11月ももう半分過ぎてしまいましたね。イギリスでは冬時間に切り替わってから日暮れが早く、時間が経つのが本当に早い気がします。
昨年は中止になった近隣の花火大会が今年は決行。燦めく光を求めて多くの人が集いました
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場面緘黙啓発月だった先月に開催されたSM H.E.L.Pサミットでは、ティーンと大人の場面緘黙がテーマでした。印象的だったのは、イギリスで緘黙治療の第一人者と言われるSLT(言語聴覚士)マギー・ジョンソンさんの講演。その内容を数回に分けてお伝えします。
場面緘黙との出会い
マギーさんが場面緘黙と出会ったのは偶然のことでした。SLT(言語療法士)の資格を取って初めて治療にあたったのが、話さない15歳の少年。保護者も周囲もどうしていいか判らず、少年は寄宿制の特別支援学校に入れられていたとか。唯一話せる相手、母親から切り離されてしまっていたのです。
新米SLTのマギーさんの仕事は、当時「選択性緘黙(Elective Mutism)」と呼ばれていた症状を持つこの少年を話せるようにすること。初めて聞く症状名――1976年当時はまだインターネットもなく、医学事典に載っていたのは「本人が話すことを拒否している」という説明。
(「選択制緘黙」は80年代前半にDSM-III(アメリカ精神医学会による診断・統計マニュアル Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)に初登場しましたが、話すことへの継続的な拒否(persistent refusal to speak)とされていました)。
少年は母親と連絡を取るために、寄宿舎の公衆電話を使わなければなりませんでした。そこには他の生徒や教師がいて、話したら声を聞かれてしまいます。彼は受話器をトントン叩いて音を出すことで、母親とコミュニケーションを取っていたそう。
マギーさんは「当時は何も知識がなくて、彼と向かい合って座っていたの。私の視線をまともに受けて、長い沈黙がどんなに苦しかったことか」と回想します。
ある日のこと、沈黙し続ける彼のほほにひとすじの涙が…。それを見て、マギーさんは「話すことを拒否してるんじゃない。わざと話さないんじゃない。専門書は間違っている!」と直感したそう。でも、どうしたら助けられるのか判りませんでした。
この少年は1年後に学校を去ったそうですが、その後彼が自殺を図ったことを知り、マギーさんは大きなショックを受けました。そして、この体験こそが彼女を場面緘黙の治療法を見出すミッションへと駆り立てたのです。
この少年との出会いがなかったら、マギーさんが世界に先駆けて多くの場面緘黙児や青年、成人を助けることはなかったと思うと、運命的なものを感じます。
次の緘黙ケースは、同じように寄宿学校に入れられた8歳の男の子。この時は、まず話すことへのプレッシャーを取り除き、非言語でコミュニケーションを取るよう指示しました。子どもが話したいと思っていること、何かが話す妨げをしていること、それは不安によるものらしいと気づいたからです。
教育心理士に相談し、自分の持つコミュニケーション法の知識と心理士の持つ不安の知識を掛け合わせて、スモールステップ方式の取り組みを考案。幸いにもこれが功をなし、少年は1年半でマギーさんと話せるように。そのあと6か月で誰とでも話せるようになりました。なによりも、彼が幸せそうになったことが本当に嬉しかったとか。それ以来、学校でもクリニックでも同様の対処法を使うことにしたそう。
この間アメリカでも場面緘黙の研究が進み、1994年に発表されたDSM-IVでは症状名が「場面緘黙(Selective Mutism)」と変更され、「ある場面では継続的に話せない」という記述に。それでも、どこから不安が来るのかはまだ謎でした。
(長いので、次回に続きます)
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