』(担当させていただきました)をレデックス社のHPで読むことができます。よろしかったら、下記のWebページをのぞいてみてくださいね。1月29日配信の2つ目の記事です。

レデックス社メールマガジン http://www.ledex.co.jp/mailmag/20160129

冬休みにできること

お久しぶりです。あっという間に時間が経ってしまい、私が日本語を教えている特別支援校も、息子の学校も先週末からクリスマス休みに突入しました。ちなみに、日本の2学期に当たるSpring Term は1月4日(月)から始まります。イギリスではクリスマスが一年最大のイベントなので、お正月はオマケみたいなもの。来年はたまたま月曜日が4日なのですが、通常は元旦が祭日となるだけで、2日から仕事始めという年もあるのです。

冬休みは、親族や友達が集まる時期だし、ショッピングや映画など出かける機会も多いですよね。そういった機会を最大限に利用して、緘黙児が社会的な体験や人とのコミュニケーションを多く持てるようにできるといいなと思います。というのも、学校外で話せる大人や子どもがいることが、緘黙児にとってとても重要だからです。

従兄弟や親類の人と親しく付き合ったり、話すことができれば、家族以外の人との信頼関係が築けるだけでなく、子どもの視野が広がり、自己評価もあがります。緘黙児は社会不安を抱えていることが多く、自分から話しかけたり、友達を作ることが苦手なことが多いので、従兄弟や親戚の子との繋がりは大切にしたいですね。

緘黙児の中には、親戚や従兄弟たちとも話せないという子もいるでしょう。でも、なんとなく親しみは感じてるんじゃないでしょうか?無理にとはいいませんが、将来も長い付き合いができるよう、なるべく一緒に過ごす時間を作りたいものです。年下の子だったら一緒にいても安心、という緘黙児も多いと思います。まずは、兄弟姉妹も一緒に少人数で遊ばせたり、ファーストフード店などに連れて行ってみてはどうでしょう?

うちの息子は年下の子に「いいところを見せたい」気持ちが強くて、マメにお世話したり、従妹弟たちの分までアイスクリームを注文したりしていました。年が上になるにつれて、家族と一緒に行動しなくなってくるので、できるうちに楽しく無理のない範囲でトライしてみてください。

この時期はお正月映画がたくさん上映されてます。友達や兄弟・姉妹、家族と一緒に観に行く計画を立てるのも楽しみですよね?学校では話せなくても、同世代の子たちと同じ話題を持つことはとても大切。子どもの好きなこと、趣味や活動が緘黙克服のきっかけになるかもしれません。

出かけるときは、なるべく学校の友達に遭遇しないよう、ちょっと遠くまで足を伸ばすのも一考です。自分に注目が集まらないような、騒がしい公の場所だったら、子どもは声を出しやすいはず。家族と一緒に外出して、いっぱいおしゃべりする機会を増やしましょう。緘黙児は顔見知りの近所の人との挨拶や、「ありがとう」「ごめんなさい」を言うことが苦手です。遠くのデパートや大型スーパーなどで、お年玉で好きなものを買い、「ありがとう」を言う練習をしてみてもいいかもしれません。

ものを言えない学校生活からしばし開放されて、のびのびした時間を過ごせますように。

 

決めつけないで(その2)

8月の半ばに、最近気になっている言葉”Judgement” と ”Judgemental” について書きました。今回はその続きです。

この夏、あるガーデンパーティで「それはちょっと”Judgemental” な(偏った)見解では?」と思うことがあったので、ここに記しておきたいと思います。

うちの息子には深刻な食物アレルギーがあり、食べ物には気をつけなければなりません。よそで何か食べる時は、本人が中身を確認し危なそうなものは避けています。この時はバイキング形式で、息子は確かめてから好きなものを取りました。その後、食後のコーヒータイムに主人と息子のいるテーブルで、「昔はアレルギーなんてなかったのに、どうして現代の子どもに多いのか」と話し出した人が。

その方曰く、原因は「殺菌のしすぎ。子どもを守りすぎ」とのこと。「哺乳瓶を煮沸消毒するなんて馬鹿げている」、「99%バクテリアを殺す殺菌剤なんて必要ない」と主張していました。

確かにそれはあると思います。新聞などでもよく目にするので、もう通説になっているかもしれません。でも、それはあくまで原因のひとつであって、他にも遺伝的な傾向とか、農薬や化学物質の使い過ぎとか、予防注射が免疫に与える影響とか、様々なものが複雑に組み合わさっていると思うのです…。

主人はというと、その人の意見に100% 賛同していました。主人の主義で、うちでは殺菌剤は使わないし、床に落ちたおもちゃを息子が舐めても「抵抗力がつく」と気にしないようにしてました。殆ど母乳だったので、哺乳瓶もあまり使ってません。それでも、息子はアレルギーになってしまいました(涙)。

ちなみに、うちの子がアレルギーになったのは3歳半を過ぎてからで、それまではアレルギー源となる食物も少しは食べさせてたんですよね…。突然反応するようになったので、許容量を超えて免疫反応が出始めたんじゃないかなと思っています。

実は、私の母が酷い花粉アレルギーで、私と兄も20歳を過ぎてから花粉アレルギーに。姪っ子2人も幼いころアトピーに苦しみました。一方、主人は敏感肌の家系で、赤ちゃんの時に日光浴をしていて酷い水膨れになり、それ以来真夏でも長袖、長ズボンを死守。うっかり日に焼けると、真っ赤になって後々すごく大変なのです。両親のそういう悪いところばかりが息子に遺伝してしまったようで、なんとも気の毒…。

「殺菌のしすぎ。子どもを守りすぎ」も一理ありますが、一般論だけでなくそれぞれの事情も考慮してもらえたらなあと思わずにいられませんでした。

もうひとつ、同じパーティーでの出来事。5か月の赤ちゃんを連れてきたカップルがいて、ランチタイム中はお昼寝をさせてました。目がパッチリ大きくて、髪が耳の後ろでくるんとカールしている可愛い男の子!彼がお昼寝から目覚め、みんなのところに連れてこられた時のことです。

女性陣の注目が赤ちゃんに集中し、代わりばんこに抱っこ大会に。私はママの隣に座っていたので、一番最初に抱かせてもらったんです。知らない家で知らない人達に囲まれているのに、彼はご機嫌でニコニコ。思わず、「まあ、寝起きなのに全く泣かないでエライね~!うちの子だったら大泣きだったよ」と漏らしてしまいました。(息子よゴメン、聞こえたかな…)。

すると、「社交的になるように、色々な集まりに連れて行ってるの。だから知らない人に慣れてるんだと思うわ」とママ。彼女は産休がもう残り少なく、赤ちゃんを預かってくれる託児所を探し回ってる最中とか。それもあって、赤ちゃんが人馴れするようにしてるんだなと思いました。

でも、それを聞いた別の女性が、「ひとりで子育てしてちゃダメ。小さい頃から集団の中で慣らさないから、引っ込み思案になっちゃうのよ」という主旨の意見を…。

思わず、自分の子育てを否定されたような気持ちになってしまいました… 。私としては、ママさんグループに参加したりと一生懸命子どもの社交性を育てようとしてきたつもりなのに――それでも、うちの子は未だに引っ込み思案です。

これについても、一般論はそうかもしれませんが、子どもは十人十色。HSP(Highly Sensitive Person)に生まれた子もいれば、非HSPに生まれた子もいる訳で、生まれ持った気質もかなり影響してるはず。うちの子をもっと、もっと集団の中に連れて行ってたら、積極的な性格になっていたとは思えないんです…。非HSPの人口が70%以上とマジョリティなので、どうしてもそちらの考え方が基準になってしまうんですよね。

急にアレルギー反応が出て、激しく嘔吐して、ぐったりする子どもを見たことがない人には、アレルギー源の食物を避けようとする姿勢が「大げさ」に見えるかもしれません。周りにアレルギーの人がいないと、想像したり、理解したりすることが難しいんですよね…。

残念ですが、場面緘黙も同じじゃないでしょうか?「話す」というあたりまえの行為ができないことを、「そうなんだ。大変だね」とすんなり受け入れてもらうのは結構難しいと思います。不安のために話せないと言われても、傍目にはそれほど不安そうには見えないことも多いし…。目に見える苦しい症状がある訳ではないので。

介入してもすぐに効果は出ず長期戦になることが多いし、クラス替えなどで症状が戻ってしまうこともあるし、緘黙児って傍からみると相当不思議ちゃんなのかもしれません。大人しくて授業やクラスの妨げにならないし、周囲が後回しにしがちなのも、今の学校制度を考えると仕方ない部分があるかなと…。

人間というのは、自分がその立場に立ってみないと、なかなか親身になれないものです。そのうえ、自分が話しかけてるのに反応がないと、「無視されてる」と否定的に捉えがち。だから、少しずつでも、困っていることを知ってもらうことが大切じゃないでしょうか?治療も長期戦ですが、周囲の理解を求めるのも気長に、長期戦でいきましょう。

イギリスでは10月が場面緘黙啓発期間になる予定なので、私も近くの学校にSMIRAのリーフレットを配布しようかなと思っています。

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決めつけないで

 

決めつけないで

ここのところ、”Judgement” と ”Judgemental” という言葉に頻繁に出くわします。別に意識していないのに、ふと気づくと同じ単語がキーワードのように現れる――そんな体験ってないですか?

”judge”という動詞には「裁く」とか「察する」という意味があり、よく知られた名詞の意味は「裁判官」。”judgement” は 「判断」「察し」「独断」など似たような訳ですが、”Judgemental” になると「批判的な」「独断的な」と否定的な意味合いを帯びることが多いよう。

人に “Don’t be judgemental” と言われたら、いい意味ではありません。思い込み、偏見、決めつけに繋がるような、自分の価値感だけでものを見てはいけないという警告なのです。「決めつけないで」とか「独断で決めないで」という訳が一番ぴったりくるでしょうか。

私が最初にこれらの言葉を意識したのは、特別支援TAのエージェントが行った ”Behaviour Management” の研修会でした。これは「学校での子どもの態度・ふるまい(特に、問題行動)にどう対処すべきか」をテーマにしたもの。

ここで重要なポイントになったのが、”Observation(観察)” と“Judgement(判断)” の違いについて。例えば、緘黙児が授業中黙っているのを見て、先生が「A君は授業中ずっと話さなかった」と観察するのと、「A君は話さない子」と判断するのとでは、その後の先生の態度や対処法が変わってくる可能性が大きいのです。さらに、子どもとの関係やコミュニケーションがネガティブなものになる可能性も…。

というのも、”Observation(観察)”は客観的な見方ですが、“Judgement(判断)”ではどうしても判断する人の主観や先入観が入ってきてしまうからです。「A君は話さない子」と判断すると、無意識のうちに子どもにそのレッテルを貼ってしまい、「今回もどうせ話さないから」と思い込みがち。そのためにA君だけ当てなかったり、順番を飛ばすようになったとしたら、子どもはどう感じるでしょうか?また、それを見て他の子ども達はどう思い、行動するでしょうか?

緘黙児は目立ちたくないけれど、みんなと同じでいたいんです。授業中に順番を飛ばされたら、無視されたように感じるでしょう。先生にいい感情を持てず、ますます学校生活が不安になったり、自己評価が下がったり、非言語のコミュニケーションにも問題が出てきてしまうかもしれません。

研修会では、教育関係者は子どもを観察し、理由・原因を多面的に考えたうえで対処方法を決めるよう教わりました。先生も人間だから、やっぱり好き嫌いはあります。これまでに多数の子どもに接してきただけに、自分の見方・やり方を確立していることも多いでしょう。だからこそ、先入観を持つことなく、心を開いて子どもを見ることが大切になってくると思います。

先生が「A君は授業中ずっと話さなかった。どうしてかな?どうしたら授業に参加できるかな?」と探求心を持ってポジティブに考えてくれれば、様々なアイデアが生まれるはず。母親から子どもに、授業中はどんな方法で非言語コミュニケーションを取るのが楽か訊いてもらうという案も出るかもしれません。こうすることで、子どもとの関係やコミュニケーションがポジティブなものになれば嬉しいですね。

これって何も学校や先生に限ったことでなく、日常生活においても気をつけたいことですよね。慎重な性格ゆえに何事もゆっくりめの息子に対して、常に「早く!早く!」と急かしたててる私…。スピードばかりに気を取られ、彼の持つ良い特性や可能性の目を摘んでしまっているかも…。何事も決めつけないように、注意しないといけませんね。

話がそれてしまいましたが、もう一つこれらの言葉をしっかり意識したのは、7月にBBCで放送された『Victoria Derbyshire』の場面緘黙特集でした。

実際のTV番組ではカットされてましたが、ウエブ版に収録された17歳の緘黙少女ケイティの話の中で、 ”Judgemental” という言葉が繰り返し出てきます。

(詳しくは、過去記事『緘黙を克服しつつある17歳』の映像をご参照ください)

ケイティの友達のひとりが、「セカンダリースクールに入って、知らない子に話しかけるのはどんな気持ちだった? 人に評価されるよね?」と訊きます。

(「人に評価されるよね」の部分は、原文だと “That’s where people are most judgemental about people, isn’t it?” なので、「(新学期のセカンダリースクールは)みんなが人に対して最も選別的になるところだよね」ですが、解かりやすいように変えました)

これに対して、ケイティは「そうね、偏見を持っていそうな、人気のある子達からは距離をおいたわ(I tried to stay away from the people, who are most judgemental…)」と答えています。

やはり「しゃべらない(変な)子」という目で見られるのは、緘黙児にとって深刻な問題なんだなとつくづく思いました。先生やクラスメイトは本来の自分の姿を全く見たことがない訳で、本人はものすごいストレスを抱えているんでしょうね。

また、傍らで見ている親もフラストレーションが溜まりますよね。ついつい「何で家にいる時みたいにしゃべらないの?」と言いたくもなるもの…。親にも息抜きが必須です。

そういえば、息子が小1の頃、人がまばらな放課後の校庭を走り回ってリラックスしたのか、知らずと大きな声を出していたことがありました。それを見たママ友が、「以前、精神遅滞(retard)かと思ったこともあったわ。でも、違ってて良かった」とポロリ…。「え~っ、そんな風に見られてたの?!」と大ショックでした。

緘動があった時期は、だんまり+動きも鈍かったので、そいういう風に見えたのかな…。緘黙児って、こんな風に思われちゃうこともあり得るという実例ですね。

(イギリス人って、かなりストレートにものを言う人も多く、グサっと来ることもあるけれど、ずっと黙っていたり、私のいないところで噂されている方がもっと怖い…)

でも、自分でも知らないうちに、とんでもない思い込みをしていることもあるかも…。ちょっと見だけで人を判断しないよう、いつもニュートラルかつフェアな目でものを見るよう、胸に刻む今日この頃です。