ケント&東サセックス州のコテッジホリデー(その2)

翌日も晴天に恵まれ、まずは海辺に行くことにしました。いつも旅の計画は私が勝手に立てるので、今回も自分の趣味丸出し(家族は面倒なのか計画に加わることなく、黙って着いてきます)。ライの町を通り越して海辺を東に進むと、ダンジネスという砂利だらけの荒涼とした土地が広がり、イギリスらしからぬ風景。岬の先には、1904年に築かれた古い灯台とダンジネス原子力発電所があります。

左にあるのが旧灯台、右の灰色の建物群が原子力発電所です

でも、私の目的は灯台ではなく、70~90年代前半に活躍したイギリスの映画監督、デレク・ジャーマン (1942-1994)が住んでいたプロスペクト・コテッジ(Prospect Cottage)。ゲイであることを公言していた彼は1986年にHIVに罹患し、このコテッジに移り住みました。Prospect(期待・見込み)という名前は自分でつけたのか、それとも元からだったのか…。

黒く塗られた木造のコテッジの傍らに、朽ちかけたボートが無造作に置かれて

不治の病を抱えたデレク・ジャーマンがここで綴った日記『Modern Nature』を90年代に読んんで、その文章と写真の庭がとても心に残っていたのです。原子力発電所のある荒涼とした土地は「イギリスで一番太陽が当たるところ」であり、沈黙の中に風の音と鳥の鳴き声、漁師のボートの音が聞こえる場所。「水平線が境界」という庭に出て、花や植物、自然から季節を感じ、石や鉄の棒、海辺で見つけた流木・漂流物でオブジェを創る喜びが綴られていました。

辛い治療を受けながら創作活動を続け、恋人や友人たちに支えられてここで最期の静かな暮らしを営んでいたんだなと感慨深かったです。映画の衝撃的・退廃的なイメージとは裏腹に、静かで彼らしい最期というか…。現在の住居に迷惑がかからないように、舗装されていない道から写真をパチリパチリ。流木を立ててカニの鋏や貝殻などを乗せたオブジェや石を並べたサークルはどこ?彼が大切にしていた植物やオブジェは、残念ながらそれほど手入れされていないような…。

目立って何もない風景の中をぶらぶら散歩して車まで戻ると、コテッジの前には複数の巡礼さん(観光客?)が。カナダから来たカップルに彼のお墓が近くにあると教えられ、行ってみることに。すぐ近くだと思っていたら、そうでもなく――ただOld Romneyという地名が頼りだったので不安でしたが、教会に到着しました!

主人と一緒に墓標を探したのですが見つからず。諦めかけて帰ろうかと思った時、お墓地に来た女性に尋ねたら、確かにここだとのこと。もう一度ひとりで探してみたら、ありました~!

 

51歳の若さで亡くなったデレク・ジャーマンの墓標

お墓参りができてほっとした後は、ライに帰る途中にあるカンバーサンドの海岸へ。イギリスでは珍しく砂浜と砂丘があるビーチです。ダンジネスに近い側だったためか、いい天気なのにそれほど人がいませんでした。裸足になって砂浜を歩いてみたら、波型がついた砂は予想外に固くてちょっと不思議な感覚。

ランチはライにあるシーフードレストラン、グローブインマーシュで。エビとイワシとイカフライのプレートで海の幸を堪能しました。

お腹がいっぱいになった後は、町を少し見てからライハーバーの自然保護地区でお散歩。晴天のもと海に向かって沼地帯の中に造られた道を歩いたのですが、水がキラキラ光ってきれいでした。

     海岸近くには第1次世界大戦で使ったバンカーが。こんな風に海から上陸してくる敵を狙って銃を構えたかと思うとシュールですね..。

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ケント&東サセックス州のコテッジホリデー(その1)

ケント&東サセックス州のコテッジホリデー(その1)

お久しぶりです。先週頭から仕事が入って忙しくなってしまい、なかなか更新できませんでした。ふと気づくともう8月も終わり…今年の夏も残すところあと僅かですね。

今年の夏休みは、8月12日からの1週間をイングランド南東部にあるケント&東サセックス州で過ごしました。歴史ある小さな港町、ライの近くの村にコテッジを借り、海岸沿いの町や海辺を訪れたり、庭巡りをしたり。ずっと冷夏が続いていましたが、奇跡的にも快晴の日に多く恵まれて、つかの間の夏を楽しむことができました。

ロンドンからライまでは2時間ほどですが、まず最初に訪れたのはブライトンにほど近いルイスという町の東ばずれにあるファームハウス、チャールストン Charleston。ここは20世紀初頭にロンドンのブルームズベリー地区に集まった文化人や芸術家のサークル、「ブルームズベリーブループ」の主力メンバーだったヴァネッサ・ベルが1916年に移り住んだ田舎家です。

途中で道が渋滞して、私たち家族が着いた時にはすでにハウスツアーが始まっていました。知識豊富なボランティアさんが、10人くらいのグループを連れて、各部屋や住人たちの説明をしてくれるのです。

インテリアデザイナーとしても知られる画家のヴァネッサは、作家ヴァージニア・ウルフの姉。この姉妹が住んでいたブルームズベリーに、美術評論家のクライブ・ベルなど主にケンブリッジ大学の仲間たちが集っていたのです。その中には作家のEMフォスターや経済学者のケインズなども。

ポスト印象派後のモダニズムを追求し、19世紀の古い道徳観念から逃れようとした彼らの人間関係は、複雑にもつれ合うもの。男女の愛人を持つことが当たり前のオープンマリッジ――夫婦関係や恋愛関係が壊れても、仲間であり続けたのがすごい。LGBTの権利が叫ばれる現代より進んでたかも。

チャールストンでヴァネッサと2人の息子と同居したのは、夫のクライブ・ベルではなく(彼は新たな恋人と同棲中)、画家のダンカン・グラントと その恋人のデヴィッド・ガーネットでした。この男同士のカップルは、農場の仕事をするという名目で兵役を拒否してここに引っ越してきたんだとか…。後に、ヴァネッサはダンカンと恋に落ちて娘をもうけ、その娘が成人した時デヴィッドと結婚したそう。う~ん。

ヴァージニア・ウルフ夫妻など、グループのメンバーや友人達がロンドンから頻繁に訪れ、経済学者のケインズに至っては、ここで『平和の経済的帰結』を執筆しました。ロンドン暮らしに疲れたら週末にやってきて、英気を養う拠点となっていたんですね。

(館内の写真撮影は禁止。これは窓から中を写したものです)

話を戻すと、インテリアデザイナーと画家の隠れ家的な田舎家は、家具だけでなく、壁、窓、暖炉の周辺など至る所に絵や模様が描かれ、家全体がキャンバスという感じ。グレーやくすんだ青など、ちょっと懶い感じの色調や20年代風のデザインが素敵でした。ヴァネッサが1961年に亡くなるまで絵を描き続けたアトリエも。画家ロジャー・フライが手がけたという庭も、絵を描いたような自由でワイルドな趣きでした。

実は、車を降りた途端に田舎の匂い(牛の糞の)が鼻をついたのに、人間の慣れって怖いものですね。見学後は全く気にならず、カフェの中庭でランチを楽しみました。

 

すごいボリュームでびっくり

コテッジに向かう途中、ヘイルシャムという町にあるお堀に囲まれた中世の修道院、ミチェルハム(Michelham Priory)に寄りました。修道院といっても、教会は地域民を統制する立場にあり、修道僧達は外で活動していたとのこと。戦争や地域民が反乱した時に備えて、修道院なのに堀を巡らせて見張り塔までつけたんですね。とにかく庭が広すぎて、とても全部は回れませんでした。

チューダー王朝時代には権力者のカントリーハウスだったそう

まだまだ明るいうちにBeckley村のコテッジに辿り着きました。18世紀ころ建てられたものらしく、ドアの鴨居が低くて私でも頭をぶつけそうなほど(当時のイギリス人はかなり小柄だったんですね)。よく見ると、天井は古い梁は補強され、床板は新たに入れたものでした。私たちが借りたコテッジは左側。お隣さんとゲート前の小路をシェア

左から居間とキッチン、そして2階へと上がる急な梯子段

ベッドルーム2つとかなり狭いバスルーム

でも、マリーンをテーマにした青と白の爽やかな内装に、「いい感じ」と喜んでいた初日から事故が勃発。ゆっくりお風呂につかり、シャワーを浴びて出ようと思ったんですね。シャワーの位置が高かったので、調整しようと思って下に押したら、何とシャワーレールごとタイルの壁からお湯に落下!

「え〜っ、そんなあ」と泣きそうになって家族に訴えたら、うちの男子2人は冷たくて…。息子は私が何か失敗したんだろうと「マミ〜」と顔をしかめ、夫は「見せてみろ」と2階へ。

「これ、スクリューを緩めてから高さを調整するんだよ」と言われ、よく見たらその通りでした。でも、そんなに力を入れてないのに、いきなり壁から落ちますか?! 旅行保険が効くかどうか--トホホ…。

    この急な階段から転げ落ちないよう、毎回気を使いました

 

 

 

息子の緘黙・幼児期4~5歳(その12)ダイニングルームで耳ふさぎ?

久しぶりに息子の緘黙記に戻ります。なかなか前に進まなくてすいません。

学校の資料に書いてあったSchool Nurse(学校看護師?養護教諭?)に相談しようと思い、お迎えの時に担任に問い合わせました。すると、School Nurseは週に数日しか出勤していないとのこと。それから何気なく、「○○君は今日ダイニングルームで耳をふさいでました」と言われたのです。

一瞬「は?」と思いました。それまで息子が耳をふさぐ姿なんて見たことがなかったからです。

イギリスの小学校では、大きなダイニングルームに複数の学年が集まって給食やお弁当を一緒に食べます。クラス毎に固まって大テーブルに並ぶのですが、人数が多いのでかなり賑やか。でも、それまではランチタイムのことは何も言われたことがありませんでした。

「耳をふさいでいた」というのがとても気になり、ネットで調べてみたところ、ヒットしたのは「自閉症」。恥ずかしながら、当時の私は自閉症の知識はほとんどありませんでした(当時は、まだASDという呼び方もしてなかったと思います)。

息子は物心ついた頃から車・電車オタクで、特に2歳後半~幼稚園に入るまで仲良しだった日本人の男の子とは、いつも道路や線路などを組み合わせてマニアックな模型遊びを楽しんでました。二人とも腹ばいになって、「あーっ、僕のホンダが中央線にぶつかる」「ストップ、ストップ」などと、自分たちでストーリーを作りながら車や電車を走らせるのです。

ある日、その子のママが「自閉症の子って、車輪が回るのを見てるのが好きなんだって。うちも車輪を見てるから、昔ママ友と『もしかしてうちの子も』って疑ったことがあるの」と思い出話をポツリ。その時に初めて自閉症という言葉を意識したのでした…。

でも、彼女の説によれば、「この子達は、車輪も含めて車が走行しているところを見てるんだよね。自閉症の子は車輪だけを延々と回すらしいの。それに、行き先とか次に何が起こるか想像しながら物語を作ってるでしょ?これってごっこ遊びの一種なんだって」とのこと。

その時は、「ふーん、そうなんだ」と思ったきり…。ごっこ遊びをしない、指差しをしない――息子はそうではなかったし、検診でも引っかからなかったため、他人事のように考えてたんですね。

なので、ネットサーチで「自閉症」をヒットした時には、「えええっ?!」という感じで驚きました。

2005年当時はまだPCとモデムを繋げ、電話回線を使ってインターネットをしていた時代。スピードもとても遅かったのですが、ここから私のネット徘徊が始まりました。最初のうちは、毎日、毎日、自閉症の解説とか、保護者の方のブログを読んでいたのです。

その世界はとても奥が深く、同じ自閉症といっても人によって全く違っていて、症状にも大きな差があることを初めて知りました。衝撃的でした。

自閉症の3つの特徴は

  1. 社会性と対人関係の障害
  2. コミュニケーションや言葉の発達の遅れ
  3. 行動と興味の偏り

息子の場合、集団や慣れない場所だと引っ込み思案になるのですが、慣れた人と1対1だったら問題はありません。大人に甘えるのが結構上手で、1歳になる前から常に友達がいて、仲良く遊ぶことができてました。なので、1と2はクリアしてるのかなと思いました。が、頑固なところがあり、こだわりはかなり強い方。さらに、自閉症児に多い感覚過敏もありました。

ブログ巡りをしているうちに、言葉の遅れはないので、もしそうだとしたらアスペルガー症候群なんだろうなということが解ってきました。でも、「こだわり」については似てる部分もあるのですが、パニックになったことは一度もないし…。

悶々としているうちに、学校でやっとSchool Nurseに会うことができました。「もしかしたらアスペルガーかもしれないんです。どうしたらいいでしょう?」と訊いたところ、小児クリニックに紹介してくれることに。

たしか、3月頭に申し込んでくれて、実際の診察まで3ヶ月以上待たなければなりませんでした。

その間も、私のネットでの探求は夜な夜な続いたのでした…。

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不安のメカニズム(その4)

不安のメカニズム』は(その3)で終了したつもりだったんですが、思い出したことがあるので追記します。

前回、私の小学校時代の思い出として、授業中に挙手する時の心境を書きました。手を挙げている間は、当たったらどう言うかを頭の中で何度も繰り返してました。が、いざ当てられると極度にアガってしまい、回答だけをぶっきらぼうに述べることに…。頭のなかで用意していたことの半分も言えませんでした。

こういった体験は授業中だけではなく、普段でもあったように記憶しています。特別親しい場合を除き、3人以上のグループで何かを話す時、「間違えてはいけない」と緊張してしまうんです。基本的にはおしゃべりなので、仲良しの子と1対1だったら、ただ思いついたことをベラベラしゃべるんですが…。

そして、調子に乗ってくると活舌が良くなり、徐々に声のトーンが高くなって、知らないうちに大きな声になってるという。(そういえば、緘黙を克服しつつあった息子が、全校集会中に友達と無駄話をしていて注意されたことが何回かありました。きっと話す音量が調整できてなかったんでしょう)

一方、授業中に発表しなければならない時は、大きな声で話しているつもりなのに、「もっと聞こえる声で」とよく言われたものです。小学校時代の私の印象は、多分「おとなしくて声が小さい子」だったのではないかと…。

普段、私たちは周りの状況に合わせて無意識のうちに声の音量を調整していると思うんですが、不安になったり、緊張したり、興奮したりすると、調整がうまくいかなくなります。また、「聞こえる音量」も心理状況によって変わってくるんじゃないでしょうか?

例えば、テストをしている時、いつもは気にならない時計の音がやけに大きく聞こえたという経験はありませんか?神経を使ったり、緊張している時は、周囲の音が大きく聞こえるものです。

学校でずっと沈黙している緘黙児の耳には、先生の声や友達の声、教室のざわめきがどんな風に聞こえてるんでしょう? 聴覚過敏があれば、音が気になって普段より疲れるはず。抑制的な気質が強いと、「心配症」や「取り越し苦労」の傾向が強くなるので、色々思い巡らせてどどっと疲れるのでは?

だからこそ、自宅では自由にのびのびと過ごさせたいですよね。

抑制的な気質の緘黙児にとって、家の外=社会は「神経が高ぶる」場所です。エレイン・アーロン博士の『ささいなことにもすぐ動揺してしまうあなたへ』には、HSP(とても敏感な人)には、「神経の高ぶり」を収める時間の必要性が説かれています。引きこもりにならない程度に、「毎日ひとりになる時間をつくる」ことを勧めています。多分、普通の人より長く「自分でいられる時間」が必要なんだと思います。

子どもが自分の部屋に閉じこもってしまうと親は心配です。でも部屋に閉じこもったり、ぼーっとしたり、PCゲームに没頭したり、TVや動画に見入ってる時間が、実は子どもにとって「ほっとできる時間」なのかもしれません。私にとっては、それが少女漫画や本だったように思います。つい没頭しすぎて、宿題やお手伝いの時間を忘れ、父に叱られた思い出が…。

子どもによって「自分でいられる時間」が違うと思いますが、そういった時間を適度に許可してあげることが重要かなと思います。また、あまり長時間自分にこもってしまうと、外に出て人と関わる気持ちが薄れたり、社交が不安になるかもしれないので、なるべく社会的な時間とのバランスが取れるよう注意したいですね。

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