エリザベス女王を偲んで

ご存知のように、9月8日にエリザベス女王が亡くなられました。車で通勤中に「女王の健康状態が悪化、王族のメンバーがスコットランドのバルモラル城にかけつけている」とのニュースが流れてビックリ。そして、午後6時半頃に訃報が…。

  19日の国葬まで国中が喪に服します。街中に、インターネット上に、女王の死を悼むメッセージが溢れ、私が住む北ロンドン郊外でも電光掲示板に女王のお姿が

その2日前に、リズ・トラス氏を新首相に任命するニュース映像が流れたばかり。かなりお痩せになったなあと思いましたが、久しぶりにいつもの笑顔を見ることができたのに…。

今年6月に行われた即位70周年を記念する祝祭、プラチナジュビリーも記憶に新しく、訃報を聞いて大きな喪失感を覚えました。私は別に王室ファンではないので、それだけ大きな存在だったということですね。

エリザベス女王の長い治世が幕を閉じ、今ひとつの時代の終わりをひしひしと感じています。首相が変わり経済も悪化する中、イギリスはこれからどうなっちゃうのかなという不安も…。

  月曜日にロンドン中心部に行く用事ができ、バッキンガム宮殿まで行ってきました。グリーンパークを抜けて一方通行で宮殿前にたどりつくまで、途切れない人の波

チャーチルの時代から激変するイギリスで、唯一変わらない存在として国と王室を支えてきたエリザベス女王には尊敬の念しかありません。

私は人生の半分以上をイギリスで過ごしているのですが、ちょうど1990年代前半からチャールズ皇太子とダイアナ妃のスキャンダルが大々的に報じられ、王室の人気が急落した時期に居合わせました。

特に、ダイアナ元妃が急逝した際は、バルモラル城に籠っていた女王が批判の的に(王室メンバーは感情を表に出さないのが慣習、かつ女王はウィリアム王子とハリー王子を保護していた)。女王が国民の声に応えてバッキンガム宮殿に戻り、ダイアナ妃の追悼を述べた頃から事態が好転したように記憶しています。

  バッキンガム宮殿のゲートのみならず、近くの公園の樹木の根元にもたくさんの花束が。近隣の花店では花が売り切れ状態に

社会の変動だけでなく、子ども達が次々と巻き起こすスキャンダルが大きな心労だっただろうことは想像に難くありません。最近でもヘンリー王子夫妻の王室離脱、アンドリュー王子の児童買春スキャンダルなど、英王室を揺るがす事件が起きたものの、的確な対処の故か女王が国民の信頼を損なうことはありませんでした。優れた危機管理能力やバランス感覚をお持ちだったんでしょうね。

訃報の後で知ったのですが、幼いころは犬や馬たちに囲まれた田舎のレディーになるのが夢だったとか。ペットのコーギー犬をはじめ、競走馬のオーナーでもあった女王の乗馬好きは有名です。

            花束といっしょに敬意や感謝を表すたくさんのメッセージも。特に、熊のパディントンからみのものが多かったです

そもそも伯父のエドワード8世が退位しなかったら女王になることもなかった訳で、運命に逆らわず与えられた役割を全うされたんですね。21歳の時に「人生を国に尽くす」と宣言され、主体的にその言葉を守ってこられたんだと思います。

周囲の反対を覆して、13歳の時の初恋の相手だったフィリップ王子と結婚されたエピソードからは、忍耐強さや自分の意思を貫く強さが伝わってきます。

25歳で即位してから96歳まで、70年の在位は英国史上最長。世界的にも72年在位したルイ14世に次ぐ第2位だそう。母君のエリザベス王太后が101歳と長寿だったので、100歳まで頑張っていただきたいと願ってましたが…。

生涯現役という言葉がありますが、エリザベス女王はまさにそのお手本のよう。身体が衰弱していたはずなのに、最後の最後まで公務を行ったのがすごい!

そして、女王のユーモアのセンスも忘れられませんよね。ロンドンオリンピックでのジェームズ・ボンドとの共演、そしてプラチナジュビリーのパディントンとの共演は、女王からの贈りもののような気がしています。それまでは、クリスマスに放送される『女王のお言葉』で、真面目な面しか見えていなかったので。

どうぞ安らかにお眠りください。

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ノルマンディの夏休み(その1)

もう9月に入ってしまいましたね。イギリスは8月末からすっかり秋の気候に変わり、夜は冷えるので長袖が必要。急ぎのフリーの仕事が一段落したので、やっと夏休みの話題です。

この春からイギリスでは3年ぶりにコロナ規制が全て取り払われました。「もう面倒な証明書は要らないし、これが絶好のチャンス!」とばかりに、夏休みに海外に出る人が続出。我が家もフランス北西部のノルマンディ(Normandy)地方に行ってきました。

イギリスから車でフランスに渡るには、フェリーとユーロトンネル(汽車)の2つの方法があります。所要時間はフェリーだと1時間半、ユーロトンネルだと35分くらい。春休みにドーバー港が大混雑してニュースになったため、初めてユーロトンネルにチャレンジすることに。

まずロンドンから車でフォークストーン(Folkstone)まで行き、時間通りユーロシャトルに乗り込みました。夏休みが始まった頃は21時間遅れ(^^;という大混乱があったので、念のため食料と飲み物を持参。

     列車の中にトイレはあるものの、歩き回ったりは禁止。お昼のサンドイッチは車に乗ったまま動く列車の中で

カレーに着いてから、今回の旅の拠点となるオンフルールの町を目指して南西に下りました。行けども行けどもトウモロコシ畑と刈入れを終えた牧草地ばかり。日曜日だったためか、時折通り過ぎる村のレストランやお店は全部閉ってる?! 焦って唯一開いていたアラブ系のミニスーパーを見つけて買い物したんですが、高っ!(◎_◎

オンフルールまでは3時間弱でしたが、その近くで寄り道。アルヴィル=ベルフォス(Allouville-Bellefosse)という村(コミューン?)にあるサン・カンタン教会に行くためです。この教会の敷地内に17世紀に造られた樫の木の礼拝堂があって、その写真を見た瞬間から「絶対行くぞ!」と決めてました(なお、家族は行き先を調べるのが面倒らしく、私の選択がそのまま反映されるのです)。

牧草地がえんえんと続く田舎道をひた走りながら、一体こんなところにあの奇妙なムーミン屋敷みたいな大木があるのかなと、少々不安に…。そうしたら、あった~! ありました!!

 

  教会の片隅にエントツの様な木の家(?)が…フランス最古というこの樫の樹は、中が空洞になっていて礼拝堂が2つあるのです

   1696年に落雷で空洞になった樫の木(当時の樹齢500年?)に礼拝堂を建造。この「アルヴィルの大樫」は樹齢800~1200年と想定され、フランス歴史的記念物に指定されているとか。瓦のような部分は樹を保護するためのこけら葺き。根元近くの礼拝堂が Notre-Dame-de-la-Paix

  樹をぐるりと囲む螺旋階段を上がり、第2の礼拝堂 Chambre de l’Ermiteへ。中には木彫りのキリスト像が

   18世紀の木版画に描かれた「アルヴィルの大樫」(左)。成長してる?! 猛暑の中、緑の葉が生い茂り青いドングリがたわわに実っていて、元気なのにひと安心。人口1200人弱という可愛らしい村(右)

歴史的記念物といっても、柵がある訳でもなく、監視カメラが設置されている訳でもなく、誰でも勝手に見学できるのです。私たちがいた間、バイクでカップルがやってきた他は、地元の人も通りかからず…。帰りに開いていた近くのデリで買い物して、イギリス海峡にセーヌ河が流れ込む河口の港町、オンフルールへ。

人口8000人足らずというオンフルールの町に着いてみると、人気の観光地だということが判明。予約したアパートは旧市街地のどまん中と書いてあったのですが、まあそれほど人通りはないだろうとタカをくくっていました。が、カフェ&レストラン街のどまん中(^^;

また、出発の3週間くらい前までは雨降りの肌寒い気候になるという予報だったのがどんどん変わって、旅行中は1週間ずーっと真夏日という。この夏2度目の熱波襲来の時季に当たってしまったのでした…。

    夕方7時ごろ到着したのですが、まだまだ青空。古い灯台の近くの無料駐車場からアパートまで歩いて8分くらい

   ブティックやレストランが建ち並ぶ石畳の賑やかな通り。途中に次の通りへと続く細い坂道が。中世から残る木組みの家々が可愛らしい

 アパートはこの通りの雑貨店の2階。ベッドルームはホテル風の内装で、居心地もなかなかでした

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緘黙と寡黙の違いは?

もう8月も後半ですね。イギリスを含む西ヨーロッパでは8月に2度目の熱波が襲来し、第2週は毎日30度を超える真夏日が続きました。その後に雷雨がくるまで全くというほど雨が降らず、歴史的な干ばつを記録。世界中で大きく気候が変動していて、一体この先どうなってしまうのか本当に心配です。

そんな中、なんと保育園時代の親友がロンドンに来ることに! 彼女の息子さんがロンドンに駐在していて、2週間ほど夏休みを取ったのです。最後に故郷で出遭ったのは2012年の夏でしたが、その前に25年以上もの空白がありました。

   小雨の中セントポール大聖堂を見学し、528段の階段を上ってドームの小塔へ。長~いランチタイムと夕暮れのテムズ河畔でのお喋りが本当に楽しかった!

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私は保育園に馴染めなくて、よく脱走して泣きながら家に帰ってきたそうです。亡母はそんな私を見て「私の子育てが間違っていたの…?!」と随分悩んだとか。幼稚園ではなく時間が長い保育園に入れたのは、母が家で仕事を始めたからでしたが、内弁慶だった私の性格を案じてのこともあったよう。

なお、同じ様に保育園に入れられた兄(1歳11か月年上)は私(3月生まれ)とは正反対。大人にもハキハキものを言い、すぐ園に馴染みました。友達もたくさん作って、みんなを引っ張るリーダー的な存在になっていきます。同じ兄妹なのに、どうしてこうも違うのか…^^;

園で落ちこぼれていた私を救ってくれたのが、近所に住む同年のA子ちゃん。遠回りなのにわざわざ私を家まで迎えに来てくれて、一緒に登園していたのです。

私たちはいつも二人でくっついて、園の中でも外でも双子の様に仲良くしていました。ささいなことで喧嘩をすることもありましたが、すぐ仲直りして「変わらぬ友情」の誓いを立てたものです。

それは私たちが小学校に入学し、3年生になってクラスが別になるまで続きました。以前も何度か書きましたが、私にとっての小学校は、大きくて人が多く、常に騒がしい不安な場所。たくさんの上級生や先生たちは、全く親しめない存在だったのです。

私は学校では常に緊張していて、家での自分を出すことなんて不可能でした。授業中は借りてきた猫のように大人しく、休み時間はA子ちゃんがいてくれたお陰で、少しほっとできる時間だったのです。

授業中に当てられたり、発言しなければならなくなると、緊張して頭が真っ白になり、必要最低限のことしか言えなくなってしまう…。休み時間にA子ちゃんとお喋りするのと、授業中やみんなの前で発言するのとでは、全く別の自分がいました。

彼女がいなかったら、私は登園・登校拒否になっていたかも…。中学校時代に少しずつ自信をつけて、学校はそれほど恐ろしい場所ではなくなりました。が、小・中・高を通して私の評価は「大人しい」でした。

でも、そんな私でも一応学校では話せて動けていたので場面緘黙ではありませんでした。というか――ではないと思っていたんですね。

でも、現在のイギリスの場面緘黙の定義では、場面緘黙のカテゴリーはひとつ(詳しくは『場面緘黙のカテゴリーはひとつだけ』をご参照ください)。でもその中で、認識されやすい場面緘黙( High Profile Selective Mutism)認識されにくい場面緘黙(Low Profile Selective Mutism)とに分かれています。で、後者の説明を見ると、

認識されにくい場面緘黙Low-profile selective mutism

これらの子どもや若者たちは、促されると少しは話すので、大人は「恥ずかしがり屋」「大人しい」または「反抗的」と捉えがち。認識されやすい緘黙児と同様に、話すことが強い不安を引き起こすのに、それを理解されにくいのです。彼らは期待に応えようとする思いが強く、なんとか言葉を絞り出します。実のところ、話さない結果への不安が、話す恐怖に勝るために声が出るのですが、このバランスは微妙で、話題に自信がある時しか作用しません。学校では出席の返事をしたり、要求に応じて音読したり、シンプルな問いに答えたりすることがあるかもしれません。しかし、普段より声は小さく、アイコンタクトも減ります。トイレなど必然の要求を発したり、指示に従って短いメッセージを伝えたりすることもあるかもしれません。しかし、親しい友達や家族を除いては、相互的な会話をすることはなく、自分からは話しかけません。「(して)ください」や「ありがとう」といった、何でもない依頼や挨拶が非常に難しいのです。いじめや病気を報告したり、助けや許可を求めたり、自ら説明したりできないことを解ってもらえるまで、彼らは危険にさらされます。困難に気付かれず、自分を守る発言ができないため、支援どころか懲戒されてしまうかもしれません。

もっと大きな声で話しなさい、もっと貢献しなさいと繰り返し奨励することは、更に子どもを苦しめるだけです。彼らの困難を誤って把握し続けると、ますます話さなくなり、不登校が多くなり、どんどん自信を失っていく可能性があります。

マギー・ジョンソン&アリソン・ウインジェンズ共著『場面緘黙リソースマニュアル(Selective Mutism Resource Manual)』より抜粋・翻訳

うう~ん、実際のところ、私は場面緘黙だったんでしょうか? それとも、超内気であがり症の子どもだったんでしょうか?

  • 恥ずかしがり屋だと思われていた
  • 返事や受け答えはできたが、普段より文章は短く、声が小さかった
  • 親しい友達や家族、近所の人たちを除いては、普通にお喋りができなかった

該当する箇所が多いですね^^;

私の子供時代は地域のコミュニティが結束していて、田舎ではご近所付き合いが濃厚。学校を離れて家の近くまでくると、途端に元気になって地が出ていました。また、帰宅後は近所の小学生が集まって夕暮れ時まで一緒に遊んでいたので、A子ちゃんと私もその集団に含まれていた訳です。兄がその集団のリーダー格だったのも、安心できる要因だったかもしれません。

誰かのお母さんがおやつをくれたり、夕食時に「早く家に帰りなさい」と促してくれたり、「それは駄目」と注意してくれたり。だから近所の母親たちは第二の母のような存在だったのです。

そのお陰で普通に話せる場面が家庭だけに限定されず、場面緘黙にならずにすんだのかも。安心できる地域コミュニティで社会的な体験を多く積めていたんだと思います。

都市化や核家族化が進んで、地域コミュニティのきずなが薄くなっている現代。話せる家庭と話せない学校だけでは、社会との関わりが少なく、子どもが社会と接する機会が激減しているように思えます。

私の場合は場面緘黙になる資質が大きかったものの、親友のA子ちゃんがいてくれて、親しめる地域コミュニティもあったお陰で、緘黙にならずにすんだケースなのかもしれませんね。

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緘黙支援 電話でのスモールステップ

もう8月に入ってしまいましたね。今年はコロナの規制が外されたからか、世界中の人たちが動き回っているよう。私のところへも日本とイタリアから友達がやってくる予定です。嬉しいけれど、色々なことが一気に動き出したようで、なんだか目まぐるしい毎日です。

    先週末、ウォーキング友達2人とダブリンで珍道中を楽しんできました(^^; Ashling Hotelは各部屋ダブルかキングサイズで朝食も美味♡

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場面緘黙から抜け出せても「いまだに電話が苦手」という人は意外と多いようです。元緘黙児だった2013年のミスイングランド、カースティー・ヘイズルウッドさん(詳しくは『ザ! 世界仰天ニュース』(その1)』をご覧ください)もそう述べていました。

やっぱり、電話をかけてきた相手が誰か判らないのが一番の不安なんでしょうか? まあ、今だったら携帯に名前が出るから、相手が誰か判る訳ですが。あと、緘黙児は自分からアクションを起こすことが苦手なので、電話をかけるのが苦手というのは頷けますね。

帰省中の元緘黙の息子に訊いてみたら、「今は全く苦手意識はないよ」とのこと。考えてみれば、息子の世代はセカンダリースクール(12~16歳)から自分の携帯を持ち、コロナ禍の大学生活ではオンラインレッスンとビデオチャットが主流だったので、慣れもあるかもしれませんね。

(息子は緘黙だった頃のことは殆ど口にしないし、「もうあまり覚えてない」といいます。辛かったからもう思い出したくないのか、それともその記憶を頭の片隅に追いやってしまったのか…。それとも、私と話をするのが面倒なのか(^^;

そういえば、小5、6年の頃に、緘黙の過去のことや当時の自分の気持ちを唐突に伝えてきた時期がありました。徐々に話せるようになってきて、その安心感と自信から自分の中にため込んでいたものを吐き出したくなったのかも。初めて聞いて、目から鱗のことも多かったです)

本題に戻ると、息子も緘黙症状が顕著だった小学校低学年の頃は、大の電話嫌い。頑として受話器を取ろうとしませんでした。電話が鳴る度にナーバスになっていたような…。「ダディからだよ」と受話器を渡そうとすると、どこかに逃げていってしまうんですよね。

そんな息子が電話に出られるようになったのは、小2(6歳)の2学期に入ったある冬の日。急用で郵便局に行かなければならなくなったのですが、息子は一緒に行きたくないと…(ちなみに、イギリスでは小さな子どもを一人で留守番させることは不可。でも、必要に迫られてました)。いつも混みあう大きな郵便局なので「時間がかかるかもしれないけど、家で待ってて」というと、息子の顔がにわかに曇りました。

――行きたくないけど、長時間一人にされたくない――そんな不安な気持ちだったんでしょう。

「マミー、郵便局から電話して…」と思いもよらないリクエストが! これはまたとないチャンス!

何分ごろ電話するか時間を決め、3回鳴って一度切れたら私だから、また3回鳴ったら電話を取るという約束に。

そして、本番! 受話器から「Hello」という声が聞こえてきた時は、本当に感激しました!

「今並んでるから、あと15分位で帰れるよ」

「ウン」

超短い返事だったけど、ちゃんと電話で答えることができました。帰宅してから、さりがなく褒めたらちょっと自慢気。

翌日、主人が息子を買い物に誘うと、また行きたがらず(いきなり環境が変わるのが嫌?!)。さっそく次のチャンス到来とばかり、主人にスーパーに着いたら息子に電話をしてくれるよう頼みました。息子のチャレンジは買ってきて欲しいおやつの名前を言うこと。

この時何をリクエストしたのか覚えていないのですが、主人も息子と初めて電話で会話ができたと感激していました。

緘黙児は少し時間が空くと元の状態に戻ってしまうことも多いので、それから電話での受け答えの機会を増やしていきました。

この年の春休みには家族で帰国。最初は照れて私たちと英語だけで話していましたが、息子は割とすぐに祖父母に馴染み日本語で話せるように。この時は、子ども向けのTV番組から色々な単語や言い回しをどんどん覚えて、ビックリしました。

更に、イギリスに戻ってきてから生まれて初めて日本の祖父母と電話で話すことに成功!! 亡父が「初めてだなぁ」と感激していたのを、今でも忘れることができません。2007年当時はまだSkypeが普及しておらず、実家にPCはあれどモデムに繋げる技術がないという状態で、電話でしか声が聞けなかったのです。

<電話での取り組み要点>

  • 緘黙児は自分から行動するのが難しいので、電話をかけるより取る方が楽
  • 話せる人(保護者や友だちなど)からの電話なら安心度が高い
  • 予め電話がくる時間を決めておくとより安心
  • 会話は最初は 一言 ⇒ 言葉数を増やす(「はい」「いいえ」で応えられる閉じた質問 ⇒ 開かれた質問へ)
  • 自分から電話をかける時は、まず安心して話せる人(日時や話す内容を決めておくと安心)、もしくはピザの注文などセリフが決まっている会話を
  • 始めたらあまり時間を空けず、慣れて定着するまでスモールステップを繰り返す
  • 家で電話ごっこをして慣れる(息子は玩具のトランシーバーを使用)

子どもによって得意苦手が違うので、一番安心できる人・環境・話題からスタート。様子を見ながら、少しずつステップアップを測りましょう。どの子にも「これならできるかも」という時期があると思うので、子どもの反応を見ながらスモールステップに工夫を加えるといいと思います。

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息子の緘黙・学童期6~7歳(その9)同世代ということ

7月ももうすぐ終わりですね。イギリスではどの学校も夏休みに入り、大勢の人が海外のホリデーへと旅立っています。コロナ感染率は相変わらず高いままですが(17人にひとり)、オミクロン種はそれほど悪化しないということで、コロナ規制は全廃されたまま…。秋になったらどうなるか判らないので、みんなこの機にと3年ぶりの海外旅行(といっても近場の欧州が殆どですが)に押しかけている訳です。

     ものすごく久しぶりに、ケント州のラムズゲートにある友人宅へ。美味しいBBQをご馳走になった後、海岸線に沿って海辺を散歩しました

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さて、息子の緘黙話の続きです。

イギリスでは2005年から長寿SFTVドラマ番組『Dr Who』の新シリーズが始まり、デビッド・テナントが10代目のドクターになってから人気が沸騰。小学生の男の子たちの間でカードやフィギュア集めが大流行しました。

息子もご多分に漏れず毎週欠かさずTVを観て、グッズやカードも集めていました。でも、熱狂的なファン&コレクターというより、周りに感化された部分が大きかったような…。(仲良しのB君はそれはマニアックなファンで、その知識や集めたカードの数は学校で一二を争うほどでした(^^;)。

(ちなみに、このブームのお陰で学校外での取り組みに熱が入ることに。近くの文房具店で Dr Who のカードを店員さんに直接手渡して購入し、「これください」「ありがとう」などを言う練習です(詳しくは『買い物作戦』をご参照ください)。「カードが欲しい」という気持ちが、息子の背を押してステップアップに繋がりました)

学校では Dr Who の話題でもちきりで、雑誌やその付録の文房具、フィギュアやカードなどを教室に持ちこむ子も多かったよう(後に問題が発生して禁止となりましたが)。番組を観ていないと話題について行けないし、みんなが競ってグッズ集めをしている中、何も持っていなかったり、関心がなかったりすると、輪から外れてしまいますよね…。

このようなTVや映画、音楽などのサブカルチャーの流行、スポーツイベント、学校での出来事などは、同時代を生きているからこそ分かちあえ、価値観を共有できるもの。そこから独特の流行語やグッズ、スタイルなどーその世代が共有する時代の産物といえばいいでしょうかーが生まれたりもしますよね。

(例えば、プリクラ、たまごっち、『セーラームーン』や『ポケモン』などもそうかな)

同世代の子ども達と共通の話題を持ち、自分がその世界に属していると感じることが、子どもにとっていかに大切か―たとえ話せなくても繋がっていることはとても重要だと思うのです。

大人にとっては取るに足りない、つまらないことでも、子どもにとっては大きな意味を持つことも多いもの。子ども達だけの世界があり、価値観があることを忘れないでいたいものです。それは保護者や大人が与えることができないものだから。

だから、どんなにつまらないもの・ことだと思っても、子どもが興味を示したら、子どもの目線で見てどうするか判断してあげて欲しいと思います。

知らない人同士でも子どものころ好きだったTV番組やバンド、コメディアンなどの話で盛り上がることができますよね。そういう子ども時代の思い出をたくさん持っていることがとても大事じゃないかなと思う今日この頃です。

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息子の緘黙・学童期6~7歳(その8)B君、ありがとう!

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息子の緘黙・学童期6~7歳(その8)B君、ありがとう!

先週はイギリスではジョンソン首相の電撃辞任、日本では安倍元総理の暗殺と、予想だにしなかった事件が続きましたね…。世界中そうですが、EU離脱やコロナ禍、ウクライナ戦争などで急激なインフレが起こりつつあり、社会不安が増している今日この頃。生活の中に小さな幸せを見つけて、心を潤したいものです。

   果物や野菜の美味しい季節になりましたね。近所のアフガニスタンの八百屋さんで大好きなアメリカンチェリーを箱買い。庭から極小の苺とブルーベリー、友達の市民農園からは野菜が♡

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さて、息子の緘黙ストーリーの続きです。

仲良しのB君が他のグループに移ってしまい、一時的に孤立してしまったように見えた息子。新しく仲の良い友だち作れるんだろうかと、母親としてはとても心配でした…。

この頃は、B君とその周辺の子達とは学校でも小声で短い会話ができるようになり、クラスの子全員と一応口がきける(呼ばれたら簡単な返事ができる)状態にまできていました。が、その状態で新たに友達を作るのはかなり難しい?

息子は転入生が来ると仲良くなる(自分の緘黙を知らないから、近づきやすいという論理があったらしい)傾向がありましたが、もう小2も2学期。同じ顔触れで3年目なので、仲良しグループはほぼ固まった状態。

先生に相談しても頼りにならないし、どうしたものかと思案に暮れましたが、私のできることといえばB君やS君が空いてる日に家に招くことぐらい。う~ん、どうしたらいいものか…。

そんな悶々とした日々を過ごしていたら、ある日E君のママから「〇〇君、今週の金曜日に家に遊びに来れる?」とお誘いが!!!

え~っ、ありがたすぎる( ;∀;)

息子が自分でE君グループにアプローチできるとは思えないので、B君が誘ってくれたに違いない。B君、本当にありがとう!

それ以来、E君の家に招かれることが多くなり、小学校6年生になるまで「5人組のひとり(キャラ:大人しいやつ)」としてグループから外されることはなかったのです\(^o^)/(その後、息子はE君S君と同じセカンダリースクールに進学しました)。

私もここぞとばかり頑張って、5人組を極力家に招くことに。E君の家で夕食をごちそうになってくることが多かったので、私も週に一度5人組を招いて夕食をふるまうことが定番となりました。

結構面倒でしたが、彼らは食べられるものがほぼ決まっていて(息子も結構偏食気味だと思っていたのですが、その比ではなかった)、メニューはいつもフライドチキンかソーセージ&ポテトかパン、付け合わせの野菜(ニンジン、ブロッコリー、スィートコーン)。簡単にできるものばかりで、こちらは大助かり(^^;

彼らが家に長くいることで、どの子がどんな性格で、息子がひとりひとりとどの様に関わっているのか観察することができました。息子は相変わらずいつも遠慮して一歩引いているのですが、何とかグループの輪の中に溶け込めているよう。というか、他の子達はそんな息子を「そういうヤツ」として受け入れてくれた様でした。

これで、とにかくクラス(学校)での孤立を免れることになり、B君には本当に感謝してもしきれないです。今考えると、B君ママが助けてくれていたのかもですね。

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息子の緘黙・学童期6~7歳(その7)校庭の友情ベンチ

いつまでも小2のまま、息子の話がなかなか先に進まなくてスミマセン。現在21歳になった息子は、大学の夏休みで帰省中です。以前バンドに入っていた関係で、音楽仲間とギグをする羽目になったり、大学の友達に会いに行ったり。昨年はアルバイトをしていたんですが、今年はどうなることやら…。あと、小さい頃は本当に食が細くて心配だった息子が、今も身体は細いままなのに呆れるほど食べるんです。家の冷蔵庫があっという間にカラッポになって、ちょっと怖い^^;

    ロンドンの北にあるハートフォードシャーのラベンダー畑。£3(約500円)の紙袋いっぱいにラベンダーと野の花を摘んできました

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小2の2学期ごろ、息子の友達関係に大きな変化がありました。レセプションクラスから仲良くしてもらっていたB君が、別のグループと行動するようになったからです。それも、クラスで一番目立つグループ…。そこにはクラスの代表格のE君と彼の幼馴染で人気者のQ君、スポーツ万能のサッカー少年F君が。そこにB君が加わりつつあった訳です。

B君は、何というか一番目立つものに心惹かれるという特性がありました。息子と一緒だとおとなし目の目立たない男の子っぽいのですが…。そういえば、B君が仲良くしていたもう一人の友達、S君もクラスで目立つ存在でした。(B君はみんなと違う中学校に進学し、そこで最初にできた友達が学年一の不良だったという…)。

以前も書きましたが、イギリス人ママ達は子どもの意見を第一に尊重します。だから、親が「〇〇君も招こうよ」と主導権を握ることは難しい。親が勝手にプレイデートの相手を決められるのは、せいぜい小2くらいまで。だから、子どもの友人関係に口を出せるうちは、親が動けるなら動いた方がいいかなと思うのです。

息子がちょっと孤立しているらしいことに気づいたのは、お迎えの時間にE君ママが連れて帰るグループにB君が入りはじめたから。幼稚園時代の親友T君は帰国してしまったし、放課後いっしょに校庭で遊ぶ相手もいなくて息子はしょんぼり…。

もしかして、お昼休みとかもひとりぼっち? 一体、どうしているんだろう…。

心配になって息子に訊いてみると、校庭には友情ベンチ(friendship bench)なるものがあり、そこに座っていると…。でも、ポツンとひとりで座っている遊び相手のいない子を、他の子ども達がちゃんと気にかけて仲間に入れてくれるものか?!

遊びに夢中になっている6歳の子ども達がそんなに思慮深いのか--私には疑問でした。滑り台事件(詳しくは『息子の緘黙・幼児期4~5歳(その7)』をご参照ください)以来、忙しいお昼休みに子ども達全員に目を光らせてくれている先生がいるのかどうか、疑わしく思ってたし(^^;

放課後の教室で担任のL先生におそるおそる相談してみたところ、「そうねえ。Q君なんかは面倒見がいいから、友達になるといいかもしれないわね」と。でも、そのあと間伐入れず、

「もう2年生にもなれば自分たちで友達を作っていくから、教師は口を出せないわ」

そうですか…先生に手助けしてもらえるかもと、期待した私がバカでした😢

9歳から寄宿舎学校で育った主人は、昔から「学校は戦場」と言っていましたが…。う~ん、仁義なき戦いなのでした。

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ニューヨーク!ニューヨーク !(その6)

お久しぶりです。6月に入ってから何故かとても多忙になってしまい、なかなかブログの更新ができないでいました。やっとNYC旅行記のおしまいの記事です。

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滞在最終日

NYC最終日は雨模様の天気。NYCに来てはじめて傘を使うことに。午前中はアンディーウォーホル展を観るため、地下鉄でブルックリン美術館(Brooklyn Museum)へ。

  

    ブルックリン美術館(左)で開催されていたウォーホル展。自身と母親ジュリアの肖像画(右)。ジュリアは1952年にNYに移り住み20年ほど息子の世話をし続けたとか

『黙示録(Revelation)』と題されたこの展示会は、ポップアートの旗手として知られるウォーホルが実は敬虔なカソリック教徒だったことに焦点を当て、それが彼の作品に与えた影響を探るもの。ゲイであることを公言し、ポップカルチャーのカリスマ的存在だった彼が、礼拝のため定期的に教会を訪れていたと知り、すごく驚きました。

また、小学生のころ虚弱だった彼を育み、アートを推奨し、成人してからも支え続けたのは、母親のジュリアでした。その影響は計り知れないものがあります。

ウォーホルの両親は旧チェコからの移民で、アンディ(1987年没)は1928年に米国ペンシルバニア州で3人兄弟の末っ子として誕生。ルテニア東方典礼カソリック教徒の家庭で育ち、一家の中で初めて大学(カーネギー工科大学)に進学した。コマーシャルアートを学んだ後、1949年にニューヨークに移住。『ヴォーグ』や『ハーパーズバザー』など、雑誌のイラストや広告を手掛けるように。

          

    1928年8月に生まれ、洗礼を受けた(左)。1955年の作品、『二つの頭と握られた手(Two Heads and clasped hands)』は繊細なタッチ

1960年にコマーシャルアートからファインアートに転向。翌年、33歳の時にキャンベルスープ缶やドル紙幣を描いた作品を発表し、ポップアートブームの先駆けに。1962年からはトレードマークともいえる、シルクスクリーンプリントを使って作品を量産するスタイルを確立。マリリンモンローやジャッキーケネディなど有名人の肖像をはじめ、大衆的で話題性のあるモチーフが注目を集めた。

1964年にはNYにスタジオ、「ファクトリー(The Factory)」を設立し、『チェルシーガールズ』に代表される実験的な映画や音楽のプロデュースなど多様な芸術の制作に携わる。ファクトリーは新進アーティストのみならず、ミックジャガーやルーリードといったミュージシャン、作家のカポーティ、俳優やモデルなどが集まる社交場となった。1965年には伝説のバンド、ヴェルヴェットアンダーグランド(The Velvet Underground)のデビューアルバムをプロデュース。ウォーホルがロック音楽に与えた影響も大きい。「将来には誰でも15分間は有名人になれる」という言葉を流行らせたのもこの頃。                    60年代のトランスジェンダーのアイコンで、ウォーホール映画のスター俳優だったキャンディダーリン。ファクトリーには当時のセレブが集って制作にも関わったが、モデルや俳優への報酬をケチることで有名だったとか

 

      1970年代の『スカル(Skull)』シリーズの作品(左)。60年代初頭から死をテーマにしたり、光と影を強調する作風を用いた。中央と右は1981~1982年に制作した『銃』『ナイフ』『十字架』シリーズ

40歳の時、ファクトリーの常連だった過激派フェミニスト、ヴァレリー・ソラナス(Valerie Solanas)に襲撃され生死の境をさまよう。1970~80年代にかけては、社交界や政界からもシルクスクリーンの肖像を依頼する人が絶えなかった。代表的な作品は、中国共産党の毛沢東など。80年代にはバスキアやクレメンテらの若手アーティストと交流し、共同制作を行っている。1987年に胆嚢の手術を受けた後、心不全で亡くなった。

  

   1985~1986年、バスキアとのコラボ作品『10個のパンチバッグ(最後の晩餐)(Ten Punchbag (Last Supper)』、ウォーホルはダヴィンチの『最後の晩餐』のキリストを手描きしている。同年作、『あなたは違う?(Are You “Different”?』は宗教的な広告を手描きでトレースしたもの

      

    1985年作、ラファエルの絵をモチーフにした『ラファエル/ 聖母―$6.99 (Rapheal Madonna-$6.99)』。消費社会においては聖なるものも俗物化・商品化?

     

      死去する1年前、1986年に制作された『最後の晩餐(The Last Supper)』はダヴィンチの作品がモチーフ。同じ題材で100以上のパターンの作品を発表している

信心深い家庭で育てられたウォーホルが、アメリカの資本主義社会が象徴する大量生産の時代の寵児になったこと。人間らしい感情を取り払った、コピー機が生み出すような派手な色彩のセンセーショナルなアートが時代の象徴になったこと――その巡りあわせも不思議ですよね。

ということで、ウォーホル展を堪能した後、最後にもう一度NYC在住の友だちと食事をして夜8時ごろ帰路の旅路についたのでした。

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ニューヨーク!ニューヨーク !(その5)

滞在6日目

この日は朝9時半にNYC在住の友達とグランドセントラル駅で待ち合わせ。まず地下鉄でBrooklyn Bridge City Hall駅まで行き、快晴の空のしたブルックリン橋を歩いてマンハッタン島からブルックリンへと渡りました。1883年に開通したブルックリン橋は、鋼鉄ワイヤーを使用した世界最初の吊り橋なんだとか。

        

       天気がいいと風景も気分も全然違いますね。徒歩で30分ほどですが、NYCの絶景を眺めながらのウォーキングなので、それほど長く感じませんでした

ブルックリンに到着したあとは、橋の袂にあるダンボ(DUMBO Down Under the Manhattan Bridge Overpass)地区でコーヒーブレイク。イースト河沿にの倉庫街を改造したお洒落なレストランやショップが並びます。友達が連れて行ってくれたのは、エンパイアドアーズ(Empire Doors)という建物内のタイムアウトマーケットNYという人気スポットでした。

    

 ブルックリン橋のアーチ型鉄柱の向こうに見えるのはエンパイヤステートビル(写真中)。トレンディなエンパイアドアーズNYC

ダンボからCourt St駅まで歩き、そこから電車でニューヨーカーが避暑に訪れるというコニーアイランド(Coney Island)へ。高層ビル群から住宅地へと風景が変わっていき、着いたところは大きな遊園地がある海岸でした。

   遊園地「ルナパーク」はまだ閉鎖中(左)。4月上旬とは思えない上天気

海岸沿いにまたまた3駅ほど歩いて、Brighton Beachというエリアのロシア料理店へ(コニーアイランドにはロシアからの移民が多く、ロシア料理店がひしめいているのです)。そこで昔ロンドンで出会ったもうひとりの知人と感激の再会!最初に会った時はみんなシングルだったのに、今や彼女も私も成人男子の母親になっているというーーう~ん、時間が経つのがなんと早いこと!

   メインのビーフストラガノフと4人でシェアしたチーズケーキ。お味は…まあまあ。近くに世界一有名?!といわれるホットドッグ屋さん、ネイサンズが

 

昔話に花を咲かせながら夕方まで海辺をブラブラ。とても楽しい一日だったけど、さすがに歩き疲れました。グランドセントラル駅の近くでお握り屋さんを発見したので、夜は梅のお握り、ギョウザ、苺大福とみかんをテイクアウト。NYCで食べた中で最も美味しかった食事のひとつかも…。

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滞在5日目

この日はゆっくり起きて朝食をすませ、マンハッタンの西側にある屋内マーケット、チェルシーマーケット(Chelsea Market)へ。かつて精肉工場や倉庫などが並んでいたため「ミートパッキングディストリクト (Meat Packing District)」と呼ばれるこのエリアは、現在も再開発中なのだそう。

友だちに「街を観たいから地下鉄を使わずに歩こうよ」と言われ、この日もまた歩く、歩く、歩く。彼女の記録によると、私たちは毎日2万歩以上(約14km?)歩いてたようです(^^;

  

    グルメ、ファッション、アクセサリー、お土産品など60件以上の店が並ぶマーケット。でも、それほど規模が大きい訳でも、珍しいものがある訳でもなく、ちと期待外れでした。

マーケットを後にして、ハドソン河にちょこんと突き出た出島、リトルアイランド(Little Island)に立ち寄ってから、古い高架鉄道の跡を利用して造られた空中公園、ハイライン(The High Line 写真右)を散策。まだ4月始めの寒い時期でパンデミック中だったためか、緑も花も全くない上、ショップやカフェも閉っていて、なんだかうらぶれた感が…これが夏だったら随分違っていたんだろうなと思うんですが。

エンパイア(Empire)というダイナーで遅いランチ。私の注文したサラダがとても斬新で美味しかったです。1/4位に切ったアイスバーグレタスの上にアボカド、クルトン、トライトマト、ベーコン、ピクルドオニオン、カッテージチーズなどがてんこ盛りになっていて、ナイフが突き刺さってた…(;^_^A ダイナーの後ろの壁画がヘタウマ風というか、インパクトがありました(どうしてこの4人?!)

  

この後、地下鉄に乗ってまたNYC在住の友達を訪ね、彼女のお部屋でゆっくりおしゃべり。日が暮れてから近くのギリシア料理店で夕ご飯を食べました。大きなサーモンと食後はアップルシナモンティー。う~ん、食事はロンドンの方が美味しいような…。ちょっと外れのゆるい日となりました。

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