浅田真央さん、お疲れ様でした!

一昨日、どなたかがあげてくれた動画で、浅田真央さんの引退会見を観ることができました。白いジャケットを着て髪をひとつに束ねた真央さんは、清々しくてとても晴れやかな表情。もう心の整理が済んで前を向いてるんだなと思った反面、やはりこんな形で引退となったのが残念でなりません…。

その潔さは、とても彼女らしいのですが…。

長年日本フィギュア界を牽引し続けてきた国民的なスケーターにふさわしく、氷上で惜しまれながら競技人生を終えて欲しかった。

女子では歴代5人目となるトリプルアクセル(3A)をまだジュニア時代に成功させ、以来ずーっと跳び続けてきた真央さん。調子が悪い時も、「浅田真央の代名詞」と言われた3Aにずっとこだわり続けてきました。2012年くらいから腰痛に悩まされることが多くなり、昨年は左膝に故障を抱え、滑り込みができなかったとききます。

どんな時も言い訳せず、可能な限り最高の演技を目指すアスリート魂がすごい! 頑固すぎると言われることも多かったですが、そのひたむきさ、真っ直ぐさを本当に尊敬します。

オリンピックの金メダルを獲得することはできませんでしたが、バンクーバーでもソチでも、女子シングルでは彼女の演技が一番心に残っています。

2010年バンクーバーオリンピックの前年、真央さんは絶不調だったんですよね…。シニアにあがって初めてグランプリファイナル出場を逃し、オリンピックに出場できるかどうかは、全日本選手権にかかってました(ちなみに、グランプリシリーズでは、3Aは6回中1回しか成功してません)。

日本中のファンが固唾を呑んで見守る中、全日本のショートプログラム『仮面舞踏会』では、躊躇なく3Aに挑んできました。演技を終えたあとのキラキラ笑顔が本当にまぶしかったです。(この時の3Aは解説が「大丈夫」と言ってますが、回転不足と判定され減点でした)

バンクーバーオリンピックの伝説のフリープログラムでは、ご存知のようにミスが出てしまいましたが、それを補って余りあるほどドラマチックな演技。妖精のようなイメージが強い真央さんですが、ここでは戦う阿修羅王のよう。特に、スパイラルは鬼気迫るものがありました。

  ラフマニノフが19歳の時に作曲した『鐘』は、迫りくる大火への警鐘の鐘だそう。1つの試合で初めて3Aを3回成功させ、ギネス記録となりました

2014年ソチオリンピックのフリー演技は、今後もフィギュア史で語り継がれていくんじゃないでしょうか?金メダル候補だったのに、ショートプログラムではまさかの16位。引退会見では「もう日本に帰れないと思った」と言ってましたが、想像を絶する落胆とプレッシャーだったと思います。それを跳ねのけてのあの演技!本当に感動しました!(一緒にTVを観ていた息子とグラニーが、私の力の入れようにビビッてました)

そして、演技し終わった時の涙と笑顔…。こんなドラマをオリンピックで2回も繰り返すなんて、やはり持ってる人です。

  2度めのオリンピックに再びラフマニノフを選んだタラソワさん。彼女の選曲と振り付けは、真央さんの新たな魅力と可能性を引き出したように思います。この二人が引きおこす化学反応は特別でした

(ところで、このプログラム、8回の3回転ジャンプを組み込んだ女子フィギュア史上最高の難度だったんです。合計142.71は自身の最高得点でしたが、私は「えっ、低い」と思いました。2つのジャンプで回転不足判定があって減点されてますが、技術点の基礎点は1位。でもGOE(出来栄え点)が少なく、芸術点といわれる演技構成点は5位だったんですよね…で、フリーの順位は3位。バンクーバーの後、佐藤コーチについてスケーティングもジャンプも1から見直し、滑りは格段に美しくなったと思います。でも、その努力が点数に反映されていない…。

「最終グループで滑ったら、もっと演技構成点が出た」と評論家がいってましたが、それって変じゃないですか?そして、ジャンプの判定もいまどき目視だけって時代遅れでは? 毎年のようにルールが変わり、見た目と点数が乖離してることも多いので、フィギュア観戦はモヤモヤ感が消えません)

実は、私は天才少女と呼ばれていた頃の真央さんには、あまり興味がなかったんです。昔からフィギュアを観るのは大好きでしたが、渡英してからはフィギュアのTV放送なんてなくて。忘れかけていた頃にトリノオリンピックを観て、再びフィギュア熱を取り戻したのでした。インターネットがあって、本当に良かったです。

その後帰国するたびにフィギュアの大会をテレビ観戦する機会に恵まれたんですが、男子を中心に観てたんです。ある冬(2008年かな)、真央さんが黒い衣装を着て『仮面舞踏会』を踊っているのを観て、「あの真央ちゃんが、こんなすごいプログラムをやってるんだ!」と驚かされました。

以来、割とのめり込まずに傍観してきたつもりなんですが、やっぱり唯一無二の存在だったなあと。ふわりと軽いジャンプと所作の美しさ、演技のどこを切り取っても美しく、とにかく気品がありました。常に前を向き、努力する天才でした。何といっても、スケートが大好きという気持ちが伝わってきて、彼女の生き様を見せてもらっているようでした。

彼女のほどのスケーターは、今後なかなか現れないと思います。淋しいけれど、ひとつの時代が終わりを告げたんですね。

真央さん、今まで本当にご苦労様でした。感動と勇気を与えてくれてありがとう!

今後も笑顔で前に進んでいきたいという彼女に、心からエールを送りたいです。

ナターシャ・デールさん (21歳)の緘黙克服

SMiRAコンファレンス2017年の講演内容の続きです。

ナターシャ・デールさん 『SM–My Recovery 場面緘黙――私の回復』

次に登場したのは、ここ4年間でかなり緘黙を克服しつつある21歳のナターシャさん。7歳の頃から緘黙に苦しみ、学校では緘動で動けなかった時期も長かったそうです。緘黙克服への道を歩み始めたのは18歳と、年齢的にはかなり遅い時期。

緘黙期間が長いと社会不安障害やパニック障害、OCDなどを併発する可能性も高くなり、克服はより難しくなるといわれます。でも、ナターシャさんは現在ほとんどの人と話せるようになっているとか。年齢が上の人たちにとって、とても励みになるんじゃないでしょうか。

今回のSMiRAコンファレンスは満席に近く、参加者は90名を超えていたと思います。後ろの方に座っていたナターシャさんが、かなり緊張した様子で登壇した時、大丈夫かなと少々心配になりました。が、原稿を棒読みしている感じは否めなかったものの、しっかり聞こえる声でひと安心。ナターシャさんがスピーチを終えると、会場は温かい拍手に包まれました。

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<スピーチの内容>

場面緘黙だった時は、まるで2人の私がいるみたいでした――学校での私ナターシャと、家での私タッシュ。

学校では緘黙が私を支配し、常に大きな不安に押しつぶされそうでした。体が硬くなって姿勢が悪くなり、たびたび腹痛に襲われて…。世界から自分が隔離されてるような感覚だったんです。

家では不安から開放され、本当に安堵しましたが、ものすごい疲労感も…。

緘黙が私の人生を支配し、私には何の主導権もなかったんです。いつも誰か理解してくれる人が側にいてくれれば、と願っていました。

私が緘黙を克服し始めたのは18歳の時。もちろん、それ以前にも一生懸命話そうと試みましたが、そうできる環境じゃなかったんです。

学校は騒がしくて、そのために不安が増しました。学校スタッフは緘黙についての教育を受けてなくて、緘黙のアセスメントもIEP(Individual Educational Plan 個別教育支援計画)もなかったんです。

もしも、席順を配慮してもらえていたら――

体育や音楽やドイツ語などの授業、ランチを食べる学校のカンティーン(全生徒用の大食堂)など、何らかの配慮をしてもらえていたら――もう少し楽になっていたかもしれません。

転機が訪れたのは、18歳になってカレッジに進学し、動物飼育のコースを始めた時。

5年ぶりに家族以外の人と話せました。動物がいて、微笑んだりジェスチャーを使えることが多かったのが功をなしたと思う――今考えると、アニマルセラピーですね。

でも、話せたからといって、誇らしくは感じなかったし、決して楽しい経験ではなかった…。

とにかく、話そうと試みる回数を増やすにつれて、徐々に話すことが楽になっていきました。

母がウサギを飼わせてくれたこともすごく助けになりました。ブランブルという名前をつけて親しんだことが、ポジティブな効果を生みました。

毎日庭に出て、ブランブルに話しかけてたんです。

あと、TVのコメディ番組からも学ぶことも多かったかな――人生にはポジティブな面もあるって。時には、自分の失敗を笑い飛ばすことも大切だって。

自分の他にも緘黙に苦しむ人が大勢いると知り、自分の話を共有しようという自信が持てました。私だけじゃなかったんだと。

それで、昨年7月にFBに『Selective Mutism Recovery–Natasha’s Story 場面緘黙からの回復--ナターシャの話』を開設したんです。

追記:ナターシャさんの現在のブログは『I am not Shy:I have Selective Mutism』でした。リンク先を追加しますね。

https://www.facebook.com/Iamnotshyblog/

https://iamnotshyblog.wordpress.com/

それまで色々なタイプのセラピーを受けました。でも、殆どのセラピストは私のこと、緘黙のことを理解していなかったと思います。

それでも、セラピーを受けたことで不安を減らすことができ、自分の夢を追うことができました。

ずっと何かを成し得たいと思いつづけてきて、最終的にはカウンセラーになることが目標なんです。

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このスピーチは当時のメモを見ながら書きだしたのですが、抜けている箇所や誤解している箇所もあるかもしれませんのでご了承ください。

長くなってしまったので、続きは次回ご紹介しますね。

<関連記事>

SMiRAの2017年コンファレンス

場面緘黙克服のために抵抗力 Resilience を高める

 

春の海

学校のイースターホリデーが始まった先週末、主人の友達の誕生会に呼ばれて、家族でブライトンまで行ってきました。過去3回ほど行ったことがあるのですが、いずれも結婚する前のこと。街のシンボルとして有名なパビリオン内を見学したことがなかったので、今度こそと楽しみにしてました。

ブライトンの象徴ともいえるロイヤル・パビリオン

運良く好天に恵まれ、そぞろ歩きにちょうどいいくらいの暖かさ。土曜日だったので、歩行者天国でマーケットも開かれてました。

可愛いらしいショップがたくさんあって寄りたかったのですが、男性陣は目もくれず…カフェを探してどんどん先に行ってしまうんです

お昼はイタリアンカフェでお得な3コースランチ。前菜のエビのカクテルはすごいボリュームでした。メインは久しぶりにカルボナーラのパスタを食べたのですが、こちらもたっぷりした量。

  エビのカクテルとスライスしたバナナに甘いトフィーと生クリームをたっぷり加えたバノフィーパイ(右)。1972年にイギリスで発明されたスィーツなんだとか

腹ごしらえした後、ロイヤル・パビリオンへ。元々は18世紀後半にまだ皇太子だったジョージ4世が建てた別荘だったそう。その後、海水浴が流行しブライトンの街はファッショナブルな保養地に発展。国王になったジョージ4世は、1815年に建築家ジョージ・ナッシュに依頼して、手狭になった別荘を現在のオリエンタル趣味の離宮へと大改装させました。

外観はインド・イスラム風ですが、内装はシノワズリ趣味で豪華絢爛。そこかしこに龍のモチーフがあしらわれ、これでもか(笑)というほど金襴の飾りが--当時の東洋に対する興味と憧れに満ちています。あと、召使たちが通る長い廊下が延々と続いているのが興味深かったです。

     天井が高くて明るいキッチン。蓮の花を模った巨大シャンデリアが見事な宴会室へと続きます

ヴィクトリア女王は狭くてプライバシーが守れないという理由で、1850年にこの離宮をブライトン市に売却しています。当時、殆どの家具はロンドンに移されたそうですが、後になってシャンデリアや壁紙などを戻したんだとか。第一次世界大戦時には、イギリス軍として戦い負傷したインド人兵士たちのための病院として利用。インド風の外観から親しみを感じてもらえると考えたそうなのですが、中は中国風でビックリだったかも…。

次はパビリオン内にあるブライトン博物館を見学。陶器、20世紀の家具調度、古代エジプト文明、パフォーミングアートなど、雑多なコレクションが。主人の友だちによると、昔は無料だったそう。

この後、観光客のメッカでもあるブライトンピアーへ。天気がいいので家族連れや若者でいっぱい。ピアーの一番先は遊園地になっていて、ジェットコースターやメリーゴーランドなども。こんなところに造り付けちゃって、安全面は大丈夫なのかな…。

 

ブライトンの海岸は砂浜でなく小石の浜です

  日暮れにホテルのカフェで少し休んで、徒歩で丘の上にある友達宅へ

翌日の朝は、まずサウスダウンズ・ヘリテージセンターに向かいました。展示とかは少なくて、巨大なガ―デンセンターとカフェという感じ。気候が良くなったのでガーデニングを始める人が多いのか、巨大な駐車場が結構いっぱい。

白い蔓バラのクレア・オースティンが枯れてしまったので、代りをゲット

お昼過ぎにブライトンマリーナで主人の友達家族と合流。白い絶壁に沿ってぶらぶら散歩し、先端近くにある小さなカフェでランチとおしゃべりを楽しみました。

その後、ブライトンの北側にあるエドワード王朝時代の屋敷、プレストンマナーに寄りました。閉館時間に近かったためか、ビジターは私たちだけ。他に誰もいなくて、規模も小さかったためか、誰かの家に招かれたような親密な雰囲気。当時の上流家族の暮らしが、肌で伝わってくるようでした。

 

メインの寝室の向こう側には、夜中でもすぐアテンドできるようメイド長の部屋がありました。他のメイド達の部屋は屋根裏に、バトラーを始めとする男性召使いの部屋は中地下にあったそう。地下室では、洗濯やアイロンかけ、靴の手入れ、食事の支度などが行われ、各室で用事がある時は、地下でベルが鳴るという仕組み。

家族の優雅な生活を支えるため、召使いたちが頑張ってたんでしょうね…。

場面緘黙克服のために抵抗力(Resilience)を高める

2017年SMiRAコンファレンスより

SLT(言語療法士)アニータ・マッキアナンさんの講演『場面緘黙克服のために抵抗力(Resilience)を高める』

実は、当日地下鉄工事のため予定していた電車に乗り遅れ、講演会が始まってから会場入りした私。すでに満席に近くて、空いている席がなかなか見当たらず…。昨年より参加者が増えたという印象でした。

やっと見つけた席につくと、既にSMiRAコーディネーターのリンジーさんの挨拶が終わり、アニータさんの講演が進行中。

講演者のアニータさん(右)

現代のカウンセリングの基礎である、来談者中心療法(Client-Centered Therapy)を創始した、アメリカの臨床心理学者、カール・ロジャーズの「Actualizing  Tendency (自己現実の性質)」について話しているところでした。

あとで調べたら、これは「人間には有機体として自己実現する力が自然に備わっている」という説。アニータさんは、緘黙の克服には生まれつき備わっている困難に抗う力、Resilienceを高めることが重要と考え、その方法を話してくれました。

 

<アニータさんによる場面緘黙の説明>

    子どもが初めて場面緘黙になった時:

     怖い体験  →   Fight or Flight(戦うか逃げるか)の本能的な反応 

                           ↓    

              脳からの信号により 喉がしまったような状態に                                                                                                                                                                ↓  

                  同じような恐怖に襲われそうになると、無意識のうちに同じ反応がおきる

               ★この反応が繰り返されることで、緘黙が定着

高い所に行くと足がすくんでしまう高所恐怖症などと同じように、場面緘黙の場合は話さなければならない状況になると、喉がしまったような状態になって声を出すことができない。この反応は無意識のうちに起こるので、本人にはどうしてそうなるのか判らない。

克服法:Graded Exposure(認知行動療法CBTによる段階的な暴露法)

何故話せないのかを本人に説明。スモールステップで少しずつ話す恐怖に立ち向かい、意識的に恐怖を克服していく(アニータさん自身、緘黙ではありませんでしたが、幼少の頃から複数の恐怖症を抱え、それをひとつずつ克服したとか。経験者故に話に説得力がありました)。

<緘黙の克服に重要な3つのキー>

  1. Resilience     抵抗力
  2. Self-Efficacy    自己効力感
  3. Healthy Coping   健全な対処 

1)Resilience 抵抗力を高める

SM児は学校で話せないこと、家庭外で友達や大人と円滑なコミュニケーションを取れないことで、集団やグループの中で孤立しやすく、弱い立場におかれやすい。学校生活が負担になることも多く、長期間の緘黙が人間関係に大きく影響することも。こういった負の状況に負けない抵抗力をつけることが重要。(「反発力」や「回復力」と訳すことが多いようですが、ここでは「抵抗力」という言葉を使いますね)

・肯定的な人間関係 → 家族、親戚、友人など、子どもを囲む社会的なネットワーク作り/ SM児にとって暖かい家庭環境・人間関係があることが必須

 ・感情面での支援     →   ひとりでも信頼できる人がいると、子どもの心境は全く違ってくる/ 友達や愛情を注げるペットを持つことも大きな支援となる

2) Self-Efficacy 自己効力感を育てる

「自己効力感」とは、簡単にいうと自己に対する信頼感や有能感のこと。何か問題がおきた時、「対処できる」「大丈夫」と思えること。自己効力感を育てることにより子どもの自己評価があがり、行動を起こすことができる。

・自分で問題を解決する機会を持たせる → 子どもが自分のアイデアを持てるようにする(親はサポーター役)

・役割や責任を持たせる → 自分のことは自分で

・自分の価値観を持ち、自己防衛できるよう奨励していく

・子どもの興味や才能を伸ばす  → 得意なことや好きなことが、話すことや対人恐怖のバリアを破るきっかけになる

3) Healthy Coping   健全な対処法を身につける

問題に対して健全な対処をするためには、自分の感情を理解してコントロールできることが必要。ネガティブな感情やストレスも人生の一部として受け入れ、自分なりの対処法を身につける。

・大人が模範を見せていく → 理知的な問題解決、問題に立ち向かい、ストレスに耐える姿など

・子どもの視野を広げる → ポジティブな行動や考え方を奨励し、間違いは認め、柔軟性のある対応を

・自分の感情について話せる環境づくり

・大人が自分の人生体験について話す機会を持つ

・緘黙を恐怖症と捉える → 恐怖症は無意識のうちに定着する不合理な思考 → 思考は変えられる → 克服可能

・不安になった時のために、自分なりの対処法を見つけ出す → 呼吸法やマインドフルネスなど、自分にあったものを

★緘黙児は自分の感情について話したがらない傾向が強いので、絵本などを使い誰でも不安になる時があることを理解させる

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3つのキーの他にも、ポジティブな学校環境、助けを求める勇気を持つことなど、いろいろな提案がありました。が、ひとつアニータさんが強調していたのは、「助けを待っているだけではダメ」ということ。イギリスでは緘黙支援が充実していると思われがちですが、参加した保護者たちの多くは「支援不足」を訴えていました。

学校が支援プログラムを準備してくれるといっても、やはり限度があります。政府は各セクターの予算カットを強要していて、特別支援に関しても見直されているのが現状…。場面緘黙のみでは行政からの予算はおりないため、どうしても後回しにされがちなのです。

また、「やっと専門家に会えた」と思っても、専門家が緘黙を治してくれるというものではありません。専門家の提案にそって支援プログラムを遂行していくのは、結局のところ家族が中心。イギリスでも保護者が中心となって、学校に働きかけて協力関係を築き、専門家も巻き込んでスモールステップで克服していくという感じです。それには、本人の努力も不可欠です。

アニータさんは、日常の「小さな機会」を見逃さないようにとアドバイス。例えば、赤ちゃんが産まれたばかりの同級生の家族がいたら、同級生の学校の送り迎えを引き受けたり、近所の子を自宅に招いて遊ぶ機会を設けたり、職場の同僚の家族と出かける機会をもつなど。

アニータさんが担当した子どもの母親は、友達の送り迎えをかって出たとか。初めは何も話せないので、お母さんが間に立って会話を盛り上げていましたが、子どもは徐々に声がでるようになり、友達とも話せるように!以前は通学の際に緊張が強かったそうですが、学校にいくまでの時間を楽しく過ごせるようになったということです(注:子どもの気持ち次第なので、無理強いは禁物です)。

緘黙児にとっては、ほんの小さな変化が大きなステップアップとなります。そのため、保護者には家庭や職場でのソーシャルネットワーク作りを奨励していました。

保護者もシャイな方が多いかもしれませんが、できる範囲で頑張りましょう。小学校高学年になると親の出る幕は少なくなってしまうから、低学年までが頑張りどころかもしれませんね。でも、日本の小学校だと集団登下校だし、他の保護者と会う機会が少ないかな…。

次回は、場面緘黙を克服中のナターシャ・デールさんの講演について書く予定です。

<関連記事>

SMiRAの2017年コンファレンス

 

SMIRAの2017年コンファレンス

学期末でバタバタしていて随分遅れてしまったのですが、3月18日(土)に、イギリスの場面緘黙支援団体SMIRAの定例総会に行ってきました。

今年も全国各地から緘黙児の家族、言語療法士を中心とする専門家やTA(教育補助員)などが集まり、参加者は90名ほど。昨年10月に『場面緘黙リソースマニュアル第2版』を出版したSLT(言語療法士)のマギー・ジョンソンさんとアリソン・ウィンジェンズさん、昨年の講演者でアニマルセラピストのリビー・ヒルさん、BBCに出演した緘黙克服中の成人女性、サブリーナさんなど、錚々たる顔ぶれが揃い、活発に意見が交わされました。

SMiRAコーディネーターのリンジーさん(左)と役員のヴィッキーさん

今年の講演プログラムは:

  • 場面緘黙克服のために抵抗力(Resilience)を高める SLT(言語療法士)アニータ・マッキアナンさん
  • 私の回復体験 ナターシャ・デールさん(21歳)
  • NYの治療プログラム “Brave Buddies” 参加体験 児童セラピスト ルーシー・ナサンソンさん
  • ディスカッション
  • 1月に亡くなった緘黙児、ケイティ・ラフちゃん(7歳)の追悼イベント(希望者のみ)

今回講演した二人のセラピストは、いずれもプライベートでSM治療を行っています。NHS(国民保健サービス)に頼る場合は、長い順番待ちがあるうえセラピストや専門家を選ぶことはできません。また、地区によってサービスにバラつきがあり、宝くじに例えられることも…。

最近イギリスでは、オンラインで言語やコミュニケーションの治療を受けられるプログラム等も出現。料金はかかりますが、プライベート治療の選択肢が随分増えたように思います。

コンファレンスでは資料が配布されなかったため、手書きのメモしかないのですが、講演の概要は追ってKnet会員掲示板と稚ブログで紹介していく予定です(大幅に遅れててすみません)。

追記:

コンファレンスが終了した後、会場となった教会ホールの向かい側にある公園で、ケイティ・ラフちゃんの追悼イベントが行われました。

春の花が一斉に咲き始め日増しに春めいてきていましたが、この日は朝から灰色の曇が垂れ込め、肌寒い気候に逆戻り。どんよりとした曇り空の下、ケイティちゃんの冥福を祈って、自由の象徴ともいえる白い鳩を空に放ちました。

 

イギリス北部の都市、ヨークに住む7歳のケイティちゃんがナイフで殺害されるという痛ましい事件が起きたのは、今年1月のこと。犯人がまだ15歳の少女だったという事実が明かされ、全国的なニュースになりました。

ケイティちゃんが場面緘黙だったこと、SMiRAとの関わりがあったことで、SMiRA役員や関係者、保護者や当事者のメンバーたちの間に大きな衝撃が走りました…。

はにかんだ笑顔が本当に可愛い女の子――ケイティちゃんは緘黙ではあったけれど、みんなと一緒に外遊びをするのが大好きで、友達も多かったといいます。いつもは自宅の庭で遊んでいたそうですが、彼女が発見されたのは自宅のすぐ近くの公園…。

もしかしたら、話せないケイティちゃんを無理やり誘い出したのかも…、叫びたくても「助けて」の声が出なかったのかも…。どんなに怖かったことか――そう考えると本当に切ないし、ご家族の気持ちを思うとやり切れないです。

娘を悲劇の少女としてではなく、自分たち家族を幸福にしてくれた茶目っ気ある美しい少女として覚えていて欲しい――そんなご両親の思いに敬意を払いたいです。

ケイティちゃんのご冥福を心からお祈りします。

https://www.theguardian.com/uk-news/2017/feb/13/funeral-seven-year-old-katie-rough-archbishop-of-york-sentamu

 

息子の緘黙・幼児期4~5歳  これは只事ではない!

息子の問題が発覚し、初めてSENCOと会ったのは20052月前半のこと。先生から教室で動けていないと言われたものの、息子はそのことについて家では何も言いませんでした…。幼いなりに、「話さないことはいけないこと」という意識があったんだと思います。

初めてのハーフターム(学期の真ん中に入る1週間の休み)がやってきて、じっくりT君と遊ぶ時間が取れました。休み明けは普通に登校し、「学校に行きたくない」と嫌がったことは一度もありませんでした。うろ覚えですが、この頃から家で癇癪を起こすことが多くなったと記憶しています。

(緘黙児は人に注目されるのを嫌うため、基本的にはいつも通りの生活を貫きます。休むと目立つと考えるのか、学校を休むことはありません。恐怖の対象は「人前で話す」ことや「人に声を聞かれる」ことであり、緘黙している間は恐怖を回避できている状態(恐怖に直面している時より不安は低い)なのです。もし学校に行くのを嫌がったり、体調不良を訴えたりする場合は、緘黙の他に原因があると疑った方がいいかもしれません。例えば、学校で毎回話すことを強要されたり、友達にからかわれるなど、ストレスが大きいのかも…。普通なら気にしないような些細なことでも、繊細な緘黙児にとっては大きなショックになることも多いので、注意が必要です。子どもの様子が普段と違っていたり、何かあるなと思ったら、担任に相談してみてください)

イギリスでは一歩学校の外へ出ると、子どもの安全は保護者の責任。なので、小3くらいまでは、毎日送り迎えをしなくてはなりません。滑り台事件の後は、朝学校のゲートに入ると無言になるだけではなく、下を向いて小さくなっていたように思います。

校舎に入って入口近くでコートをフックに掛け、教室の前でバイバイするのが日課。事件後もひとりで教室に入っていくことができましたが、一度だけ教室に入れなかった日がありました。仕方がないので、手を引いて入口で待っている担任のところに連れて行くと、「お母さんも一緒にどうぞ」と言ってくれました。

私も他の子どもたちと一緒にカーペットに座って、レセプションクラスの朝の活動を体験することに。先生の話を聞きながら、横に座っている息子の様子をソッとうかがうと――えっ、どうしたの?!

全く無表情で、能面のような顔をしているのです!

まるで別人――何これ?! どういうこと?!

これは只事ではない!――と焦っているうちに朝の会(?)は終わり、座っていた子どもたちが立ち上がり始めました。すると、息子が手で私の体を押したのです。

――「マミーはもう帰って」というジェスチャーでした。

何が何だかよく解らないまま、先生にも促されて教室を後にしました。その日は能面のような息子の顔が頭から離れず…。あんな顔をするのを見たのは初めて。一体、息子に何が起きたのか?でも、お迎えに行くと、息子は普段の顔に戻っていて、いつものように私が持参したおやつを食べ、T君と一緒に運動場へかけだしていきました…。

一体なんなんだ~?!

その夜、私は息子にこう訊ねてみました。

「マミーが小学校に入った頃、学校はすごく大きくて、人がいっぱいいて、とても怖かったよ。○○も怖いでしょ? 怖いのに、よく我慢して毎日学校に行ってるね。偉いね。今朝、教室でずーっと黙ってたの、辛かったでしょ?」

すると、思いもかけない答えが帰ってきたのです。

「ううん。ボクいろいろ面白いこと考えてたから、ちっとも辛くなかったよ」

(へっ? あんな能面みたいな顔して、心中はすごい葛藤があるのかと思ったら、実はそうじゃなかったんだ~

私は小さい頃から空想癖があったのですが、どうやら息子も同類のようでした。今考えると、息子は不安から逃れるために現実逃避をしていたのかも…。

この頃、私にはまだ場面緘黙の知識が全くなかったのですが、なんとかしなくちゃいけない!と強く思いました。息子を寝かしつけてから、入学の際に学校からもらった資料を引っ張り出し、目を皿のようにして読んでいると――「健康上の問題があったら、School Nurse(養護教諭?)の○○さんに相談してください」という箇所を発見。

 「よし、これだ」と思い、翌日勇気を出してその人に相談してみようと考えたのでした。

<関連記事>

息子の緘黙・幼児期4~5歳(その1)

息子の緘黙・幼児期4~5歳(その2)

息子の緘黙・幼児期4~5歳(その3

息子の緘黙・幼児期4~5歳(その4)

息子の緘黙・幼児期4~5歳(その5)

息子の緘黙・幼児期4~5歳(その6)

息子の緘黙・幼児期4~5歳(その7)

息子の緘黙・幼児期4~5歳(その8)

息子の緘黙・幼児期4~5歳(その9)

 

春爛漫

久しぶりに近所のガーデンセンターに行って、「もうすぐ水仙が咲く!」と嬉しくなった先週の土曜日。でも、その翌日に地区で行われたウォーキングに参加したところ、陽当りのいい丘の上ではもう水仙が満開になっていました。

  

ハイゲートの森の入口。野生(?)のスノードロップが咲いてました

このウォーキングは、ヴィクトリア王朝時代から1950年代なかばまで存在していた鉄道の跡(Highgate駅からAlexandra Palace駅間)に沿って歩くというもの。リーダーの男性による説明の他、常連のメンバーによる詩の朗読も。ママ友たちとウォーキングが目的で参加したのですが、どちらかというと地区のスポットを巡るお散歩みたいな感じでした。

小高い丘になっているマズウエル・ヒル地区からはロンドン中心部が一望できます

これは桃の花? この上を列車が走っていたというアーチ

丘の上にあって陽当りのいいアレキサンドラ・パークではクロッカスと水仙が満開

   1875年に建てられAlly Pally(アリー・パリー)の愛称で親しまれるアレキサンドラ・パレスには、展示会場やスケートリンクがあります

公園ではスミレや名前不明の可愛い小花を発見

先週の木曜日が私の誕生日だったのですが、2月末生まれの友達と合同誕生祝いということで、テイトブリテン美術館に行ってきました。お目当てはデビッド・ホックニーの個展。

   私はホックニーの舞台美術が大好きなんですが、常に新たな挑戦をしてスタイルをどんどん変えているのがすごいです。個性的なフォルムと色彩の美しさが際立ってました

   先週ガーデンセンターで購入した水仙が咲きました! そして、昨年花が終わった後シェッドに置きっぱなしにしていたヒヤシンスの鉢から芽が出てました~!

抑制的気質とHSP(その1)

『緘黙児とHSP』のコメント欄で、恵子さんとやり取りをさせていただいたんですが、その中で私はHSPの概念をすっかり誤認していたことに気づきました。

私の頭の中で「ケイガンの抑制的な気質の子 = アーロンのHSC」という図ができあがっていたため、「ASD児の中にもHSPがいると思うと書いてしまったのですが、実際はASD児の中にも抑制的な気質の子がいると思う」でした。

でも、アーロン博士は『ひといちばい敏感な子 (Highly Sensitive Child)』の中で、HSCはASD児とは全く(そしてADHD児とも)異なると明言しています。その理由は、ASD児には共感性がないから。

ある方から、アーロン博士のHSPの概念を完結にまとめているブログがある、と教わりました。子どもの疲労と発達・睡眠について研究されているYukiさんの、『いつも空が見えるから』というブログです。子どもの発達に関する研究・書物を広範囲に渡って紹介・解説されていて、ひとつひとつの疾患や概念などに対し、概要&要点を理路整然と解りやすくまとめておられ、大変参考になります。

https://susumu-akashi.com/2016/10/hsp/#i

リンクフリーと書いてあるので、『ひといちばい敏感な子 (Highly Sensitive Child)』についてのページから、目次の一部と「HSPの4つの特徴」についてご紹介させていただきます(Yukiさん、お借りします)。(「日本語版に寄せて、2015年2月に書かれた最新の学術的情報を含む明快な解説が追加されており、その部分を特に参照して、HSPとは何かをまとめる助けにしました」とあります。私は日本語版を持っていないのでこれは知らなくて、本当に勉強になりました)。

HSPの4つの特徴> (目次から)

●上記の4つの特徴を持っていなければHSPではない、普通より感覚が敏感=HSPではない

●HSPの感受性の強さと、ASDの感覚過敏とは別のもの

「中には感覚器が特に発達している人もいますが、大半は、感覚器の反応が大きいのではなく、思考や感情のレベルが高いためにささいなことに気づくのです。(『ひといちばい敏感な子 (Highly Sensitive Child)』p432)

HSPの敏感さは、単に感覚刺激が強い過敏さではなく、深く処理する感受性の強さでした。そしてその中には、場の空気を読み取る力も含まれていました。それは共感力の強さです。

[HSPの感覚過敏は] 学術文献では「敏感性感覚処理 (sensory processing sensitivity)」と呼ばれています。第1章でも述べましたが、「感覚処理障害(sensory processing dosorder)」や「感覚統合障害(sensory integration disorder)」と混同しないでください。(p424)

*グリーンの部分は、全て『いつも空が見えるから』から引用させていただきました。

ASDの大きな特性のひとつは、場の空気を読むことや社会的コミュニケーションの困難さ。ASD児に感覚過敏が多いことは周知の通りですが、SM児やHSCにも感覚過敏を持つ子は多いようです。

なお、感覚過敏(反対に、感覚が鈍いと感覚鈍麻)は、発達障害がある子も、そうでない子も持ちうる特性です。

アーロン博士の考えでは、ASD児は感覚器の反応が過敏なのに対して、HSPの大半は感覚器自体が敏感なのではなく、「感覚に対する処理が深い=感受性が高い」ために、ささいな刺激を察知する――とのこと。

感覚過敏については、下記のサイトがとても参考になりました。

https://h-navi.jp/column/article/35025696

素朴な疑問なんですが――離乳食のころから好き嫌いが激しかったり、洋服のタグを嫌がったり、混雑する場所で大泣きしたり—まだ赤ちゃんのころから、既に「感覚に対する処理が深い」んでしょうか?脳はまだまだ発達段階ですよね?

私は息子をHSCだと思っています(巻頭のHSC診断で高スコア、4つの特徴も備えている…と思う)。感覚過敏に関しては小学校高学年くらいまでに随分改善しましたが、息子の場合は、感覚器官自体が過敏なように思います。

判りやすいところでは、皮膚の過敏さや聴覚の鋭さなど。

息子は生まれたときから乾燥+敏感肌で、アトピーやアレルギーに苦しみました。2歳の頃、同じ年の女の子と庭で一緒に水遊びさせた時のこと――4月の天気のいい日で、その子のママは「丈夫になるから」と上半身裸にさせたんです。で、うちも真似してみたら、みごと息子の背中はアセモだらけに!

そんな調子なので、洋服は常にコットン100%、襟のタグは小2くらいまで切ってました。それから、ものすごいネコ舌で、ちょっと熱いだけでとよく泣いてた記憶が…。

聴覚については、庭に置いてある猫よけ超音波の音が、16歳になった今でも聞こえます。20kHz以上の音波(超音波)は人間の耳には聞こえないと言われ、子どもの頃はある程度聞こえても、大人になると全く聞こえなくなるらしいんですが…。ちなみに、私と主人には全く聞こえません。

これって、やっぱり感覚器官そのものの敏感さではないでしょうか? ということは、息子は感覚統合障害なんでしょうか?(現在は、鈍感になったのか対処法を見つけたのか、感覚過敏で困ってることは殆どないようですが)

また、ASD児の感覚過敏とHSCの感覚過敏は本当に別のものなんでしょうか?明確に分けられるものなのか、それとも色々な状態が連続体のように複雑に重なり合っているのか?

私は高機能ASDのこども専門の特別支援校で日本語を教えています。小学部では感覚過敏のある子が目立ちますが、やはり成長するにつれて目立たなくなる傾向が強いよう。以前、小学部で研修していた時は、子どもたちの様々な感覚過敏・感覚鈍麻を間近に見ました。思ったのは、息子に比べると振り幅がすごく大きいなと…。

例えば、給食が全くといっていいほど食べられず、毎日スタッフと長時間格闘(それでも10分の1も食べられない)とか、防音対策でイヤーマフを活用とか…。最初は苦手だったけど、徐々に食べられるようになる、徐々に騒音に慣れる――というような感じではなかったです。

「ダメなものはダメ」と絶対受け付けず、それが高じてパニックになったり--とにかく反応が半端じゃなくて、耐忍度が低いというんでしょうか。なんとなく、同じように感覚器が過敏でも、それに対する感じ方・反応が大きいような???

すごく長くなってしまったので、次回に続きます。

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緘黙児とHSP

芽吹きの季節

毎日あっという間に時間が過ぎて、もう3月に入ってしまいました。イギリスでは2月中旬あたりから空気に春の兆しが感じられ、家々の庭先に早春の花が咲き始めています。2月はじめにはスノードロップのベル型の白い花、それから黄色と紫のクロッカス。いつの間にか淡いピンクの梅や早咲きの桜も花を開き、水仙の硬いつぼみも大きく膨らんでいます。

近所のお宅の前庭に咲いていた梅とマンサクの花。我が家のバラの木にも芽がいっぱい

春の訪れとともに、嬉しい知らせが。昨年秋から不登校気味で1月は一度も学校に来なかった生徒さんが、新たにできた6フォーム(6th Form 16 ~18歳の子が通う2年制の学校)の校舎に通うことになったというのです。

今までは、小学4年生から高校3年生くらいまでの子どもが、同じ校舎で学んでいました。30名と生徒数は少ないんですが、普通の家を改造・増築した建物なので、教室の配置が入り組んでいて、階段も狭く、いつも込み合っていて、窮屈な感じが否めませんでした。

彼はまだ14歳なので、6フォームに通うべき年齢ではないんですが、本人と学校の話し合いで「そこだったら通う」と決めたそう。

同級生や下級生のことを「ガキばっかり」「騒がしい」と称していたので(笑)、年上の子と一緒の方が落ち着くんでしょうね。今度の校舎は広々としていて、スタッフと共同で使える広いキッチンも。給食がないため、生徒がめいめい自分でランチを作るんだとか。即席スープやカップラーメンからサンドイッチ、パスタの材料までいっぱい揃えてあります。ライフスキルを身に着けるのに最適ですね。

しばらく休んでいたし、本当に登校できるのかなと心配だったんですが、彼は先週からちゃんと学校に来始めました。やった! お母さんもほっとしてると思います。

私の授業も再開した訳ですが、しばらく会っていないのに、照れた様子など全くなし。まるで何事もなかったように、ほんとうに普通なんです。こういうところが、やっぱりASDならではなのかな…。(でも、興味のある話題だったら、嬉しさを分かち合えるASD児もちゃんといます)。

「この学校はどう?」

「まあ、悪くない」

「家で退屈してなかった?」

「ううん、すごくハッピーだったよ。また学校に来なきゃいけなくなっちゃったけど」

彼は表情をあまり変えません。というか、表に出す感情の幅がすごく狭い…。一見しただけだと、「つまらなさそう」に見えます。でも、ボディランゲージや言葉から、今度の校舎や人間関係が気に入っていること、不安な状態ではないことが伝わってきました。彼の「悪くない」は「気に入った」なんですね。まあ、「嫌」だったら断固として動かないはずなので。

他の生徒と一緒の大教室でも、落ち着いて勉強しているのを見て大感激。年齢が上の子達はワーワー騒いだりしないし、先生達も静かに話すし。前の校舎と比べると、静かでゆったりとした雰囲気が気に入っているんだろうなと思います。

「サンドイッチ用のトマトを切らせたら、とんでもない切り方だったわよ」と、作業療法士が苦笑しながら教えてくれました。きっと家でもやったことがなかったんでしょう。でも、スタッフ全員が彼の復帰を心から歓迎しているのが伝わってきます。

このまま、問題なく学校生活を楽しめますように。

そうそう、昨日やっと屋根裏の工事のために組んだ足場が撤去されたので、久しぶりに近所のガーデンセンターに行ってきました。

 

早春の球根花と色とりどりのプリムラ

もう咲く寸前の水仙と葉が出てきたチューリップ

クリスマスローズの種類も豊富

こんな日時計が欲しいけど、うちの狭い庭では無理。プランターやかご類も充実してます

窓辺に飾る水仙と勿忘草を買いました

 

息子の緘黙・幼児期4~5歳  教室で動きません

その週の終り、担任といっしょにSENCO(特別支援コーディネ―ター)に会うことに。初めて会ったSENCOは(それまで存在すら知らなかった)、感じの良いフレンドリーな女性。カラフルなカーテンで仕切られたSENCOの部屋で、とてもリラックスした雰囲気のミーティングが行われました。

そこで息子の学校での様子が明らかになりました。なんと、ひとつのテーブルから動かず、言われた課題も全くやらないと。そして、全く言葉を発さないと

レセプションクラス(45歳)の教室には、複数の子どもが一緒に活動できる大きめのテーブルが4つ。数字や文字遊び、お絵かき、モデル作りなど、それぞれ異なる活動がセッティングされています。その他、変身コーナー(コスチュームがいっぱい)や木製のキッチンコーナー、PCコーナーなどが設けられ、教室の外には専用の小庭も。遊具もたくさんあって、水遊びや土遊びもできます。

この学年は小学校にあがるための準備コースのようなもので、遊びながら学ぶという方針。クラス全員がカーペットに座って、お話を聞いたり、アルファベットなどを学ぶ時間があり、毎日いくつかの課題をこなすことになっていました。

それなのに、一日中ほとんど動かず・しゃべらず、何もしていないらしいのです!そういえば、学校に行く途中までは結構おしゃべりなんですが、学校に近づくにつれて口数が少なくなり、ゲートを入ると話さなくなるような。それでも、放課後に教室から出てくると、私やT君ママとは普通に話し、T君といっしょに運動場で元気に遊んでました。

まずSENCOに訊かれたのは、息子の友人関係でした。幼稚園時代からの仲良しのT君がいると告げると、クラスが違うのにもかかわらず、なるべく授業中でも一緒に遊べるようにしましょうと。とにかく、小さいことでも何かできたら褒め、少しずつできるように支援するという対策が立てられました。

この頃、私はまだ小学校の制度にも、こういったミーティングにも慣れておらず、なにしろ初めてのことだらけ。息子がいつから動けなくなったのか、入学当時からずっと課題をやっていなかったのか、そして何が原因と思われるのか――重要なことを全く質問しませんでした

SENCOの口から場面緘黙という言葉は全く出ず。この時点で、すでに入学してから3週間以上が経っていました。もし最初から話してなかったのなら、担任はもっと前に警告してくれていたはずと思います(全く話さないのは、結構大きな問題なので)。だから、多分入学して2週間後に起こった滑り台事件が息子の緘黙のきっかけだったんじゃないか、と推測しています。

「どうかよろしくお願いします」と頭を下げ、複雑な思いで家に帰ったこの日。息子と私の、緘黙との戦いが始まったのでした。

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