息子の緘黙・幼児期4~5歳(その22)自分でやるしかない

3か月待ってやっと心理士に会えた--でも、実際のところ状況は何も変わりませんでした。はっきりしたのは、「場面緘黙」と認められても心理士からは治療を受けられないという事実…。あとは、順番がいつ来るか判らないSLT(言語療法士)を待つのみ。

2005年当時はイギリスでもまだ場面緘黙が広く知られておらず、治療の専門家もごく僅か。小児クリニックでは、ASD(自閉症スペクトラム)のスクリーニングや支援がメインなんだなという印象を受けました。

そうそう、クリニックでは「念のため聴覚テストを」と、アポを取ってくれました。これは、話さない理由は聴覚の問題でないことを確かめるためだったと思います。

確か、3ヶ月後くらいに順番が来たんですが、問診の際に息子がひとことも話さないのを見た検査士に、「お母さん、駄目でしょ!」と注意される羽目に。躾がなってないと思われたんでしょうね…。

焦って「場面緘黙なので話せないんです」と説明したところ、「なに言い訳してるの。ちゃんと話ささせなさい!」と説教されてしまいました~(彼女が場面緘黙を知っていたのかは疑問)。こういう場面ですぐ言い返せなくて、後で悔しい思いを引きずるんですよね…。

当時はこういう誤解も多く、また別の機会に説明しますが、クラスのママ友にも超誤解されていたことが後に判明したのでした。

残念ながら、現在でも専門機関に相談したり、心理士や専門家に会ったからといって、すぐ何かしてもらえるという訳ではないと思います。むしろ、待って待って、やっと専門家に診てもらった時が長期戦のスタートといえるかも…。

専門家は指導してくれるかもしれませんが、実際に子供にスモールステップを踏ませ、調整しながら見守っていくのは側にいる保護者(や学校関係者)なのです。

試行錯誤を繰り返しながら、親子で歩む緘黙克服への長い道のり。3歩進んで2歩下がるじゃないですが、途中で止まったり、後退してしまったりすることも珍しくありません。

待ってるだけでは事態は良くならないので、SMiRAの資料や本『Silent Children(日本語版は『場面緘黙へのアプローチ』)、当時発売されたばかりのヘルピング本『Helping your child with Selective Mutism』などを参考に、自分で取り組みを始めたのが2005年6月くらいから。プレイデートと同時に、なんちゃってCBT(認知行動療法の中のエクスポージャー療法)も始めました。

まずは、子どもが話せる人の地図(Talking Map)作りと不安度チェック(かんもくネットの資料13番をご利用ください http://kanmoku.org/handouts.html)から。

Talking Mapは子どもが話せる人の図です。家庭と公の場に分けて作ってみてください。

図やチャートを作って可視化することで、不安や緘黙の度合いがより具体的に見えてきます。人・場所・活動によって子どもの不安度がどのように違うか、できるだけ細かく調べてください。それを基に、一番不安の少ないところから自分の子に合う取り組みを考えましょう。

参考までに、息子のTalking Mapを貼りますね(クリックすると大きくなります)。

息子の場合、話せる友達が数人いて、彼らのママとも話せました(母親同士が親しいと、安心できるよう)。学校では校舎内では無言ですが、放課後の校庭で仲良しのT君と一緒だとしゃべれるという。まず立てた作戦は:

  • 先生や学校スタッフ(権威ある立場の人)に対して不安が強い → 子どもの方がアプローチしやすそう → プレイデートで話せるクラスメイトを徐々に増やしていく
  • 学校外でクラスメイトに会うと固まる → 「コンニチワ」「サヨナラ」の代わりに手を振る(必ず親が声を出して挨拶)
  • スーパーなどでは割と平気 → お店で好きなものを選ばせ、自分でお金を払わせる → 最初は親が大きな声で「ありがとう」を言い、次第に一緒に言えるようにする

ところで、息子の場合、幼稚園時代(初めての正式な公の場)から口数が少なかったんですが、滑り台事件を境に一気に緘黙・緘動になりました。事件前に話せていた人たち(例えば祖父や私の友達など)とも、ふと気づくと話せなくなっていたのです…。

幼稚園に入る前は、近い親戚や私の友達から「社交的な子」とまで言われていたのに、この機を境に「全然しゃべらない子」という評価に。ショックでした~。

でも、人の評価は変わるもの。3年がかりで緘黙を克服した後は、「大人しい子」くらいに変わりました。自分たちが気に病むほど、人は気にしていないものだなあと実感。

蛇足ですが、この夏18歳になった息子はバンドでベースを弾いていて、頻繁にステージで演奏するようになりました。昔のことを思うと嘘のようですが、人間って変われるものです。

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アイスランドの夏休み(その2)

2日目:レイキャビク市内観光

旅行2日目は、観光スポットや公共プール、市内バスなどが無料・割引になるレイキャビク・シティカード(24時間で約3,500円)を購入。なにせ物価がめっちゃ高いので、まともに払っていたらお財布が持たないのです。カードを利用して午前中は徒歩で市内観光、午後からは北東部沖にあるヴィーズエイ島(Viðey) へのボートトリップを楽しみました。

 

       街の中心部にあるチョルトニン湖の岸辺。空気が澄んでいるためか、どこに行っても川や湖の水面が鏡のよう

チョルトニン湖岸の市庁舎でカードを購入し、いざ出発。まずは近くにあったナショナルギャラリーに一番乗り。入口には大きなバスケットが置かれていて、その中には伝統的な室内履用の靴下が。主人と息子はこの分厚い毛糸靴下に履き替えて、館内を歩きました。

    自国アーティストの作品が中心ですが、ムンクの「病める子」にも遭遇

次は、レイキャビックのランドマーク、ハットルグリムス教会(Hallgrimskirkja) へ。j近代的なコンクリートの教会は41年かけて1986年に完成したもの。有名な大型パイプオルガンがあり、74.5mある塔はアイスランドで最も高い建造物です。でも、20年前は気軽に階段を上れたのに(無料)、現在は最上階の展望台までエレベーター+人の列+有料…で、断念。

  

繁華街をブラブラ歩き、お昼ご飯にフィッシュ&チップスを食べた後、20世紀初頭に建てられた白亜の館カルチャーハウス(The Culture House)と古い倉庫を改造したアートギャラリー(Hafnarhús)へ。

       

    デンマーク人の建築家、ヨハネス ニールセン (Johanes Nielsen)が建てたネオクラシック様式のカルチャーハウスは、かつて国立博物館だったとか。展示はそれほどではないけれど、建物自体が美しかったです

  

    Hafnarhúsでは、ポップアーティスト、エロを筆頭に、自国作家のコンテンポラリーアート作品が中心

         

   実は、作品よりも港が見える休憩スペースで飲んだ無料のコーヒーに感激。通常コーヒーは500円弱ですが、スイーツを足すと1,000円を軽く超えちゃう…イギリス以上の物価の高さなのでした

    

レイキャビクの街歩きは徒歩でじゅうぶん。壁のグラフィッティが芸術的でした

ヴィーズエイ島(Viðey)へ

オールドハーバーから、フェリーに乗ってヴィーズエイ島へと出発。港には大きな客船が多数停泊していて、北欧周遊旅行の拠点のひとつになっているよう。途中、鱗のように輝く全面ガラス張りのコンサートホール、ハルパ(Harpa)ともうひとつの船着き場に寄りました。所要時間は20分ほど。

  多数の豪華客船が湾内を行き来。小さな黄色い灯台の背後には半円の緑のマウンドがあって登っている人たちの姿が見えました

    2007年に登場したハルパ(Harpa)。アイスランドの海岸でよく見られる六角形状の岩群、バサルトロックを模ったデザインが独特

  ヴィーズエイ島が見えてきました。古い小さな教会と黒い屋根のレトロなレストラン、ヴィーズエイハウスがあります

 

  色遣いが可愛らしい教会内。青空の下、地図を片手にぶらぶら散策。午後の遠足にちょうどいいサイズの島です

総面積約1.7k㎡のこの小島は西部と東部に分かれて、150種以上の植物が茂る緑豊かな野鳥の天国です。私たちは1940年代まで漁村があったという東部を散策。小さな小学校(レプリカ?)には、村人達や漁獲した魚を干す風景など、当時の生活をしのばせる写真が。緑の草地に廃墟になった家の跡が点在していて、ちょっと物悲しい気持ちになりました。

晴天だったためか、どこまでも青い海がきれいでした

海辺を散策した後、違う道から船着き場の方に戻ろうとしたんですが、途中から小径が消失…。野草が生い茂っているのはデコボコの大地で、どんどん足場が悪くなってしまい、途中で引き返すことに。

ヴィーズエイハウスから少し北東に行くと、オノ・ヨーコさんが造ったイマジンピースタワーが。ジョン・レノンの誕生日10月9日から彼の命日12月8日まで、白い井戸を模ったモニュメントから天空に向けてライトアップ。暗い夜空に光の塔が映し出されるのだとか。

バイバイ、ヴィーズエイ島

ところで、最終のフェリーで街に戻ったらハルパ内を見学しようと張り切っていたんですが、男性陣に「スーパーが閉まっちゃう!」と止められ、結局行けずじまい…。レストランの夕食が高いので、今回は節約のためスーパーへの依存度大。地元の人達の暮らしぶりが想像できるので、旅先でスーパーをのぞくのは大好きです。

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アイスランドの夏休み(その1)

アイスランドの夏休み(その1)

もうすぐ10月も終わりですね。思いっきり時間が経過してしまいましたが、この夏息子は18歳になりました。イギリスでは成人になる年なので、私たち夫婦の結婚20周年記念を兼ねて、新婚旅行で行ったアイスランドに家族で行ってきました。

1998年当時は旅行先として人気はなく、税関で「新婚旅行です」と言ったら、「何でアイスランドなんかに?!」と驚かれたという…。行くことに決めたのは、アイスランドの歌姫、ビュークのドキュメンタリーに出てきた風景に心を奪われたから。

このビデオの背景にはアイスランドの絶景が散りばめられてます

1日目:レイキャネス半島南西部とレイキャビク

ロンドンからケブラビーク空港まで飛行機で約3時間。空港のレンタカーオフィスで1時間待たされた後(提携していたエージェントのひとつが潰れ、オフィスが大混雑)、なんとか無事にレンタカーを借りることができました。

で、車を見てビックリ。何と、20年前に借りたのと同じ、白い日産マイクラだったのです!違う車を予約しておいたのに…。

首都レイキャビクのゲストハウスは午後2時にならないとチェックイン不可。なので、まずは空港周辺のレイキャネス半島を観光することに。

    アイスランド独特のターフルーフの小屋

バイキングワールド博物館  https://www.vikingworld.is/#home

最初に9世紀のバイキング船、ゴクスタ船のレプリカがあるバイキングワールドへ。入場料の1,500ISK(約1,400円)が高いかなと迷っていると、親切な館員さんが「家族料金でいいよ」とまけてくれました~(^^;

ガラガラの館内を見学して、今回初のお昼ご飯。伝統的な羊肉のスープ、キョットスーパ(Kjötsúpa)1,200ISK(約1,100円)を選びました。さっきの館員さんが、「パンはお代わりしていいからね」と。

 伝統的な羊肉のスープ、キョトスーパ(Kjötsúpa)1,200ISK(約1,100円)。コンソメ風のスープに柔らかく煮こんだラム肉、ニンジン、玉ねぎ、ジャガイモ、キャベツなど野菜がいっぱい。今回の旅行で何度か食べましたが、パンも含めここのが一番安くて美味でした

大陸の割れ目

次はレイキャネス半島の海岸沿いを走る1本道(425号線?)を通って、ユーラシアプレートと北アメリカプレートの割れ目にかかる架け橋 Bridge of Two Continents へ。

行く道は見渡す限りの溶岩台地

 

架け橋と橋の上から海側を見た風景。右側がユーラシア大陸で左側が北アメリカ大陸?(有料ですが、地元の観光局で「2大陸横断証明書」を出してくれるそうな)

グングヴェル地熱地帯

半島の最南端 Reykjanestá(レイキャネス半島の爪先)に立つ灯台

更に南へ下った半島の最南端近くにあるのがグンヌヴェル地熱地帯(Gunnuhver)。赤っぽい地面のあちこちから蒸気がもうもうと立ち込め、腐った卵のような硫黄臭が。アイスランドの電力は地熱発電が3割、水力発電が7割と、100%再生可能エネルギーなのだそう。

  

地熱開発で、電力だけでなく家庭や企業で使う熱湯や暖房もまかなっているとのこと。だから、お湯の蛇口をひねるとゆで卵の臭い(笑)。シャワーを浴びるのに「臭いが体に移るかも」と心配になりますが、乾けば大丈夫。日本も温泉が多いので、もっと地熱発電を開発できるといいなと思います。

レイキャビクのウォーターフロント

レイキャビクのゲストハウスに腰を落ち着けた後、街の北西にあるオールドハーバーへ。というのも、主人も息子も水泳パンツを忘れたことが判明し、家主さんがスポーツショップがあると教えてくれたから。

オールドハーバーにはカフェやレストラン、ギフトショップがいっぱい

ウォーターフロントを東へ歩いてくと、バイキング船をデザインした彫刻 Solfarがあります。20年ぶりに再会できて大感激。途中、観光客がやってるのか積み石だらけのスポットがありました。

 

 

息子の緘黙・幼児期4~5歳 (その21)子どもへの言葉がけ

息子の症状が場面緘黙だと判りSMiRAの資料や専門書を読んで、早期発見とサポートが肝心だと解りました。そして、幼少期なら早い回復が望めることも。

本人を安心させるため、世界中に緘黙の子どもがいること、不安のため声がでないことを説明した方がいいというのは理解できました。

が、息子はまだ4歳。できれば本人の自覚がないうちに治してやりたい――という親心(?)が働きました。まだ小さいから、なんだか解らないうちに治っていた状態にできたら…。最初は長期戦といっても、それほど時間はかからないだろうとタカをくくっていたのでした…。

(でも、どんなに幼くても自分の状況をそれなりに把握していて、周囲からの支援を自覚していたと、後で知ることになりました)

当時の息子は、幼いながら「自分はみんなと違っている」「話せないことは悪いこと」と感じているようでした。そのことについては一言もいいませんでしたが、漠然とした不安をひとりで抱え込んでいたのでしょう。

(息子の場合、幼稚園時代から学校での出来事を自分から話すことはめったにありませんでした。ダイレクトに訊かれるのを嫌がるので、園や学校の情報は友達やママ友や経由がほとんど。ですが、少し時間が経ってから、ふと詳しく話し始めるという…。私がすぐ理解できないと息子はご機嫌斜めに――どうも、母親の私は、自分のことや気持を全て把握していると思い込んでいたようです)

私が実行したのは、「緘黙」の代わりに「怖い」という言葉を使い、恥ずかしがり屋で内弁慶だった自分の経験を話して、息子を安心させることでした。当初は、意識して「学校でしゃべれない」「声が出ない」といった言葉を避けました。

(詳しくは『告知するかしないか(その2)』をご参照ください)。

誰でも直接自分の痛いところをつかれるのは嫌なもの。拒否反応を示す子も多いかもしれません。だけど、第三者のことなら「人ごと」なので安心して聞けます。絵本や人形などを使って説明するのも効果的だと思います。

息子はひとりっ子なので、二人だけの時間を作るのはそれほど難しくありませんでした。でも、帰宅してすぐは学校でのストレスもあるのでNG。おやつを食べて好きな玩具で遊んで――寛いでるなと感じた時がチャンスだったかな。子どものが落ち着いている時に、さりげなく話すのがいいと思います。

向き合って目を合わせるよりも、膝の上に抱っこして体温が伝わるような感じで。就寝前に本の読み聞かせをする時も、横に並ぶので親密な感じで話せました。

まずは、私が息子の味方だということを肌で感じてほしかった。その後に、B君や担任の良いところにも触れ、学校が楽しい場所であるというイメージ作りも。

「マミーが小学校にあがった時、学校は大きいし人はいっぱいいるし、毎日怖かったよ。でも、少しずつ慣れてくるからね」

「マミーは何をしていいのか判らなくて、いつもA子ちゃんに教えてもらってたなぁ。〇〇はT君と違うクラスだから大変だね。本当に頑張ってるね」

「〇〇の教室には玩具がいっぱいあって、庭がついてて良いね。日本では、クラスに専用の庭がある学校なんかないよ」

上記のような感じで、言葉がけをしました。自分も体験したことなので「学校が怖い」「恥ずかしい」という気持ちは、痛いほど解りました。

私が話している間、息子は何もいいませんでした。が、私も幼い頃自分と同じように恥ずかしがり屋で内弁慶だったと知り、安心した様子。世界中に同じような子どもがいること、親戚にもとてもシャイな人がいることなども話しました。

すると、「どうして僕だけそうなの?」「ズルイ」と…。

以前も書きましたが、私の両親と兄は社交的で、何故か私だけがこの気質。でも、抑制気質の叔父と従弟がいて、実は兄の子どものひとりも小さい頃はめっちゃ大人しかったんです(中学頃から活発になり、現在は人前に立つ仕事をしているから不思議なものですね)。

小さい頃の私に輪をかけて繊細・自意識過剰だった(今も継続中?)息子――抑制的な気質が自分よりさらに悪化して遺伝してしまい、ものすごく申し訳なく感じているのです。

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息子の緘黙・幼児期4~5歳 (その20)発達テスト

スクールナース(学校看護師)に相談し、待つこと3か月。やっと小児クリニックでの診察の順番が廻ってきました。息子が4歳10か月、緘黙になってから約3か月半後のことです。

相談した時はまだ場面緘黙のことを知らず、アスペルガーを疑っての受診申し込みでした。当日は主人にも付き添ってもらい、親子3人で隣町にある小児クリニックへ。

二人の心理士に迎えられ、私がひとりの心理士と話している間、息子は主人と一緒に別の部屋で発達テストを受けました。なので、息子がどんなテストを受けたのか、あまり定かではありません。

主人によると一言も話さなかったそうですが、絵カードの質問に指差しで答えたそう。運動テストは廊下と階段で行っていたので、たまたま最後の部分を見ることができました。

心理士との問診では、息子の成育歴やそれまでの対人関係、学校と家庭での様子などを詳しく訊かれました。また、私達が気になっていることにも耳を傾けてくれました。

長い問診が終わって廊下に出ると、ちょうど発達テストで息子が階段を上り下りしている最中。「次は、ジャンプしてみようか」と促す心理士に、息子は尻込み。が、主人がジャンプしてみせて何度か促すと、へっぴり腰ながらなんとかジャンプできました(主人に来てもらって大正解)。

その後少し待たされて、二人の心理士から問診と発達テストの結果を聞くことに。

  • 発達は年齢の4歳10ヶ月にきっかり見合うもので、早くはないが遅れもない
  • 父親とコミュニケーションが取れており、対応も年相応
  • アスペルガー(ASD)ではない
  • しかし、極端にシャイなため、学校での見守りが必要

その結果にホッとしたものの、最後に「今後はクリニックに通う必要はありません」と…。

えっ、そんなぁ!

学校にも発達テストの結果のコピーを通知するとのことでしたが--場面緘黙の治療は?SLT(言語療法士)は?

焦った私は、恐る恐る「あのう、息子の学校で話せない状態は、場面緘黙ではないでしょうか?」と訊ねてみました。

すると、心理士のひとりが「ああ、そうですね」と…。

思わず前のめりになって、「あの、場面緘黙の支援団体SMiRAによると、緘黙の治療を担当するのは大体SLTだそうです。どうかSLTを紹介してください!お願いします!!」 と懇願してしまいました。

今考えるとすごく図々しい….母は強しですね。

(イギリスでは「言ったもの勝ち」みたいなところが多々あって、黙っていると「この人は現状で満足している」と見なされがち。反対に、相手の状況や気持ちを慮って本人に聞かずに何かをすると、「要らぬお節介」となることも…)

そんな訳で、小児クリニックで場面緘黙を自己申告して、なんとかSLTを紹介してもらえることになりました。が、いつ・どこで会わせてもらえるかはこの時点では不明。(なにせ無料のNHS国民健康保険なので、何ごとにも時間がかかるのです)

この発達テストの結果は1か月後くらいに届いたのですが、心理士のレポートにはSelective Mutism(場面緘黙)の文字は見当たらず!

自己申告だったから?自閉症の診察だったから???

でも、「コミュニケーションを促すために、SLTを紹介する」と記してあり、やっと本格的な治療をしてもらえる、と期待に胸が膨らんだのでした。この時は、SMiRAの情報により、SLTが自宅を訪問してくれるんだろうなと思い込んでました。

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息子の緘黙・幼児期4~5歳(その19)

 

プレイデート作戦

場面緘黙の子どもを家庭でサポートする方法のひとつに「プレイデート」があります。緘黙児が一番安心できる自宅に、クラスメートや近所の子、親戚の年が近い子などを招いて一緒に遊ばせるというもの。発話を促すのみでなく、対人関係への不安を減らし、社会性を育てる点でとても重要です。

緘黙児は学校での不安が大きくストレスを溜めやすいため、学校外で遊べる友達がいること、交友の場があることが、本当に重要になってきます。特に、うちのようにひとりっ子だと、兄弟姉妹がいない分、子ども同士の付き合いに免疫がありません。その上、学校でも話せないとなると、同年代の子どもと交わう機会が激減してしまいます。

親が子どもの友人関係に関与できるのは、小学校低学年くらいまででしょうか。保護者も大変ですが、子どものために頑張りましょう。

緘黙の治療にはCBT(認知行動療法)が有効なのは周知の通り。「人」「場所」「活動」の3つの観点から子どもの不安度を確認し、不安度の低いところからCBTを使い、スモールステップでその場面に慣れる=経験値を上げていきます。少しずつ自信をつけながら次のステップへと進み、最終的に場面緘黙の克服へ。

緘黙治療は順調に進む時もあれば、ちょっとしたことで躓いて後退することもしばしば。3歩進んで2歩下がるという感じですが、親は長期戦を覚悟して焦らずに。子どもの気持ちに寄り添って、子どもの了解を得ながら次のステップに挑戦していくことが大切です。その過程で、子どもとの絆が深まるといいですね。

  1. まずは1対1で

「3人寄れば社会の始まり」といいますが、相手が2人以上だと、緘黙児 が孤立しがち。まずは、子どもが好印象を持っている子(人)と、安心できる場所(家)で、楽しめる遊び(活動)を設定しましょう。

  1. 最初は楽しい時間を過ごすことを優先

自分の子だけでなく、相手のお子さんも楽しく過ごせることが大切。すぐ二人で遊べる子もいれば、複数回会ってもなかなか打ち解けられない子もいます。相手を選ぶ時、好きなものが似ていて、比較的おっとりした子がいいかな…。空気がギクシャクしている場合は、保護者が間に入って仲介する必要があります。

  1. 緘黙児が安心できる遊びを

子どもが得意とする遊びを中心に、かくれんぼやシャボン玉、音の出るゲーム、体を使う遊びなど、緘黙児が安心して楽しめる遊びを選びます。低学年のうちは、遊びに夢中になってガードが外れ、ポロっと声がでることも多いのです。

  1. 最初は保護者が仲介

最初は、保護者が同席して子どもたちの間に入ってみてください。自分の子にも、相手の子にも交互に声をかけながら、一緒に遊べるよう主導します。自分の子から言葉が返ってこなくても、うまく代弁して。子ども達と同じ目線に立って、自分も楽しみましょう。お菓子作りなど、みんなで何か作るのもいいかもしれません。うまくできたらさりげなく褒めるなど、言葉がけを忘れずに。慣れてきたら、徐々に子どもだけで遊べるように計います。

  1. 母親がまず相手の子どもや、ママと仲良くなる

緘黙児 は周りの空気を敏感に察知します。保護者同士が親しい間柄であれば、子どもは安心します。また、 相手のお子さんに色々 話しかけて、仲良くなることも大切。学校の話題や遊びの流行など 、子どもたちの世界で何が起こっているか聞けて、一石二鳥です。

  1. 発話を促す遊びを

子どもの様子を観察しながら、発話を促す遊びを取り入れるのも忘れずに。普段家にいるような感じで遊べているのか、それともまだ緊張が強いのか。緊張がとけ始めたら、色々試してみましょう。息子の時は、音が出るリモコン操作のロボット、黒ひげ危機一髪、ジェンガ、シャボン玉などをよく活用していました。相手の子の視線が子ども自身でなく、玩具にいくものがベターと思います。

そういえば、音が出るレンジャー系の玩具や水鉄砲も緊張をとくのに有効でした。おやつや外遊びの時には笛ガムを愛用してました。自分の子に合う遊びを見つけ出してください。

  1. 次のステップへ

二人で遊ぶのに慣れて話せるようになったら、次は「別の友だちを加える」もしくは「友だちの家に遊びに行く」に進みます。これについては、また追って記事を書く予定です。

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息子の緘黙・幼児期4~5歳(その19)

息子の緘黙・幼児期4~5歳 (その19)B君ママに告白

お昼休みの校庭で、息子がひとりぼっちだった――その現場を見た瞬間、再び金槌で頭を殴られたようにガーンときました。

でも、反対に「これはイカン!何とかしなければ!」と自分を奮い立たせる転機ともなったのです。

放課後の校庭では、幼稚園時代からの親友T君と遊べるけれど、クラスでは遊べる子がいない。別クラスのT君は自分のクラス内での友人関係があるだろうし、それにあと1年ほどで帰国してしまう…。

息子のクラスには日本人駐在員のお子さんたちが数人いましたが、特に仲良くなれそうな子はいませんでした。そこで思い出したのが、以前担任から「やっと友達ができました。B君です(詳しくは『息子の緘黙・幼児期4~5歳(その6)をご参照下さい』」と言われたこと。

息子にB君について訊いてみると、感触は悪くなさそう。そこで、お迎えの時間に大胆にもB君ママにアプローチしてみたのです。友だちを家に招くことを「プレイデート」というのですが、それほど親しくないので内心ドキドキ。でも、何ごとも当たって砕けろ!

(イギリスでは小学校低学年まで子どものお迎えは保護者の義務。同じクラスのママさん(時に、パパさんやナニーさん)が毎日校庭に集まるため、みんな顔見知りなんです。B君は息子と同様早生まれで1月入学だったため、少しは世間話する間柄でした)

今考えると、このB君ママがものすごくできた人でした!いきなり場面緘黙について説明し、「息子がB君に親しみを感じているようなので、できたら一緒に遊ばせたり、家に遊びに来てもらえないか?」という唐突なお願いに、快く応じてくれたのです。(後に、入学後2、3か月の間、B君が家で時々息子の名前を出していたことが判明)

翌日、彼女の方から声をかけてくれ、「昨日ネットでSMについて調べてみたわ。大変そうね。できるだけ協力するわ」と。一方的に頼んだのに、ありがたや~!早速、次の週に息子たちを連れて公園に行くことに。

公園で息子たちが一緒に遊んでいる間、母親同士でおしゃべりし、息子の性格や緘黙の説明をすることができました。B君は当時R君と仲良しになっていて、B君ママは無理してB君と息子を遊ばせる必要などなかったのに--本当に感謝感謝です。

この時息子は全く声を出しませんでしたが、私にくっつくこともなく、B君と二人で遊具へ。ちゃんと動けていて、結構楽しそうに遊んでいました。同じ学校の生徒が来ない公園を選んだので、安心できたんでしょう。そして、親同士が一緒にいることで、子どもも安心するんだと思います。

普段からおしゃべりで好奇心の強そうなB君、何も話さない息子と遊んで楽しいかな?また一緒に遊んでくれるかな?

そんな私の心配をよそに、B君は家に来てくれました。一緒におやつを食べた後、息子はB君に自分の玩具を見せ始めました。初めて来たB君に、自慢したかったんでしょう。カーペットの上にいっぱい玩具を出して遊んでいるうちに、息子はいつの間にか声を出していました。やった!

小さい子がすごいのは、状況を自然に受け入れてくれるところです。息子が話していることに驚く様子もなく、それが当然のようにふるまうB君。もちろん、「〇〇君がしゃべった!」などと言うこともありませんでした。

多くの子どもは、入園や小学校入学など集団生活を開始し、社会的な環境が大きく変わる際に場面緘黙を発症します。早期発見が重要と言われる理由のひとつに、周囲の子どもの受容力が大きいというのもあると思います。周囲が「そのままの自分」を受け入れてくれれば、緘黙児も安心できますよね。不安度が下がれば、声が出やすくなります。

(ちなみに、女の子のクラスメート(5歳)が家にやってきた時は、息子がしゃべったのに驚きの声を上げました。でも、理由を追究することはなく、すんなり受け入れてくれた様な。小さい子はダイレクトにものを言うけれど、思考はすごく柔軟です)

お迎えに来たB君ママに「声が出せたの!ありがとう!」とお礼を言うと、とっても喜んでくれて、本当に嬉しかったです。

この後、週1回くらいの頻度でB君とプレイデートを続けましたが、このB君との友情が息子の緘黙克服への大きな力となったのです。

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息子の緘黙・幼児期4~5歳(その18)悲しい想い

SMiRA会長のアリスさんから「あなたが学校を啓蒙するのよ」と後押しされ、まずは担任とSENCoに場面緘黙の資料を渡すことにしました。

今なら、お迎えの時に担任のところに行って即ミーティングを申し込むでしょうが、何しろ当時はまだ右も左も分からない新米保護者。他のママさん達に息子の問題を知られたくない気持ちもあり、なかなか行動に移せませんでした。廊下とカーテンで仕切られただけのSENCoの部屋に行くにも、人目が気になるし…。

実は、息子の学校には日本人駐在員のお子さんが多く、「変な風に誤解されたくない」と不安に思ってました。ロンドンの狭い日本人社会。思い込みもあるかもしれませんが、本人の知らないところで噂が広がる風潮があったような…。幼稚園時代にちょっとした出来事(詳しくは『息子の緘黙・幼児期4~5歳(その2)』をご参照ください) があったり、全く接点のない私のところまで別の学校の児童の噂が伝わってきたりして、「知らないところで何か言われたら嫌だな。息子にレッテルを張られたらどうしよう」とナーバスになっていたのです。

どういう訳か、大人も子どもも日本人同士で固まる習性があり、息子は放課後の校庭で幼稚園時代の親友T君と一緒に日本人グループと遊ぶことも多かったのです。クラスではひと言も話さないのに、放課後の校庭では寡黙ながら日本語で話している状態。わざわざ「緘黙なんです」と公表するのも変だし…。T君と二人きりだと普通だったため、T君ママにも息子が緘黙であることを打ち明けられずにいました。

放課後の校庭では、T君となら割と自由に遊べて話せていました。が、日本人グループに入ると途端に遠慮がちになり、オマケっぽい存在に。幼い弟妹が「当然」という顔でグループに加わって傍若無人に振舞っているのに比べ、「なんでそんなに遠慮してるの?」と不憫に思ったものです。そして、息子をひとりっ子にしてしまったことが悔やまれました。仕方のないことですが、上に兄姉がいたらもっと自信を持つことができたかも…と。

たまたま仕事のため、T君ママに息子のお迎えを頼んだ時のことです。T君ママはTAのひとりに「◯◯君は教室では全然しゃべらないのよ。今T君とはちゃんと話してるわね。変ね」と言われたそう。「子どもの前で、何て無神経な」と憤りを感じましたが、当時は抗議をすることなど思いもつかず…。ひとり悶々とした想いを引きずってました。

当時は支援する側の学校に緘黙の知識がなく、スタッフの教育も皆無でした(まあ、それでももう少し気を使って欲しいものですが)。親切心から無理に話させようとして二次障害を併発してしまう恐れもあるので、やはり関係者に知識を持ってもらうことは大切ですね。

また、ある日ちょうど学校のある道を通りかかり、「今頃お昼休みだから、校庭に出てるかも」と木製のフェンスの節穴から中を覗いてみたんです。そうしたら、ひとりぼっちで所在なさげにクラスメートの近くをくるくる走っている息子の姿が…。そこには、別のクラスのT君の姿はありませんでした。

クラスに遊べる友達がいないんだ――と大ショックを受け、とても切なかったです。

その後、何とか担任にSMiRAの資料を渡して、SENCoにも伝えてくれるようお願いしました。今考えれば、なるべく早く三者懇談をお願いするべきだったと思います。

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息子の緘黙・幼児期4~5歳(その17)「場面緘黙」だ!

ご無沙汰しています。今日で8月が終わり、明日からもう9月…。イギリスでは2週間ほど前から朝夕の気温が下がり、秋の気配が感じられます。「夏休みにはもう少しブログを書こう」と決心していたのですが、思いがけず仕事が入り、その上外出する機会も多かったので、すっかり怠けてしまいました…。

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さて、息子の症状が場面緘黙だと判ったのは、私がネットを徘徊し始めて3ヶ月ほど経った頃でした。最初は、ダイニングルームでの耳塞ぎからASDを疑い(詳しくは『その13』をご参照ください)、ASD児の保護者達が綴るブログを次々と訪問していました。

でも、こだわりや感覚過敏については似た部分があるものの、やっぱり違う…(今考えれば、「耳を塞ぐ」や「アスペルガー」で検索していたので、「学校で話せない」にヒットするはずはなく)。それでも、子どもひとりひとりの成長や保護者の苦悩、努力、喜びに心を動かされ、夢中になって夜半まで読みふけってました。

そんな中で出遭ったのが、確か小学校3年生くらいの男の子のお母さんが書いているブログでした。小さい頃から極度の恥ずかしがり屋で、家ではものすごくおしゃべりなのに、外に出ると別人のようになり、全く話せず動きも限定されてしまう――「うちの子に似てる!」と思いながら読み続けていくうちに、ついに「場面緘黙」という言葉に遭遇したのです!

場面緘黙――それまで一度も聞いたことがない言葉。急いで検索してみたところ、富重さんが運営する『場面緘黙ジャーナル』など一握りのSM関連サイトにたどり着きました。家では普通に話せるのに、学校など公の場では話せない――息子の症状はこれだ!ちゃんと名前があったんだ!

向き合うべき問題がクリアになったことが本当に嬉しく、「息子だけじゃなかった」と安心できたのを、今でもはっきり覚えています。英語ではSelective Mutismだということも判明し、検索の結果SMiRAのサイトにも行きつきました。今から13年も前の、2005年5月のことです。

勇気を出してSMiRAに電話してみたら、創設者のひとりであるリンジーさんが応えてくれました。その後、会長のアリスさんが電話をくださり、私の説明に「それは場面緘黙ね」と判定してくれたのです。色々アドバイスもいただき、とても心強かったです。

かつて精神医学ソーシャルワーカーだったアリスさんは、60年代にいち早く「家の外で話さない子ども」に遭遇し、場面緘黙とその治療法を研究してきた先駆者です。当時はイギリスでもSMがまだ広く認識されておらず、学校はもちろんSENCoでさえ知りませんでした。

そんな中、ネットの普及によって(当時はまだダイヤルアップ方式で接続に電話料金が必要でした)、全く面識のない人たちのサイトやブログから知識を得たり、助けてもらったことを本当に感謝しているのです。私のこのブログも、どこかで誰かの役に立つことがあったら嬉しいと思っています。

(蛇足ですが、「場面緘黙」に遭遇したブログのお子さんは、どういう訳か検診の時に突然ハイになってしまい、発達障害(ADHD)と診断されたとか…。あるASD児の母親のブログと彼女のブログが繋がっていたため、偶然発見することができたのです)

こうして、やっと判明した場面緘黙のことを知るために、まずはSMiRAの資料をプリントアウトし、SMiRAとレスター大学が出版した『Silent Children(日本版では『場面緘黙へのアプローチ』を購入。アメリカのSM支援サイトや日本の緘黙サイトを覗いたりしながら、息子の緘黙克服への支援が始まったのです。

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ブルガリア黒海沿岸の春休み(その5)

イギリスは5月から例年になく好天の日が続き、気温もぐんぐん上昇。7月は観測史上2番目の暑さだったとか。既に8月に入ってしまいましたが、やっと「春休み」の最終回です。

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ポメリエで朝を迎え、その日はバスで「黒海の真珠」と呼ばれる海辺の町、ネセバルへ行くことに。3千年以上の歴史を持つこの町は、黒海沿岸に突き出た小さな半島にあります。旧市街地は1983年にユネスコの世界遺産リストに登録され、古代都市の遺跡があちこちに残っています。

まずはホテルの朝食で腹ごしらえ

ホテルの近くにあるバス停に行くと、ネセバル行きのバスの本数はまばら。11時発のバスを待つ間、歩いて15分ほどの塩博物館まで足を伸ばしましたが、この日はお休み…(後で判ったのですが、シーズンオフなのでバスも少なく、町の殆どの博物館は休館)。仕方ないので、近所にあったスーパーを探索して時間を潰したのでした。

   

    塩博物館の建物。浅瀬に浮かぶ白いラインは何?と思ったら、白い鳥がずらりととまっていました

        キャラメルみたいなパッケージ入りのターキッシュデライトは、ひと箱約65円と激安!

小型バスでガタガタ道を走ってネセバルに着くと、人出が多くてやっと「観光地」という雰囲気に。まずは、旧市街へと繰り出しました。

ネセバルの入口。驚くほど青い空が広がってました

 

聖ステファン教会跡とビザンチン様式のパントフラトール教会

 19世紀の典型的な木造住宅。ランチのサメのフライは、割と淡白な味

   

帰りのバスまでちょっと時間があったので、ひとりで写真撮影に繰り出したところ、夫と息子に大声で呼び戻されました。時間前ですが、ポモリエ行きのバスが来たとのこと。「あれ、このバス大型だし、料金も少し安い???」と不思議に思ったら、それには訳がありました。ポモリエも突き出た小さな半島の先っちょにある町なんですが、このバスは町の入口までしか行かないんです。

   とぼとぼ40分ほど歩いて、ホテル(ピンクの建物)に到着。携帯のグーグルマップがあって、本当に助かりました

ところで、ポモリエで泊まったのSt Georgeは、スパホテルというふれこみ。ホテル内にプール、ジム&サウナ各種があり、宿泊客は無料で利用可能とのこと。サロンでは黒海で有名な泥パックを安価で体験できるというので、楽しみにしていたんです。

結構疲れたので、夜は主人と二人で無料スパ体験。が、ずーっとつけっぱなしになっていたためか、5種類あるサウナはどれも熱すぎ!このままだと倒れるかもと思い、頑張る主人を残して私は主に12m程度のプールでパチャパチャ。結局、ソルトルームが一番寛げました。

翌日は黒海沿岸のホリデー最終日。ホテルをチェックアウトする前に、泥パック(フェイシャル)に挑戦してみました。温かい泥をハケで顔にベタベタ塗られ、簡易ベッドに横になって待つこと20分あまり。「こんな真っ黒な泥どうやって取り除くのかな?」と思っていたら、「はい、そこのシャワーで流して」と。固まった泥を一生懸命自分で落として、トリートメントは終了。

愛想のないエステシャンは泥を塗ってくれた後いなくなっちゃうし、美容のプロという雰囲気とはほど遠く…。最後に化粧水と名産のバラのクリームくらいつけてくれよ~、と思いつつ、「まあ、この料金だったらこんなものかな」とスゴスゴ部屋に戻りました。泥パックの効果は――良くわかりませんでした…。

この日はあいにくの曇り空で、町はすっぽりと霧に包まれていました。とにかく町を歩いてみようということで、ぐるっと1周してみたのですが、博物館もみーんなお休み。結局、ホテル近くのレストランで長~いランチタイムを過ごしました。

  

海にも霧がかかってぼんやりした風景。右は夏季のポモリエの海岸

    暇だし、これで最後ということもあって、とにかく食べました~。「巨大イカゲソ」を注文したら、燻製でした

イギリスと比べると物価が半分くらいなので、ブルガリアではすごく得した気分でした。空港でミネラルウォーターを買ったら、町で買っていた値段の4倍近くになっていて、カルチャーショック(笑)。

こうして私たち家族の黒海沿岸のホリデーは終わりました。今でもあの誰もいない海を恋しく想い出します。

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