息子の緘黙・学童期6~7歳(その8)B君、ありがとう!

先週はイギリスではジョンソン首相の電撃辞任、日本では安倍元総理の暗殺と、予想だにしなかった事件が続きましたね…。世界中そうですが、EU離脱やコロナ禍、ウクライナ戦争などで急激なインフレが起こりつつあり、社会不安が増している今日この頃。生活の中に小さな幸せを見つけて、心を潤したいものです。

   果物や野菜の美味しい季節になりましたね。近所のアフガニスタンの八百屋さんで大好きなアメリカンチェリーを箱買い。庭から極小の苺とブルーベリー、友達の市民農園からは野菜が♡

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さて、息子の緘黙ストーリーの続きです。

仲良しのB君が他のグループに移ってしまい、一時的に孤立してしまったように見えた息子。新しく仲の良い友だち作れるんだろうかと、母親としてはとても心配でした…。

この頃は、B君とその周辺の子達とは学校でも小声で短い会話ができるようになり、クラスの子全員と一応口がきける(呼ばれたら簡単な返事ができる)状態にまできていました。が、その状態で新たに友達を作るのはかなり難しい?

息子は転入生が来ると仲良くなる(自分の緘黙を知らないから、近づきやすいという論理があったらしい)傾向がありましたが、もう小2も2学期。同じ顔触れで3年目なので、仲良しグループはほぼ固まった状態。

先生に相談しても頼りにならないし、どうしたものかと思案に暮れましたが、私のできることといえばB君やS君が空いてる日に家に招くことぐらい。う~ん、どうしたらいいものか…。

そんな悶々とした日々を過ごしていたら、ある日E君のママから「〇〇君、今週の金曜日に家に遊びに来れる?」とお誘いが!!!

え~っ、ありがたすぎる( ;∀;)

息子が自分でE君グループにアプローチできるとは思えないので、B君が誘ってくれたに違いない。B君、本当にありがとう!

それ以来、E君の家に招かれることが多くなり、小学校6年生になるまで「5人組のひとり(キャラ:大人しいやつ)」としてグループから外されることはなかったのです\(^o^)/(その後、息子はE君S君と同じセカンダリースクールに進学しました)。

私もここぞとばかり頑張って、5人組を極力家に招くことに。E君の家で夕食をごちそうになってくることが多かったので、私も週に一度5人組を招いて夕食をふるまうことが定番となりました。

結構面倒でしたが、彼らは食べられるものがほぼ決まっていて(息子も結構偏食気味だと思っていたのですが、その比ではなかった)、メニューはいつもフライドチキンかソーセージ&ポテトかパン、付け合わせの野菜(ニンジン、ブロッコリー、スィートコーン)。簡単にできるものばかりで、こちらは大助かり(^^;

彼らが家に長くいることで、どの子がどんな性格で、息子がひとりひとりとどの様に関わっているのか観察することができました。息子は相変わらずいつも遠慮して一歩引いているのですが、何とかグループの輪の中に溶け込めているよう。というか、他の子達はそんな息子を「そういうヤツ」として受け入れてくれた様でした。

これで、とにかくクラス(学校)での孤立を免れることになり、B君には本当に感謝してもしきれないです。今考えると、B君ママが助けてくれていたのかもですね。

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息子の緘黙・学童期6~7歳(その7)校庭の友情ベンチ

いつまでも小2のまま、息子の話がなかなか先に進まなくてスミマセン。現在21歳になった息子は、大学の夏休みで帰省中です。以前バンドに入っていた関係で、音楽仲間とギグをする羽目になったり、大学の友達に会いに行ったり。昨年はアルバイトをしていたんですが、今年はどうなることやら…。あと、小さい頃は本当に食が細くて心配だった息子が、今も身体は細いままなのに呆れるほど食べるんです。家の冷蔵庫があっという間にカラッポになって、ちょっと怖い^^;

    ロンドンの北にあるハートフォードシャーのラベンダー畑。£3(約500円)の紙袋いっぱいにラベンダーと野の花を摘んできました

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小2の2学期ごろ、息子の友達関係に大きな変化がありました。レセプションクラスから仲良くしてもらっていたB君が、別のグループと行動するようになったからです。それも、クラスで一番目立つグループ…。そこにはクラスの代表格のE君と彼の幼馴染で人気者のQ君、スポーツ万能のサッカー少年F君が。そこにB君が加わりつつあった訳です。

B君は、何というか一番目立つものに心惹かれるという特性がありました。息子と一緒だとおとなし目の目立たない男の子っぽいのですが…。そういえば、B君が仲良くしていたもう一人の友達、S君もクラスで目立つ存在でした。(B君はみんなと違う中学校に進学し、そこで最初にできた友達が学年一の不良だったという…)。

以前も書きましたが、イギリス人ママ達は子どもの意見を第一に尊重します。だから、親が「〇〇君も招こうよ」と主導権を握ることは難しい。親が勝手にプレイデートの相手を決められるのは、せいぜい小2くらいまで。だから、子どもの友人関係に口を出せるうちは、親が動けるなら動いた方がいいかなと思うのです。

息子がちょっと孤立しているらしいことに気づいたのは、お迎えの時間にE君ママが連れて帰るグループにB君が入りはじめたから。幼稚園時代の親友T君は帰国してしまったし、放課後いっしょに校庭で遊ぶ相手もいなくて息子はしょんぼり…。

もしかして、お昼休みとかもひとりぼっち? 一体、どうしているんだろう…。

心配になって息子に訊いてみると、校庭には友情ベンチ(friendship bench)なるものがあり、そこに座っていると…。でも、ポツンとひとりで座っている遊び相手のいない子を、他の子ども達がちゃんと気にかけて仲間に入れてくれるものか?!

遊びに夢中になっている6歳の子ども達がそんなに思慮深いのか--私には疑問でした。滑り台事件(詳しくは『息子の緘黙・幼児期4~5歳(その7)』をご参照ください)以来、忙しいお昼休みに子ども達全員に目を光らせてくれている先生がいるのかどうか、疑わしく思ってたし(^^;

放課後の教室で担任のL先生におそるおそる相談してみたところ、「そうねえ。Q君なんかは面倒見がいいから、友達になるといいかもしれないわね」と。でも、そのあと間伐入れず、

「もう2年生にもなれば自分たちで友達を作っていくから、教師は口を出せないわ」

そうですか…先生に手助けしてもらえるかもと、期待した私がバカでした😢

9歳から寄宿舎学校で育った主人は、昔から「学校は戦場」と言っていましたが…。う~ん、仁義なき戦いなのでした。

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ニューヨーク!ニューヨーク !(その6)

お久しぶりです。6月に入ってから何故かとても多忙になってしまい、なかなかブログの更新ができないでいました。やっとNYC旅行記のおしまいの記事です。

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滞在最終日

NYC最終日は雨模様の天気。NYCに来てはじめて傘を使うことに。午前中はアンディーウォーホル展を観るため、地下鉄でブルックリン美術館(Brooklyn Museum)へ。

  

    ブルックリン美術館(左)で開催されていたウォーホル展。自身と母親ジュリアの肖像画(右)。ジュリアは1952年にNYに移り住み20年ほど息子の世話をし続けたとか

『黙示録(Revelation)』と題されたこの展示会は、ポップアートの旗手として知られるウォーホルが実は敬虔なカソリック教徒だったことに焦点を当て、それが彼の作品に与えた影響を探るもの。ゲイであることを公言し、ポップカルチャーのカリスマ的存在だった彼が、礼拝のため定期的に教会を訪れていたと知り、すごく驚きました。

また、小学生のころ虚弱だった彼を育み、アートを推奨し、成人してからも支え続けたのは、母親のジュリアでした。その影響は計り知れないものがあります。

ウォーホルの両親は旧チェコからの移民で、アンディ(1987年没)は1928年に米国ペンシルバニア州で3人兄弟の末っ子として誕生。ルテニア東方典礼カソリック教徒の家庭で育ち、一家の中で初めて大学(カーネギー工科大学)に進学した。コマーシャルアートを学んだ後、1949年にニューヨークに移住。『ヴォーグ』や『ハーパーズバザー』など、雑誌のイラストや広告を手掛けるように。

          

    1928年8月に生まれ、洗礼を受けた(左)。1955年の作品、『二つの頭と握られた手(Two Heads and clasped hands)』は繊細なタッチ

1960年にコマーシャルアートからファインアートに転向。翌年、33歳の時にキャンベルスープ缶やドル紙幣を描いた作品を発表し、ポップアートブームの先駆けに。1962年からはトレードマークともいえる、シルクスクリーンプリントを使って作品を量産するスタイルを確立。マリリンモンローやジャッキーケネディなど有名人の肖像をはじめ、大衆的で話題性のあるモチーフが注目を集めた。

1964年にはNYにスタジオ、「ファクトリー(The Factory)」を設立し、『チェルシーガールズ』に代表される実験的な映画や音楽のプロデュースなど多様な芸術の制作に携わる。ファクトリーは新進アーティストのみならず、ミックジャガーやルーリードといったミュージシャン、作家のカポーティ、俳優やモデルなどが集まる社交場となった。1965年には伝説のバンド、ヴェルヴェットアンダーグランド(The Velvet Underground)のデビューアルバムをプロデュース。ウォーホルがロック音楽に与えた影響も大きい。「将来には誰でも15分間は有名人になれる」という言葉を流行らせたのもこの頃。                    60年代のトランスジェンダーのアイコンで、ウォーホール映画のスター俳優だったキャンディダーリン。ファクトリーには当時のセレブが集って制作にも関わったが、モデルや俳優への報酬をケチることで有名だったとか

 

      1970年代の『スカル(Skull)』シリーズの作品(左)。60年代初頭から死をテーマにしたり、光と影を強調する作風を用いた。中央と右は1981~1982年に制作した『銃』『ナイフ』『十字架』シリーズ

40歳の時、ファクトリーの常連だった過激派フェミニスト、ヴァレリー・ソラナス(Valerie Solanas)に襲撃され生死の境をさまよう。1970~80年代にかけては、社交界や政界からもシルクスクリーンの肖像を依頼する人が絶えなかった。代表的な作品は、中国共産党の毛沢東など。80年代にはバスキアやクレメンテらの若手アーティストと交流し、共同制作を行っている。1987年に胆嚢の手術を受けた後、心不全で亡くなった。

  

   1985~1986年、バスキアとのコラボ作品『10個のパンチバッグ(最後の晩餐)(Ten Punchbag (Last Supper)』、ウォーホルはダヴィンチの『最後の晩餐』のキリストを手描きしている。同年作、『あなたは違う?(Are You “Different”?』は宗教的な広告を手描きでトレースしたもの

      

    1985年作、ラファエルの絵をモチーフにした『ラファエル/ 聖母―$6.99 (Rapheal Madonna-$6.99)』。消費社会においては聖なるものも俗物化・商品化?

     

      死去する1年前、1986年に制作された『最後の晩餐(The Last Supper)』はダヴィンチの作品がモチーフ。同じ題材で100以上のパターンの作品を発表している

信心深い家庭で育てられたウォーホルが、アメリカの資本主義社会が象徴する大量生産の時代の寵児になったこと。人間らしい感情を取り払った、コピー機が生み出すような派手な色彩のセンセーショナルなアートが時代の象徴になったこと――その巡りあわせも不思議ですよね。

ということで、ウォーホル展を堪能した後、最後にもう一度NYC在住の友だちと食事をして夜8時ごろ帰路の旅路についたのでした。

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ニューヨーク!ニューヨーク !(その5)

滞在6日目

この日は朝9時半にNYC在住の友達とグランドセントラル駅で待ち合わせ。まず地下鉄でBrooklyn Bridge City Hall駅まで行き、快晴の空のしたブルックリン橋を歩いてマンハッタン島からブルックリンへと渡りました。1883年に開通したブルックリン橋は、鋼鉄ワイヤーを使用した世界最初の吊り橋なんだとか。

        

       天気がいいと風景も気分も全然違いますね。徒歩で30分ほどですが、NYCの絶景を眺めながらのウォーキングなので、それほど長く感じませんでした

ブルックリンに到着したあとは、橋の袂にあるダンボ(DUMBO Down Under the Manhattan Bridge Overpass)地区でコーヒーブレイク。イースト河沿にの倉庫街を改造したお洒落なレストランやショップが並びます。友達が連れて行ってくれたのは、エンパイアドアーズ(Empire Doors)という建物内のタイムアウトマーケットNYという人気スポットでした。

    

 ブルックリン橋のアーチ型鉄柱の向こうに見えるのはエンパイヤステートビル(写真中)。トレンディなエンパイアドアーズNYC

ダンボからCourt St駅まで歩き、そこから電車でニューヨーカーが避暑に訪れるというコニーアイランド(Coney Island)へ。高層ビル群から住宅地へと風景が変わっていき、着いたところは大きな遊園地がある海岸でした。

   遊園地「ルナパーク」はまだ閉鎖中(左)。4月上旬とは思えない上天気

海岸沿いにまたまた3駅ほど歩いて、Brighton Beachというエリアのロシア料理店へ(コニーアイランドにはロシアからの移民が多く、ロシア料理店がひしめいているのです)。そこで昔ロンドンで出会ったもうひとりの知人と感激の再会!最初に会った時はみんなシングルだったのに、今や彼女も私も成人男子の母親になっているというーーう~ん、時間が経つのがなんと早いこと!

   メインのビーフストラガノフと4人でシェアしたチーズケーキ。お味は…まあまあ。近くに世界一有名?!といわれるホットドッグ屋さん、ネイサンズが

 

昔話に花を咲かせながら夕方まで海辺をブラブラ。とても楽しい一日だったけど、さすがに歩き疲れました。グランドセントラル駅の近くでお握り屋さんを発見したので、夜は梅のお握り、ギョウザ、苺大福とみかんをテイクアウト。NYCで食べた中で最も美味しかった食事のひとつかも…。

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ニューヨーク!ニューヨーク !(その4)

滞在5日目

この日はゆっくり起きて朝食をすませ、マンハッタンの西側にある屋内マーケット、チェルシーマーケット(Chelsea Market)へ。かつて精肉工場や倉庫などが並んでいたため「ミートパッキングディストリクト (Meat Packing District)」と呼ばれるこのエリアは、現在も再開発中なのだそう。

友だちに「街を観たいから地下鉄を使わずに歩こうよ」と言われ、この日もまた歩く、歩く、歩く。彼女の記録によると、私たちは毎日2万歩以上(約14km?)歩いてたようです(^^;

  

    グルメ、ファッション、アクセサリー、お土産品など60件以上の店が並ぶマーケット。でも、それほど規模が大きい訳でも、珍しいものがある訳でもなく、ちと期待外れでした。

マーケットを後にして、ハドソン河にちょこんと突き出た出島、リトルアイランド(Little Island)に立ち寄ってから、古い高架鉄道の跡を利用して造られた空中公園、ハイライン(The High Line 写真右)を散策。まだ4月始めの寒い時期でパンデミック中だったためか、緑も花も全くない上、ショップやカフェも閉っていて、なんだかうらぶれた感が…これが夏だったら随分違っていたんだろうなと思うんですが。

エンパイア(Empire)というダイナーで遅いランチ。私の注文したサラダがとても斬新で美味しかったです。1/4位に切ったアイスバーグレタスの上にアボカド、クルトン、トライトマト、ベーコン、ピクルドオニオン、カッテージチーズなどがてんこ盛りになっていて、ナイフが突き刺さってた…(;^_^A ダイナーの後ろの壁画がヘタウマ風というか、インパクトがありました(どうしてこの4人?!)

  

この後、地下鉄に乗ってまたNYC在住の友達を訪ね、彼女のお部屋でゆっくりおしゃべり。日が暮れてから近くのギリシア料理店で夕ご飯を食べました。大きなサーモンと食後はアップルシナモンティー。う~ん、食事はロンドンの方が美味しいような…。ちょっと外れのゆるい日となりました。

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SM H.E.L.P. 2022年5月サミット

季節が目まぐるしく移り変わり、またアメリカの保護者、ケリー・メルホーンさんが主催するSM H.E.L.P.サミットが開催されました。が、先週末はいろいろ先約が入っていて、残念なことに最初のビデオしか視聴する時間がありませんでした。

     Regents Park のバラ園では早咲きのイングリッシュローズがほぼ満開でした

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スティーヴン・クィンラン 臨床ソーシャルワーカー  Stephen Quinlan, Licensed Clinical Social Worker

不安を抱える子どものセラピストとして20年の経験を持つスティーヴン。非営利支援団体、イースターシールズ(Easterseals)では、ニューイングランド唯一のマルチディシプナリー形式の場面緘黙クリニックにて、メンタルヘルス面を担当。場面緘黙と診断された数百人の子どもと向き合った実績の持ち主。著書に『Raising Voices: A workbook for parents, teachers, and kids with Selective Mutism 』がある

場面緘黙は年齢が若いほど治療プログラムによって克服できる可能性が高い。将来的に何らかの不安を持ち続けるかもしれないが、充実した人生を送れることが多い。

1) どのようにして子どもの不安と向き合い、支援するか

場面緘黙にせよ、それ以外の不安障害にせよ、不安への向き合い方は同じ。子どもが「怖い」と感じる時、脳は自衛のために扁桃体(アミグダラ)から「何らかの危険が迫っている」というシグナルを送る。実際に危険が存在するかしないかに関係なく、脳はそのように反応してしまう。次に同じような体験をすると、簡単にシグナルのスイッチが入り、それが不安や恐怖症に結びつく結果となる。

最良のアプローチは、その子が恐怖を乗り越えられるよう支援すること。恐怖から逃げようとしたり、同じ体験をしないよう回避しようとしたりすることは、結果的にその恐怖を強化する。少しずつ恐怖に直接向き合い、問題はなんなのかを解明していくことが大切。

例えば、犬が怖い場合:CBTのエクスポージャー法を使って、徐々にその子が犬との肯定的な関係を築けるようにしていく。まずは、恐怖の程度を把握し、子どもが耐えられる範囲のエクスポージャーを試みれば、少しずつ恐怖を克服していくことが可能。そうすることで、脳は自動的に書き換えられていく。

例(思考の流れ):

  •  あそこに犬がいる ⇒  怖いと感じる
  •  逃げる/ 回避する ⇒   思考を変換        全部の犬が吠えたり、襲ってきたりするわけではない
  • お母さんと一緒なら、5メートル離れているなら大丈夫? ⇒ チャレンジできそう
  • チャレンジ成功  ⇒ 肯定的な体験をすることで自信がつく

2) 場面緘黙子どもになぜその症状が起こっているか理解させるには

殆どの子どもは自分の体に何が起こっているか理解しているが、それを自分の言葉で表現することは難しい。年齢や症状に応じて場面緘黙がなぜ起こるのか、その症状など例や比喩などを使って分かりやすく説明する。リラックスした雰囲気で、自分の体験やユーモアを交えながら。

例(緘黙の症状):

  • 胸が苦しくて、呼吸ができなくなるような気がする
  • 心臓がドキドキする
  • 喉がつまったような感じがする

3) セラピールームでのスモールステップ支援

不安を感じさせず、リラックスできる環境を整えてから始めること。まず最初はどんな形でもいいので、子どもとコミュニケーションを取ることから。体を動かしたり、ゲームをしたり、音楽を聴いたりすることで緊張が溶けることも多い。事前に保護者から子どもの情報を収集しておくと良い。

  • セッションで何をするか子どもに選択肢を与える
  • 言葉がでるように期待をかけない(はじめから片言話せる子もいる)
  • 言葉が出なくても、指差しやうなずきなど返事ができるように
  • 子どもがどの段階にいるか判断する
  • 症状に合わせて質問形式を変える(「はい/いいえ」→オープン)

4) セラピールームから日常生活への移行

子どもの症状に合わせて、コミュニティ(ショップ、レストラン、スポーツクラブなど)や学校でも可能なスモールステップを組んで実行していく。失敗すると落ち込んでしまう保護者も多いが、急がず、長い目・スパンで考えることが大切。

  • 子どもも保護者も期待しすぎないこと
  • 失敗しても気にしないこと(いい時も悪い時もあるということを説明しておく)
  • チャレンジするだけでOK(チャレンジすることの重要性を理解)

5) 学校でのチャレンジ

学校は最後の、最も困難な場面であることが多い。学校側のサポートは必要不可欠。担任と保護者とのコミュニケーションが十分に取れていることが大切。

  • 事前に担任や学校の空間に慣れておくといい
  • 担任に子どもを知ってもらい、トイレなど子どもに一番やりやすい形のコミュニケーション法を予め決めておく

緘黙治療には人間関係が一番大きなファクターとなる 「沈黙」は誰にとっても居心地が悪いものだが、保護者でも、セラピストでも、学校関係者でも、子どもが反応するかどうか5秒間は待つこと。例えば、レストランで注文するチャレンジをする際、全く声が出せなくても、すぐに助け舟を出さないようにする。5秒間待って、反応がなければメニューを読んで「Aにする、Bにする?」と子どもに訊ねる。片言、指差し、うなづきで返事ができればOK。

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緘黙治療として目新しいものはありませんでしたが、子どもの心によりそって、気長に、コツコツと克服していくことの大切さを再確認できたような気がしました。

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ニューヨーク!ニューヨーク !(その3)

滞在4日目

この日、午前中はそれぞれ単独行動することに。私はモマニューヨーク近代美術館(Museum of Modern Art)へ、友達はメトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art )へ。初めてひとりで地下鉄に乗り、割とすんなり美術館にたどりつけました。

フロアマップをもらおうと思ったら紙の地図がナイ! NYCではすでにペーパーレス文化が根付いてる?! コードをスキャンして携帯でマップを見ながら、まずは5階の常設展フロア(1880-1940年代)へ。

実家にあった美術図鑑シリーズでおなじみの印象派やシュールレアリズムなどの名画がいっぱい。ゴッホの『星月夜』やシャガールの『私と村』、マグリットの『偽りの鏡』など、懐かしい友達に会ったような感覚で、たっぷり堪能できました。ただ、エルンストの絵がある部屋が展示準備中のため立入り禁止だったのが、残念無念…。

       

   4階の常設展フロア(1940-1970年代)には、ウォーホルの『キャンベルスープ缶』やポロック、草間彌生らの作品も。

  

   カフェでズッキーニとバジルのパスタを注文し、ラテを飲んで寛いでからギフトショップへ。ティファニーでは何も買えなかったので、ここでお土産をゲット

2時半にグーゲンハイム美術館(The Guggenheim museum)前で友達と待ち合わせしていたので、1時45分ころ51stの地下鉄駅へ。アップタウン方面のホームで最初に来た電車に乗り、余裕で着けるハズだったのですが…。

ふと気づくと、何だかスピードが速い?! あれっ、これって各駅停車?! あわてて1つ目の駅で降りると、プラットホーム名は Court Sq-23st…。23stって、間違えてダウンタウン方面に乗っちゃった???

反対方向のプラットホームに行こうと思っても、ホームが見当たらない…。

一旦駅の外に出てグーグルマップでマンハッタンの地図を睨みながら23stの4、5、6系統の駅を探してウロウロ。なんだか様子が違うなぁ――なんかアジア系の人が増えてる? 近くにいた赤ちゃん連れのカップルに道をたずねたところ、

「あなたの見ているのはマンハッタンの地図だけど、ここはクィーンズよ!」

どうやらマンハッタン島から出ちゃったらしい!!! Court Sqという最寄り駅を教えてもらい、走ってプラットホームへ。電光掲示板しかない地下鉄駅とは違い、ちゃんと進行方向の各駅名が記されてました。なんと、R系統に乗ってクィーンズまで来ちゃったんですね…そういえば前日、NYC在住の友達に気をつける様言われたばかりでした(^^;

急いで友達に連絡を入れたところ、すぐ返事が来てひと安心(私は米国用、ロム専用のシムカードを使っていたのですが、友達はwifiなしだと携帯が使用できない状態だったので)。

  

約束の時間より20分ほど遅れてグーゲンハイム美術館にたどりつき、すぐ館内で友達に会うことができました(思っていたよりかなり小規模)。

当日の特別展示会はヴァシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky)。螺旋状になった回廊に飾られた絵を最上階から下へと見て回りました。一部の部屋では英アーティスト、ギリアン・ウエアリングの作品展も。

美術館巡りで少々疲れたので、いったんホテルに戻って休憩。夜はカーネギーホールにピアノリサイタルを聴きに行く予定(本当はデヴィッドバーン主演の『アメリカンユートピア』を観たかったのですが、チケットが取れず…)。が、何度やってもカード支払いのところで却下され、オンライン予約ができない…。仕方ないので会場で当日券を買うことに。

NYC3回目の友達がなぜかタイムズスクエア近辺で迷ってしまい、時間が…。「もう間に合わないから止めよう」という彼女をせかし、開演時間の8時ぎりぎりにやっと会場にたどり着きました。

ものすごく運がいいことに、まだ並んでいる人がパラパラ。素早くコロナのワクチン接種証明書とIDチェックを済ませ、大急ぎで窓口へ。

「ああ、もう最上階の席しか空いてないわね…そうだ、あなた達、学生でしょ?」

「????」

一瞬訳が分からずポカンとしている私を横目に、友達がすかさず「そうです」と返答。

「学生割引で一人$10ずつね」

本来なら$39のチケットが$10に!! 超ラッキー!

中年女性の旅行者を哀れに思ったのか、それとももう最後だからオマケしてくれたのか…?!

エレベーターで最上階まで登り、そこから更に階段を駆け上がって、ちょっと怖いくらい急な傾斜のバルコニー席にたどりつきました。

    

天井にいちばん近いバルコニー席

2分くらいして演奏者、マルク=アンドレ・アムラン(Marc-Andre Hamelin)が登場。クラシックに明るくない私はピアニストについて全く無知なのですが、超絶技巧作品や知られざる作品の演奏で有名なのだとか。

実は、本来ならハンガリー出身のピアニスト、サー・アンドラーシュ・シフのソロリサイタルの予定でしたが、怪我のため中止に。急遽アンドレ・アムラン氏がピンチヒッターで登場することになったらしいです。

演目もモーツアルトのピアノソナタ数曲から、バッハのウッタームベルグ ・ソナタ第2番、ベートーベンのピアノソナタ第3番と29番に変更。驚いたことに、2時間以上の演奏とアンコールのあいだ、楽譜なしだったんです!

演奏も素晴らしかったけど、ステージの真ん中でたったひとり黙々とピアノを弾く姿に感服しました。

こうしてNYC滞在4日目の夜が更けていったのでした。

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ニューヨーク! ニューヨーク!(その2)

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ニューヨーク!ニューヨーク!(その2)

3日目

この日はゆっくり始動することにしたので、ホテルでもらった20ドルのバウチャーで朝食を注文。ホテル内には飲食施設がないため、テイクアウトのサービスです。

朝食が届くまでの間(45分)に、ホテルの近辺で見つけたカフェへ。最初、ラテを買ったらすごく美味しくて、NYC滞在中に3回も行きました。

    4月中旬の復活祭にむけて、あちこちにイースターの飾りが。自然災害援助のチャリティをしているレストランもイースター仕様(左)

   注文した朝ご飯はこの紙袋で部屋まで配達してくれます。ジュースとミカンは前日Whole Foodで購入したもの。トーストとスクランブルエッグとバーガー?で$15+税金(¥2000以上)って高っ!  バウチャーがなかったら注文してない(^^;

朝ご飯のあと友達と合流し、まずはロックフェラーセンター(Rockefeller Centre) の展望台へ。天気は今ひとつでしたが、今度は朝のNYCを眺めることができました。

  

  エンパイアステートビルの向こうに見えるのはハドソン河(左)。前日行ったセントラルパークも一望できました(右)

  通路でちょっと迷って外に出ると、目の前に地球を支える力強いアトラウ像が。その向こうには超高層ビル群の谷間に聖パトリック教会が佇んでいました

その後、カフェで昼食を済ませて再びニューヨーカーの友達のアパートへ。彼女の案内でイースト河の船着き場まで10分ほど歩き、通勤用のフェリーに乗り込みました。

金融街の船着き場でフェリーを降りて、ウォールストリートを通り、ワールドトレードセンターの9/11メモリアル&博物館前へ。

  入館しなかったので、メモリアルは外から撮影(左)。隣にあるオキュラス(Oculus)はショッピングセンターと駅がある超モダンな建物。恐竜の骨を思わせる造りが興味深かったです

オキュラスでお茶をしてから友達に別れを告げ、私達はスタットン島への無料通勤フェリー乗り場へ。

   夕暮れ時になってから日が射してきたので、夕日に染まる自由の女神を見ることができました

この後、地下鉄でリトルイタリアまで行ってホームメイドのパスタを堪能しました。パンデミックのせいで道路沿に簡易飲食スペースを設けているレストランが多く、ちょっと寒いけどフェアリーライトやキャンドルの灯でなかなかいい雰囲気。ニューヨーカーの友達とNYC3回目の友達のおかげで、お得な観光ができて感謝、感謝でした。

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ニューヨーク!ニューヨーク!(その1)

夫のコロナ感染や旅行会社とのゴタゴタもあったのですが、私は3月28日から1週間ニューヨークに行ってきました。2年間のロックダウン後はじめての海外旅行、初めてのNYC。まるで夢の様な時間から1か月が過ぎ、写真を見返してはあの空間と時間を懐かしんでいます。

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当日も予約したタクシーが遅れたりして、無事ニューアーク空港(EWR)にたどり着いた時は本当に安堵しました。少し迷ったあと、雪がちらつくバスターミナルからマンハッタン行きの空港バスに乗車。グランドセントラル駅前でバスを降り、「高層ビルだらけ、まさしく摩天楼!」と興奮しながら、徒歩4分ほどのところにあるホテルへ。

ミッドタウンのパークアヴェニュー70番にあるホテル

なんと、私の部屋は広~い角部屋でした!大当たり!! 友達とスタンダードの Queen Sizeサイズの部屋を1部屋ずつ予約したんですが、彼女の部屋の2倍以上。バスローブや冷蔵庫までついてて、神様がこれまでの苦労を労ってくれたのかと思ってしまいました^^;

少し休憩してシャワーを浴びてから外出。まずはグランドセントラル駅構内中を見学してから歩いてタイムズスクエアへ。

駅の向こうに見える塔は、アールデコ様式が美しいクライスラービル

  映画でもお馴染みの大広間のようなコンコース。プラットホームが全く見えない設計が見事で、天井を飾る黄金の星座画が美しかったです

タイムズスクエアまでは歩いて15分かからない距離。すっかり舞い上がって写真を撮っていたら、歩道と道路の段差につまづいて転倒!数十年ぶりに膝小僧をすりむいて、大きな青あざをつくるハメに(^^; 「夜のNYCは危険」と思い込んでいたんですが、コロナのせいか観光客も少なく結構安全な感じ。ブラブラ歩き回って、夕食は行きついたパブでハンバーガーを食べましたが、味は今ひとつ…。

2日目

この日はアッパーイーストの82丁目に住む友達宅を訪ね、セントラルパークを案内してもらう計画。

  

ホテルを出てカフェを探しながらふと見上げると、晴天の空にエンパイアステートビルが。NYCにいるんだなという実感がひしひしと湧いてきました。気温はマイナス2度だけど、太陽が出てるのでそれほど寒く感じません。クロワッサンとフルーツと紅茶の朝ごはんを食べて、アップタウン方面の地下鉄に乗車。

1930年代に建てられたという友人の管理人付きアパートは明るくて、内装もおしゃれ。セントラルパークまで歩いてすぐの好立地です。この日は公園の西側72丁目にある、ジョンレノンの住居だったダコタハウスを目指して公園内をぶらぶら。

ジョンがよく散歩に訪れたという区域はストロベリーフィールズと名付けられ、モザイクタイルで造られた「イマジン」碑の周りにたくさんの人が集まってました。そこから歩いてセントラルパーク南西入口の円形交差点、コロンブスサークルへ。大規模なショッピングモール The Shops at Columbus Circle の高級スーパー、ホールフーズで果物を購入。

     円形の「イマジン」記念碑(左)とダコタハウス(中央)。1980年12月8日、このゲート前でジョンはファンに銃殺されたのです。享年40歳、5年間主夫としてヨーコとの息子ショーンの子育てをした後、音楽活動を再開した頃でした。ショッピングモールの上階から8番街へと延びる円形交差点を見下ろして(右)

今やすっかりニューヨーカーになった友達と別れた後、ホテルに戻る道すがら映画でもおなじみの公共図書館本館へ。1911年に開館したこの建物はミッドタウンのランドマーク。3階建ての巨大な建物には地階もあり、収蔵冊数は約250万冊、 24×91㎡の中央閲覧室をはじめ様々な閲覧室、オフィス、美術展示室などがあるそう。アンディーウォーホルなどのアーティストも常連だったとか。

   5番街の正面玄関、両側に2頭のライオン像が。正面入口のアスターホールは大理石造りで天井の高さは10m。右は閲覧室のひとつ

一旦ホテルに戻り、日が暮れ始めるころ歩いてエンパイアステートビルへ。風が冷たかったですが、宝石箱の様にキラキラ光るニューヨークの夜景を堪能できました。

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緘黙支援 放課後の教室でビデオを活用

イギリスでは今週から3学期が始まりました。学校へ向かう途中、八重咲の並木道が迎えてくれて心がほっこり。花と同時に出てくる葉っぱを見ると、いつも桜餅を食べたくなります。

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私は息子が小1(5歳・担任の参加なし)と小2(6歳・担任の協力あり)の時に放課後の教室訪問を試みました。その結果はというと、う~ん効果があったのか、なかったのか、明白にはいえません。

ただ、「自分は教室/ 学校で話すことができる」という概念を子どもが持つことで、自信につながったのではと思っています。また、言葉が出なくても、「不安が少ない状態で教室にいる自分」に慣れる機会では?

イギリスでは授業が終わると生徒は校舎から出ることが原則になっているので、教室に生徒が残ることはめったにありません。また、教室で翌日の授業の準備をする先生もいますが、スタッフルームに引き上げることがほとんど。

IEPに緘黙支援が入っている場合、支援セッションは原則的に放課後ではなく授業中。それは教室の片隅だったり、別室(子どもは通常の授業を抜けます)だったり。放課後は先生たちが自由に使える時間――だから、教室で担任やTAと何らかのセッションを行いたい場合は、学校側にお願いすることになります。

日本だと校則が厳しそうなので、保護者が学校内に入ること自体が難しいかもしれませんね。そして、支援が受けられるかどうかは担任次第のところが大きそう…。

担任が参加してくれるか・くれないか、セッションの回数や時間など、条件は様々でしょう。教室での活動については、これらの条件を考慮して事前に綿密な計画をたてる必要があります。

ここでは実際の活動内容は省きますが、放課後や学校の休みに教室を使わせてもらえるなら、その機会を利用してビデオ活用をお勧めしたいです。今はスマホがあるので簡単ですよね。ただし、事前に学校に許可をもらうことを忘れずに。

(なお、この設定は小学校低学年までくらいを想定しています)

ビデオ撮影のお勧め

1) 言葉が出ない場合

  • 子ども自身にスマホを持たせて、自由に好きなものを撮影させる。帰宅してから、一緒にビデオを観て撮影したものの説明をしてもらう。
  • 子どもが撮影している間、反応をみながら展示物などについて「これ図工の時間に作ったんだね」などと話しかけてみる。応答があるようなら、「〇〇の席はどこ?」「この絵はいつ描いたの?」など質問してみて。短い返答が返ってくるかもしれません。無理に答えさせようとはしないこと。

家で教室の映像を何度も見返して、教室に慣れさせる。学校のこと、クラスのこと、先生のこと、好きな友だちのことなど、子どもの様子を見ながら気軽におしゃべりできたら、不安を減少させることができるかも。

2) 言葉が出る場合

  • 教室で話している子どもの姿を撮影する
  • 子どもとおしゃべりしながら、子どもの席を含む教室のあちこちを撮影する

家で映像を何度も見返して「◯◯ちゃん、ちゃんと教室で話せてるね」と言葉がけをする。あとは1)と同様に、学校に関して楽しくおしゃべりする。

3) 担任が参加してくれる場合

  • 担任が子どもに挨拶や質問するところをビデオに取らせてもらう

家で映像を見返して、挨拶や返事の練習をする

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緘黙児の特徴のひとつに、場所・人・活動に馴染むのに時間がかかるというのがあります。夏休みなど長期の休みが入ると、それまで馴染んでいた学校環境がまたまた縁遠くなってしまうのです。新学期に学校に戻ると、またはじめからやり直す感じになることも…。

もし放課後や学校の休みに教室や校庭を使わせてもらえるなら、教室だけでなく校門、校庭、昇降口、子どもの下駄箱、廊下、トイレなど、子どもが毎日使っている場所の写真を撮ってください。その写真を使って、本人の解説が入った学校の本を作ってみてください。特に、休みの間に見返すと効果的です。

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