まったりクリスマスイヴ

昨日主人の実家に着き、まったり静かな時間を過ごしています。居間の水漏れも思ったほど酷くなく、家具や本を動かしたのは部屋の半分ほど。天井に穴を開けて、専用の乾燥機で24時間乾かしている状態なのですが、工事中の我が家と比べたら全然マシ。平和です。

イヴの朝の風景

偶然にも、義母もローリエの木をクリスマスツリーにしていました!(残念ながらiPadで写真の編集ができないので、お見せできません)。

居間はこんな感じです

一昨日、クリスマス休みに入った息子を誘って、久しぶりにテートブリテン美術館に行ってきました。目的は2016年のターナー賞の展示会。この賞はイギリスを拠点に活躍する50歳以下のアーティストを対象にしていて、現在のモダンアートの動向をうかがうことができます。

テムズ河南岸にあるテートブリテン美術館

入口のホールには、逆さまに飾られたクリスマスツリーが

今年のターナー賞候補に選ばれたのは女性3名、男性1名。賞を手にしたのは、ロンドン在住のアーティスト、ヘレン・マーテンさん(31歳)でした。

スクリーンプリントや彫刻に、何気ない日用品や毎日の暮らしの中で見つけた珍しいアイテム、ハンドメイドの手芸品やオブジェなどを組み合わせたインスタレーション作品は、どこか懐かしさが感じられました。

      最も話題をさらったのは、アンテア・ハミルトンさんのこの作品”Project for a Door”。

同じくアンテアさんによる、煉瓦のスーツと午後3時のロンドンの空

マイケル・ディーンさんの作品”The Work”。イギリスで大人2人と子ども2人が1年間暮らすのに最低必要な生活費は、20,436ポンド(約307万円)。この金額を全て1ペンス硬貨で作品に使い、最後に1ペンス(約1・5円)を取り除いたんだそう。4人家族の貧困の風景?

地下鉄までの帰り道は、ちょうど黄昏時でした。冬至を過ぎたばかりなので、これからは少しずつ日が長くなりますね。

テムズ河沿いの風景

ハンドメイドジュエリー店とパブのクリスマス飾り

明日のクリスマスは、世界中平和な1日となりますように。

明日はイヴですね

イギリスではクリスマスが1年最大のイベント。今年は12月24日から27日までがクリスマスの祭日です。日本でも忘年会シーズンだと思うのですが、イギリスでも12月はクリスマスディナーやパーティで盛りあがります。職場や所属するグループ、友人同士など、大規模なクリスマスイベントも多く、パブやレストランは大盛況。

私も先週学校のクリスマスパーティーに参加してきました。人気のパブでクリスマスディナー&ディスコ大会だったのですが、18ポンド(約2600円)の参加料で、3コースディナー+食前のシャンペン、そしてワイン(私は飲めないのでノンアルコール・カクテルを2杯)。食後にはコーヒーとミンスパイも付き、学校側がかなり負担してくれたよう。

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パブのクリスマス飾りとメインのラム肉&マッシュポテト

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帰りのバス停で見上げた空

でも、我が家は下の写真のような状態になっていて、クリスマスの雰囲気とはほど遠く…。外もスゴイですが、家の中(玄関から屋根裏への通り道)もスゴイんです。

  img_20161220_110340仕事を総括するプロジェクトマネージャーは人当たりがよくしっかりしてるんですが、実際に仕事を行うチームはまだ若いイギリス人のお兄さん達。これまで、キッチンの改装は熟練したイギリス人大工さん、部屋の増築はインド系チーム、庭はポーランド人の造園チームと様々だったんですが、若いイギリス人のチームは初めて。

冬季で日が短いためか、彼らは毎朝7時半くらいにやってきます。そして、なかなかよく働いているよう。が、ガサツというか、配慮に欠けてるというか…。大音量でラジオをかけて歌うし、どうも人の家という意識が抜けているような。

たとえば、「あっ、新品の階段が届いてる」と思って見たら、既に黒い足跡がいっぱい!通り道におかずに他の場所に置いておけばいいのに…。工事の始めにバスルームの天井が壊れかけ、古い漆喰が床にパラパラ落ちてくる状態。その上をそのまま歩くものだから、床は傷だらけ、バスタブの中には毎日土埃が。そして、洗面台は汚れ放題、タオルには毎日真っ黒な手の跡がクッキリ、シャワーカーテンも埃だらけ。

どういう訳か、全部家の中で作業をしてるんですよね…。屋根を取り壊して骨組みだけにした時点で、家中土埃や粉塵だらけになった訳ですが、その後片付けをしっかりしないまま、次の作業へと移るわけです。どうせ汚れてるから、最後に片付ければいいやということなのかな?まあ、一日の終りには一応業務用のでっかい掃除機をかけて帰るんですが…。

でも、真ん中の目立つところだけ掃除してるだけなんですよね…。床は常に粉塵だらけだから靴も汚れるし、手も真っ黒なので、新しく買ったものが取り付ける前にもう汚れてるという…悲しい。職人としての自覚はないのでしょうか?

私は彼らが帰った後、毎日マスクをかけて怒りながら掃除をしています。でないと、2階のバスルームは使えないという…。昨日は天井に漆喰を塗る作業をしていたようですが、最高に汚れてました!何故床がこんなになっちゃうのか?! 

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粉塵を吸い込みすぎたためか、ついにうちの掃除機が途中でダウン! 仕方ないので、途中から手動でやりました~。

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でもって、明日がクリスマスイヴなので、今日の午後主人の実家に行く予定です。あ~、やっと寛げる! と思っていたのですが、なんと先週2階のバスルームから水漏れして、リビングの天井が水浸しに…。現在、家具や書籍を全部移動して、大きなドライヤーで部屋を乾燥してる状態だそう。

でも、昨年増築したガーデンルームが使えるので、それほど悲観することはないかも…。

工事が始まって以来、週末に大量の洗濯をして除湿機で乾かさねばならず、今年はクリスマスツリーを飾るスペースがありません。でも、ツリーなしではあまりにも淋しいので、小さなローリエの鉢植で代用しています(今後、料理に使えるし)。

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それでは、みなさん素敵なクリスマスをお過ごしください。

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      一応、ドアにもクリスマスリースを飾りました

 

 

 

息子の緘黙・幼児期4〜5歳  もっと重症の子?!

あっという間に、クリスマスが目前に迫ってきました。仕事をしている特別支援校は既にクリスマス休みに入ったのですが、うちの屋根裏大改装工事はまだまだ続きます~。また間が空いてしまいましたが、息子の緘黙話しの続きです。

1月も半ばを過ぎて、いよいよ息子の入学の日がやってきました。といっても、記念になるような儀式は何もなく、私は付き添って教室に入っただけ。

それも、授業が始まって30分ほど経ってから。

子どもたちが朝の挨拶を終えて自由遊びの時間に入ってから、担任が受付まで迎えに来てくれました。息子の手を引いてイザ教室へ。私も後ろから付き添いましたが、新入生というよりは、転校生みたいな感じ。

教室ではみんなそれぞれ好き勝手に遊んでいて、幼稚園とさほど変わらない雰囲気。子どもたちに息子を紹介することもなく、みんなが遊んでいる中に自然に溶け込ませるという方法のようでした。

周りを見回すと、やっぱり8月生まれの息子はちっちゃい。体格だけでなく、みんな振るまいも言葉もしっかりしているような…。先生の隣で小さくなっている息子が、すご~く幼く見えました。

センターパークでのダンマリ事件があったので、担任に「引っ込み思案なので、最初は喋らないかもしれません。どうぞよろしくお願いします」と念をおしました。

すると、担任は「大丈夫、もっと重症の子がいるから」とニヤリと笑うと、ある男の子の方に私の注意を向けたのです!

「もっと重症???」

よく見てみたら、なんとその子はベソをかいていました!

なんか見たことがある顔だなと思ったら、同じ幼稚園で別のクラスにいた子でした。子育て相談会に参加した際、個別相談で彼のお母さんが私の前に並んでいて、かなり待たされた記憶が。その場に彼もいたのです(お母さんがヘッドスカーフを被っていたので、イスラム教徒の家族かな)。

担任は「泣くのは君じゃないでしょ?もう9月からずっとこのクラスにいるんだから。ほら、泣かないの!」と朗らかに言い、その子の肩を優しくポンポン。

「???」 

謎だらけでしたが、息子はなんとか泣かずに、先生に連れて行かれたテーブルに座って遊び始めました。そこで私の役目はおしまい。ファミリールームで待機することも可能でしたが、大丈夫そうだったので家に戻ることに。

まあ最初の1週間は学校に慣れるために午前中のみの登校なので、それくらいだったら持つだろうと思ったのでした。

12時半ころに迎えに行くと、担任に連れられて教室から出てきた息子は、以外に平気そうな顔。でも、帰り道で「ポツン」とこう言ったのです。

「僕の英語、みんなみたいに上手くない…」

それを聞いて、私は愕然としてしまいました。そんなに気にしてたんだ~。

それまで、家の外では英語ばかりだから、英語は教えなくても自然に出来るようになるだろうとタカをくくっていたのです。当時、息子は75%くらい日本語を使っていましたが、英語力もそれなりについてきてました。なので、英語力について気にしてるなんてちっとも考えてなかったのです(というか、親友が日本人だったので本人も気にしてなかったんでしょう)。

(息子の新しいクラスには外国人が多く、渡英したばかりで全く英語ができない子も数人いたのです。だから、息子が一番できないという訳ではありませんでした。でも、その子達のほうが堂々と振るまってたような…)。

入学初日にそんな不安の声を聞き、息子に自信をつけさせるため、家庭でも英語で会話することに方向転換を図ったのでした。

ちなみに、イギリス人の夫は日本語科出身なので、日本語が話せます。息子が生まれた時、「バイリンガルにしたいから、あなたは絶対に英語で話してよ」と約束させました。が、私の願いも虚しく、日本語のほうが上達している息子にあわせて、ずーっとちょっと変な日本語で話し続けていたのです。

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息子の緘黙・幼児期(4~5歳)プール恐怖症になる

すでに今年も1ヶ月を切ってしまいました。息子の緘黙話の続きです。

イギリスの小学校では、毎年の家庭訪問というのはありません。就学前に担任とTAが家を訪問し、子どもに会って性格や家庭環境をチェックするのみ。小学校1年生(5~6歳)の前にあるレセプションクラス(4~5歳)が始まる前に、たった一度きりなのです。

イギリスでは9月から新学期が始まりますが、息子の小学校では早生まれの子どもたちは時期を遅らせて、1月に入学させるという方針。1週間に数人ずつ入れていく方法だったので、8月生れでクラスでも一番若い息子の入学は1月下旬となりました。

9月に入学した子どもたちは、もうその頃には友達関係ができあがっているはず。それに、先に入学した早生まれの子たちも、息子より早くクラスに馴染んで友達ができちゃってるかも…。そんな中に入っていけるのかな?

引っ込み思案の息子には不利なシステムだなと思ったのですが、仕方ありません。まあ、この年齢の子どもを見ると、6ヶ月違うだけで心身ともに成長が随分違うというのは解るんですが…。

1月初めに家庭訪問があり、私が若い女性の担任と話している間、ベテランのTAが息子と遊んでくれました。息子はいつものように好きな玩具で遊びながら、TAの声掛けに英語で受け答えていたと記憶してます。その間、私は息子が引っ込み思案なうえ、幼稚園の親友と離れ離れになってしまうので不安だということを担任に伝えたのでした。

息子の入学がまだまだ先だったので、家庭訪問の後にセンターパークというファミリー用のホリデーパークへ行くことに。学校が休みではない時期、しかも週中だったので格安でした。

森のなかにあるこのホリデーパークは、室内プールや室内スポーツ設備、映画館や各種レストランなどを備える大規模な複合施設。少し離れたところに宿泊用のバンガローが建ち並び、日用品を販売するショップも。野外にはサイクリングやアスレチックコースもあり、子どものためのイベントやクラスもたくさん準備されているのです。

小学校で全く新しいクラスに入る息子が、知らない子と一緒に活動できるチャンス--とも思ったのです。

到着してまず最初に行ったのは、広大な室内プール。5種類ほどの異なるプールがあったのですが、人影はまばら。慣れるまで時間がかかるだろうなと思っていた息子は、以外にも最初から大はしゃぎでした(この時点では全く泳げませんでした)。

2日目もプールに行きたがり、午前中はご機嫌でプール巡り。野外に造られた温泉風のプールが気に入り、アームバンドを付けて水遊びを楽しみました。この日の午後、初めて息子をクラフトのクラスに送り込み、私たちはコーヒータイム。で、2時間後に迎えに行くと、係の人が「ずっと何もしゃべりませんでした。こんな子初めて」と…。

一瞬ドキっとしましたが、クラスで作った紙細工は持ってたし、私たちには普段と全く変わらない態度。幼稚園時代のように片言は話してたのか、それとも一言も話さなかったのか--今思えば、この時が初めての緘黙症状だったのかもしれません。

バンガローに戻ってから色々訊き出そうとしたものの、クラフトの時間のことについては話そうとしませんでした。家にいる時や親と一緒の時は全く普通にしゃべるので、保護者は子どもの緘黙に気づきにくいと思います。

そして翌朝、再びプールへ。この日もまた楽しそうに水遊びに興じ、何と主人の誘いに乗って特大の滑り台に挑戦することに。私は高いところから滑り降りるのが恐いので、隣のプールで見学。すごい勢いで滑り降りてくる二人の姿を眺めていました。

主人に抱っこされて降りてくる息子は、結構楽しそうだったんです。が、水の中に飛び込んでから、しばらく上がってこない…。結構深いプールだったんですね。主人の焦っている様子がうかがえ、やっと息子の頭が出たと思いきや、すごい泣き顔!

フルスピードで水中に落ちたので、主人の手から離れちゃったんだそう――溺れはしませんでしたが、めっちゃ恐い思いをしたようです。で、それからは、絶対に水に入ろうとしません。私が抱っこして入れようとしたら、顔と体がひきつってました…。

「大丈夫、大丈夫」となだめても全然ダメ。公園で複数の犬に追いかけられてから犬恐怖症になったのですが、今度はプール恐怖症になってしまったのでした。

(すぐには恐怖症になってしまったことは判らなかったんですが、後にプールに連れていってみたら水に入るのを拒否…。息子の小学校には珍しく温水プールがあり、1年生から水泳の授業があるため、あちゃ~という感じでした)。

どんな子でも恐い思いをすることはあると思いますが、こんなに簡単に恐怖症になってしまうなんて。やっぱり抑制的な気質が関係してるんでしょうね。

小学校で新しいクラスや授業に馴染めるように、という親心が仇になって返ってきたエピソードでした。

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北風と太陽

ロンドンは例年になく秋晴れの日が続いていましたが、11月に入ってからは雨や曇の日ばかり…。そんな中、うちでは屋根裏の改装工事をすることになり、屋根裏に溜めてあったものを貸倉庫へと大移動。先週から本格的に工事が始まりました。

2003年に引っ越してきた時、屋根裏にはもう部屋があったんです。でも、それは素人がDIYで改築したもの。断熱材も入れてないので、夏は暑く、冬はものすご~く寒い…。現在の規定だと違反の部分がいっぱいあるんだそう。今までは、主人の事務所&ドラムの練習室、そして物置き&室内物干し場となってました。

実は、来年の春に着工予定だったのに、改装業社からいきなり「空きが出たから始める」と言われ、主人がOKしちゃったんですよね…。その主人は3週間前にヘルニアの手術をしたため、重いものが持てず、運転も1ヶ月はお預け。仕方なく、息子を連れて何度も近くの貸倉庫を往復し、やっと屋根裏をカラにしたんです。

不要なものをなんでも突っ込んでおいたので、イザ移動となると驚くほどの量!本や雑誌、息子の小学校時代のノートや絵など、過去に整理しておくべきだったものが山ほどありました。でも、私は昔から整理整頓が苦手で…。

ところで、本棚を整理していたら、息子が小さい時の記録ノートを発見。ページをパラパラめくっていたら、昔の記憶がドドっと蘇ってきました。

今はほとんど気にならなくなりましたが、息子が小さい頃は感覚過敏に悩まされたものです。小学校低学年までは服についているタグが苦手で、全部切ってました。首の後ろを気にするので見てみると、擦れて皮膚が赤くなってるという…。襟付きの服を嫌がるため、コットン100%のTシャツっぽいものばかりという時期が続きました。

でも、ジュニアスクール(小3~6年)の制服がポロシャツだったんです。どうしようかと悩んだんですが、着せてみたらスンナリOK。セカンダリー(12歳~16歳)に進むと、毎日カッターシャツにネクタイ姿で登校するように。襟付きを拒否していたあの日々は一体何だったのか…という感じでした。

記録ノートで鮮明に思い出したのは、息子が2歳8ヶ月の春、いつものように近くの公園に行った時の出来事。晴天のいつになく暖かい日で、周りの子どもはみんな上着なしで遊んでました。さすがに暑くなってきて、息子の上着を脱がせようとしたら、嫌がって断固拒否!

うっすらと汗を浮かべながらも、絶対に脱ごうとしないのです。今考えれば、自分で脱ぎたくなるまで放っておけば良かったんですが、なにせ新米ママのこと。「○○君、暑くないの?」とママ友にも指摘され、周りの目が気になってしまい、何度も「脱ぎなさい!」とガミガミ言ってしまいました。

でも、言えば言うほど、意固地になって脱ごうとしないんですよね…。明るいパステルカラーの軽装の子どもたちの中で、息子だけ赤い顔をしながらも濃紺のジャケットを着たまま。私のほうが自意識過剰になって、「穴があったら入りたい」という心境になってしまったのでした。

今考えれば、脱ぐのがなんとなく嫌だった(不安だった)んでしょう。息子にとって、その時の上着は『スヌーピー』に出てくるライナスの毛布みたいなものだったんだと思います――自分を守ってくれる大事なもの、着てると安心できるもの。安定剤のようなものだったのかな。

『北風と太陽』のように、無理やり旅人の外套を脱がすのでなく、あたたかな陽射しで照らし続けて、自分から脱ごうと思えるまで待つのがベストなんでしょうね。子どもの気持ちに寄り添いながら、とにかく忍耐忍耐。

場面緘黙の治療も、これに似ているような気がします。待っているだけでは何も進展がないから、太陽の光で少しずつ少しずつ温めて、少しずつ少しずつ勇気を出せるようにしていく。他の子と比べないよう根気強く気長に、がポイントでしょうか。

そういえば、私の姪っ子は感覚過敏はありませんでしたが、赤ちゃん時代から偏愛(?!)しているヌイグルミがありました。いつでも、どこでもそのヌイグルミと一緒。それがないと眠れない、ないと泣きながら探して回る、という時期が結構大きくなるまで続いたような…。

義妹は同じものを複数個買い込んで使いまわしてました。が、2年位でモデルチェンジして購入不可に。何度も洗濯しているうちに布は擦り切れ、さすがに最後はボロボロ。「その汚い布切れは何?」というまで使い込んでました(笑)。

そんな姪っ子もいつの間にか、そのヌイグルミを卒業し、ものすごい偏食もあったんですが治ってきた模様。他にも、いつまでたってもオシャブリが手放せない子や、哺乳瓶が手放せない子なんかもいますよね。

程度の違いさえあれ、みんなそれぞれ色々あります。後から振り返って、「あの時は大変だった」と早く言えるようになるといいですね。

ところで、工事が始まって1週間の間に、屋根裏の下のバスルーム、息子の部屋、私たちの部屋の天井にヒビが入り、家の中は毎日埃だらけ…。今屋根がない状態で、土曜の夜の嵐の後、息子の部屋の天井のヒビから雨漏りが…。クリスマス、お正月をまたいでの工事となるんですが、早く普通の生活に戻りたいと願うばかりです。

 

息子の緘黙・幼児期(4〜5歳)  ひとりだけ違うクラス?!

息子の緘黙記の続きです。

幼稚園では非常に引っ込み思案で、特に大人に対して言葉が少ない息子は(大人の見てないところで親友とは普通に話してました)、1学年3クラスある小学校(イギリスでは大規模)に、すんなり適応できるんだろうか?

心配になった私は、小学校の校長に手紙を書き「ものすごく引っ込み思案な子なので、M君と同じクラスにして下さい」とお願いしました。仲良し同士はたいてい同じクラスにしてくれると聞いていたものの、念には念を押したつもりでした。

が、入学体験日に発表されたクラス分けを見てビックリ!なんと、幼稚園のクラスから、息子だけが違うクラスに入ることに。ガーン、何故だぁ!

他の10人は全員同じクラスなのに、息子だけひとりぼっち…親友のM君とも離れ離れ。息子はひとりで大丈夫なのか?私の不安はいっきに増大しました。

(今思えば、これが緘黙を引き起こす原因となったような気がします)

急いで小学校の校長に面会を申し入れたんですが、校長は不在で副校長が会ってくれました。結果は--もう発表してしまったので、クラスは変えられないと…。何故そうなったのかという理由は、教えてもらえませんでした。

推測するに、私の家が道ひとつ隔ててギリギリ学区の外だったのが原因だったんだろうなと思います。というのも、最初は断られたんですが、2次選考で入学できることになったという経緯がありました。あと、延長保育の先生の意見もあったのかなと…。

母子体験入学に行ってみると、息子のクラスには違う幼稚園から来た子どもを集めてありました。息子が通っていた幼稚園は小学校の隣。付属幼稚園ではありませんが、後の2クラスは幼稚園からの持ち上がりという感じ…。

9月に入学した子ども達は既に友達関係ができてしまってるだろうし、そんな集団の中に後から入って大丈夫なんだろうか…。知らない子ばかりだし…。不安でいっぱいしたが、もう変更できないと言われてしまえば、どうしようもありません。

それでも、入学体験で同じクラスになる女の子のママと知り合いになり、「仲良くしてね」と言ってもらえて、ちょっとだけ安心。入学して1週間は半日授業、その後は給食を食べられるようになったら一日授業にするという方針。

保護者用のファミリールームもあるし、まさかの時はそこで待機すればいいや、と腹をくくったのでした。

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息子の緘黙・幼児期4~5歳(その2)

草間彌生とその芸術

早いもので、もう11月に突入してしまいました。今年も残すところあと2ヶ月弱と考えると、一体自分は何やってたんだろうと考えてしまいます。

さて、先週末ネットで日本のニュース番組を観ていたら、草間彌生が文化勲章を授与されたというニュースが。今年の夏の北欧旅行で強く印象に残ったのが、ストックホルム近代美術館で観た草間彌生回顧展。コペンハーゲンのルイジアナ近代美術館でも、彼女のインスタレーションがひときわ異彩を放ってました。

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     写真はルイジアナ近代美術館の常設インスタレーション『魂の灯Gleaming Lights of the Soul』。上の映像でその雰囲気を味わえます

これまでにロンドンでも何度か個展が行われたのですが、全部見逃してました。それまで草間彌生に関する知識といえば、水玉モチーフと作品の一部のような奇抜なファッションくらい…。正直、入場料を払ってまで観に行くぞ、という感じではなかったんです。でも、いつか観たいと思ってたので、ストックホルムの友達が「今、一番期待してる展示会!一緒に行こう」と誘ってくれた時は、即OKしたのでした。

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『無限 Infinity』と題されたストックホルムの回顧展。若い頃のスケッチから60年代NYでの作品群やHappeningの映像(自分や参加者の体を水玉模様にするパフォーマンス)、黄色い南瓜のミラールームや真っ赤な水玉オブジェが並ぶ巨大なインスタレーションまで、見どころいっぱい。

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彼女の作品がどんな風に進化していったのか、時代ごとに追っていくことができました。何だかどんどん規模が大きくなり、より強く、より明確になっていったような…。ひとめ見れば、「ああ、草間弥生の作品だ」と判る、強烈なオリジナリティが圧倒的。すぐ側まで行って触ったり、ミラールームに入れたり、作品に手が届くというか、自分も内に入ってその一部になるような距離感も魅力です。

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   真っ赤な水玉マッシュルームは『新たなる空間への道標 』。ステンレスのミラーボールを覗き込むと、そこには無数の自分が映る『ナルシスの庭 』

水玉にしても、網模様にしても、ミラーボールやミラールームにしても、どこまでも反復し、増殖し、無限に反映し続けるーーこれが彼女が創り出す永遠。

私は、彼女が10歳の頃から統合失調症に苦しみ、幻覚や幻聴に悩まされ続けてきたことなど、全く知りませんでした。

河原に行くと、何億という石が宙に浮いて迫ってくる。スミレ畑に行くと、スミレが人間の顔をして語りかけてきて、恐くて家に飛んで帰ろうとすると、途中で犬に話しかけられ、会話している内に自分の声が犬の声になっていることに気づく――。そんな脅迫感や恐怖感を絵に描きとめることで、彼女は精神のバランスを保っていたのです。多分、描くことは本能でもあったんでしょう。

10代の頃に描いたお母さんのスケッチ画は、顔も体も水疱瘡のような細かい点で覆われていました。家族の顔も、日常の風景も、彼女にはこんな風に見えていたのか――そう思うと、心底恐い。そして、その水玉のような点々は、どんどん増殖して自分の体にまで迫ってくるのです…。

誰もいないと、幻覚の方に引きずりこまれて離人症になってしまう――そんな恐怖に襲われて押入れに閉じこもってガタガタ震えていたとか…想像しただけでも壮絶な毎日です。

このインタビューに桑間弥生の秘密が詰まってます

裕福な旧家に生まれた彼女は、早くから母親に「お前は財閥の御曹司と結婚するんだ」と言われ、絵を描くことを止められたそう。でも、芸術家になる志を貫き、京都で日本画を学んだ後、1957年にNYに飛び出しました。

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NY時代の作品

1973年に体調を崩して帰国し、入院した後に執筆活動を始め、小説も多数書いています。病院で寝泊まりしながら、近くのアトリエで創作活動をするというルーティンだったよう。1990年頃から再びアート活動を始め、現在に至る大ブームを引き起こした訳ですが、当時の映像で「私はこれから!」と宣言してました。

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2012年のルイヴィトンとのコラボ作品。「出たっ」って感じですよね。

今年で御年87歳になられたそうですが、全身から放つ圧倒的なエネルギーが凄い。ピカソも晩年になっても衰え知らずの天才でしたが、彼女にはなんだか妖気のようなものまで感じられます。バイタリティーと創作意欲の塊みたい。

インタビューの映像を観ると、話し方は幼児のように舌足らずな印象なのに、大切な部分は直球でズバっと言い切ってる。眼光の鋭さといい、有無をいわせぬ存在感といい、人間を超えてるような(笑)。「永遠の永遠の永遠」を渇望して、渇望して、渇望し続けて制作してるんだな、というのがバシバシ伝わってきます。

統合失調症という病気と戦いながらも、「イケてた女の子だった」「私がファッションで時代を開いていく」と自信満々。おこがましいですが、こんなにも自分に自信を持てるって、羨ましい限りです。こんな性格だったら、緘黙にはならないんだろうな…。

ところで、60年代のNYといえば、オノヨーコも同じように前衛芸術をやってたな…と思い出しました。彼女も裕福な家の令嬢で、草間彌生と境遇が似てたかもしれません。偶然にも、同じ美術館の片隅にオノヨーコの作品が。草間さんの作品と比べると「つつましい」という言葉がピッタリで、複雑な心境に。

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ストックホルム近代美術館に展示されていたオノヨーコの作品

追伸: 今朝、文化勲章親授式のニュースをやってましたね。草間さんは「死ぬ物狂いで芸術をやって、死んだ後も何千年も人々が心を打たれる芸術を作っていきたい」と語っていました。これからも、どんどん凄い作品を生み出していって欲しいです。

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北欧の夏休みーストックホルム編(その4)

 

 

 

この子話せますか? 息子の緘黙・幼児期 4〜5歳(その2)

久々に「息子の緘黙」の続きです。

幼稚園の延長保育にも慣れてきて、卒園まであと3ヶ月あまり。お隣の小学校への入学も決まっていて、かなり落ち着いた状況でした。

でも、実は上手くいってると思っていたのは身内だけで、その頃息子は園でものすごく寡黙だったらしいのです。知らぬは家族とその周辺のみだったよう…。

当時、『サンダーバード』の実写版映画が流行って、再々々ブームが起きていました。人気バンドによる主題歌も大ヒット中。息子は声が出るトレーシーアイランドの玩具で、毎日ごっこ遊びに熱中。そのお陰で 英語もかなりスラスラ出てくるようになっていました。

イギリス人の子とも交友した方がいいと思い、入園時に乗り物遊びで仲良くなった子とママを自宅に招いたんです。その時、そのママから「ふうん、家では喋るんだね」と言われ、「???」。彼女はよくクラスで手伝いをしていたんですが、「あ、そうなんだ。園では大人しいんだ。私も保育園の頃はすごい内弁慶だったしな」位にしか思わなかったのです。

その後に、新しく同じクラスに入った日本人の女の子(母子ともに付き合いなし)のママに何気なく挨拶したら、「お宅の子、すごいユニークなんですって?」という謎の言葉が…。追いかけて質問するのも気が引け、大きなハテナマークを抱えることになったのでした。

あと、お迎えの時に延長保育の先生に、けっこう英語も話すようになったことを告げると、「園ではT君(親友)に代弁させることが多いので、自分でもっと発言するといい」と。後にT君のママ経由で、この先生が息子とT君を離した方がいいと言っていたことを聞きました。

1年3ヶ月の幼稚園生活の間、若い担任の先生からは特に何の助言もなく、まあまあ楽しくやってるんだとばかり…。その先生は1年終えた時点で退職し(海外に行くため)、新学期からは新しい担任になったばかりでした。

早生まれの息子は、新学期が始まる9月からではなく、1月から小学校に入学する予定でした。その1ヶ月ほど前、つまり卒園の1ヶ月前に、幼稚園で初めての懇談会が行われたのです。

担任が開口一番に言ったのは、「○○君、話せますか?」でした!

その時は主人も一緒だったのですが、二人とも驚いて「は?」という感じ。「もちろん話せます」と即座に答えたのですが、私は「内気で先生に何か言われない限り、言葉を返さないんだろうな」と捕えました。しかし、こういう大事なことはもっと早く言って欲しかった…。

息子は私がお迎えに行くと園内(教室の外)でもすぐに話し始めるので、そこまで寡黙だということには全く気付いてませんでした。それは、息子の親友&そのママも同じだったと思います。多分、大人のいないところでは、M君と普通に話していたんでしょう。

卒園の少し前に、1月から小学校にあがる早生まれの子のための卒園会みたいな催しがありました。10人くらいの子どもと保護者が集まって、担任が子どもの園での歩みを発表。ひとりづつ前に出て担任のところに行き、話す機会が設けられました。

恥かしいのか、全員が小さ目の声で先生の質問に答えていたという記憶があります。息子の番になってカメラを向けると、短かい言葉ですが、 ちゃんと聞こえる声で答えてました。なので、幼稚園では緘黙ではなかったと思ってます。

ちなみに、この幼稚園は自由主義で、子どもが好きな遊びを自主的にどんどんやらせ、遊びを通して学ばせるという方針。みんなで一緒に何かする時間は、読み聞かせをするストーリータイムくらいのもので、先生やスタッフの大人と話す時間はあまりなかったように思います。

今考えると、抑制的な気質が強い息子には、もっと家庭的で面倒見の良い、こじんまりした幼稚園の方が向いてました。でも、当時そんなことは全く思いつきもせず…。

小学校入学に一抹の不安を覚えた私たち夫婦は、小学校の校長に手紙を書くことにしたのでした。

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癇癪が悪化ー息子の緘黙・幼児期4~5歳(その1)

「思いやり」が育ってない?

以前も触れましたが、息子が生まれた2000年にイギリスの国営放送BBCで『Child of Our Time』というドキュメンタリー番組が始まりました。ロバート・ウィンストン教授の解説で、数年毎に2000年生まれの25人の子どもたちの成長を追うもの。周りのママ友達はみんなこの番組を観ていて、よく話題になったものです。

2003年に放映されたプログラムでは、3歳くらいになれば親に何かあったら心配するようになることを実証。例えば、母親が怪我したりしたら、3歳児でも心配して普通は「ママ大丈夫?」と言ってくれますよね?

でも、それまで息子が「大丈夫?」と言ってくれたことはありませんでした。じゃあ、息子には人の気持ちが解らないのかな、思いやりが育ってないのかな、とめっちゃ不安になったのを覚えています。

が、ある日そうではないことが判明しました。何が原因だったか覚えてないのですが、私と主人がケンカ(口論)していた時のこと。息子は主人が私を虐めてると思ったのでしょう。泣きながら主人の脚にくらいついて、「ダメ!」と抗議してくれました。

あっ、息子が私のことを心配してくれている――その時の感激は今でも忘れられません。

その後、普段は丈夫な主人が風邪をひいて寝込んだことがありました。息子の様子をうかがうと、主人の側に近づこうともせず、何だか避けているような…。それに、いつもより私に纏わりついてくるんです。どうして?

二人になった時「どうしたの?」と訊いてみたら、「ダディ、違う人になったみたいで恐い」と言うのです。そういわれてみると、主人は体調が悪いためかブスっとして口数も少なく、ネガティブな雰囲気を撒き散らしていました(笑)。息子はいつもと違う主人の様子を敏感に感じ取り、怖がっていたんですね。

それから徐々に、どうやら息子は細かいところまで色々気づいているけれど、自分の気持を口や行動に出すのは苦手なんだなということが解ってきました。

DVDで一緒に『ムーミン』の映画を観た時、息子は登場人物たちがスニフの臆病な行動をからかう場面にものすごく反応して、「かわいそう…」と。変なところで反応するな、とその時は不思議に思ったんですが、息子にはスニフの気持ちが良く解ったみたい。

また、私にだけ癇癪を起こすことが多いのは、どうも「マミーは自分のことは何でも解ってくれているはず」との思い込みがあったよう。息子が小3くらいの時にそれに気づき、「マミーはあなたじゃないから、頭の中で何を考えているかは解らない。ちゃんと言葉で説明してね」と話すようにしました。私のこと、一心同体だと思ってたフシがあります。

息子が自分の意見や気持ちを口にする様になったのは、小学校の高学年になった頃からだったでしょうか。私が息子の友達に言った言葉や何気なくとった行動を、後からたしなめられたりすることも…。とても友達思いのところがあることに気付かされました。

そして、今年16歳になった息子は、人の気持ちを考えすぎて、なかなか「No」と言えません。そんなに自分が我慢せず、もっと自分勝手でもいいのに、と思う今日このごろです。

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息子が初めて育てた世界で一番小さい(?)トマト

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「ごめんなさい」がいえなくて

「ごめんなさい」がいえなくて

たいていの緘黙児は、例え話せる人にでも「こんにちは」や「さようなら」などの挨拶がなかなかできません。親しい間柄でも「ありがとう」の言葉が出にくいようです。何か間違いをしたとき、家族にでさえ「ごめんなさい」と言えないことが多いかもしれません。

その理由を考えてみると、これらは日常の挨拶や習慣の言葉で、「言うのが当たり前」だからじゃないでしょうか?

子どもが、「この子はこう言うハズ」と予期している相手の空気をいつも感じているとしたら、結構なプレッシャーじゃないかと思うのです。多分、子ども自身は「ここで言わなきゃいけない」と明確に意識してる訳じゃなく、漠然と場の空気を感じてるだけだと思うんですが。

また、一度言えなくて注意されたとすると、次はその記憶が手伝って余計言えなくなるということもあるかもしれません。

子育てをする上で、特に母親は子どもの行儀作法をしっかりしつけたいと願うものです。子どもが小さい頃、「ありがとうは?」「ちゃんとバイバイしようね!」などと、頻繁に促してませんでしたか?

私は――やってました。今思えば、息子には細かいところまでかなりガミガミ言ってたと思います…。新米母親だったし、ちゃんとしつけなきゃと一生懸命でした。超敏感な子どもの性格なんかお構いなしに。

緘黙の子どもの中には、感覚過敏がある子が多いという統計がでています。今はそれほどでもないですが、うちの息子もそうでした。触覚、聴覚、嗅覚、味覚などが、めっちゃ鋭い。それだけでなく、周囲の反応や雰囲気、場の空気に対して、とても敏感に反応することが多かったように記憶しています。観察力もけっこう鋭い。(この特性は場面緘黙がASDと混同されてしまう理由のひとつと思うのですが、それはおいておきます)。

この周りの空気を感じ取る敏感さが、緘黙児が挨拶できない要因のひとつになってると思うんです。それと、息子についていえば、頑固というか、すごく意固地なところがありました。

親が「○○しなさい」というのは当たり前とはいえ、今思うとうちの子にとってはガミガミ言うのがすごくマイナスだったような…。やらせようとすると、「やらせられる」と敏感に感じとって、意固地になってやりたがらない。幼児のプレイグループでは、私は子ども達に何かやらせるのが結構うまかったんです。他の子はみんなやってるのに、自分の息子だけやらないという…。

息子が4歳か5歳の頃だったと思うんですが、ある日何かの拍子にコップに入っていたジュースを大量にこぼしてしまったことがありました。私が「あ~、こぼれちゃた!」と大声を出し、慌ててキッチンペーパーを持ってきて拭いている間、息子は何もしないんです。「ホラ、一緒に拭いて」と言っても、動かない。

あれっと思って見ると、その場で固まってました。こぼしてしまったショックから全然立ち直ってなくて――こぼしてしまった自分に唖然としている感じ。私の態度や場の空気が急に変わって、「怒られる」と思ったのもあったかもしれません。

「あ、この子は私が思ってるより、もっともっと繊細だったんだな」と気付きました。

片付けてから、「こぼれちゃったのは仕方ないね。こういう時はすぐ『ゴメンナサイ』っていおうね」とゆっくり話しました。それまでは、息子の状態をしっかり見ずに、「ゴメンナサイは?」「駄目じゃない」と叱っていたかも…。

このことがあってから、私は小さいことでも頻繁に「ありがとう」や「ごめんね」を言うようにしました。主人に対しても、息子に対しても。そうしたら、これらの言葉に対する息子の抵抗が、徐々になくなっていったような気がします。

「押し付けられた」と感じると意固地になっちゃうし、プレッシャーと感じると殻に閉じこもってしまう――息子の小さい頃はそんな難しさがありました。

敏感な子どもには、その子どもに合ったしつけや対応の仕方が必要かもしれません。