クリスマスまであと2日

今年もクリスマスまであと僅かとなりました。ここのところ、クリスマス会や忘年会が続いたうえ、カード書きと家族&親戚へのプレゼント選びに追われる日々…。やっと9人分のプレゼント(各自複数個)を買い揃えてラッピングを終え、恒例のクッキーも焼き、ほっと一息ついたところです。

    今年最後の授業は水曜日に終了。教室の近くにある森の樹木はすっかり葉を落として冬の様相。

家々のドアには、それぞれ趣向を凝らしたリースが飾られて

   フルーツを使った香り高いクリスマス飾り。赤ワインにオレンジなどの柑橘類やスパイスを入れた暖かいモルドワインが出回る時期です

年の瀬を迎える12月はどこの国でも慌ただしいと思うのですが、イギリスではクリスマス前がそのピーク。海外でクリスマスホリデーを過ごす人も多く、美術館などの観光スポットがひっそりする時期でもあるのです。ゆっくり鑑賞できるうえ、ショップもカフェも人がまばら。プレゼント選びもできるので、一石二鳥です。

      

クリスマス飾りが施されたテート・ブリテンの正面玄関

昨年も出かけたのですが、冬休みに入った息子に付き合ってもらい、テムズ河南岸にあるテート・ブリテンへ。彫刻家、レイチェル・ホワイトレッドの個展と普仏戦争を逃れてロンドンに亡命したフランス印象派アーティスト達の作品展(1870~1904年にイギリスで制作されたもの)を観てきました。

レイチェル・ホワイトレッド(1963年~)のインスタレーション

その昔―イーストエンドでハウスシェアをしていたのですが、1993年に地区開発のため近所にあった一連のテラスドハウスが壊された際、1軒だけ残した家を利用して彫刻を造ったのがこのアーティストでした。作品『家』は、家の内側に液体コンクリートを流し込んで型を取り、外側にある家自体を全部取り壊したもの。当時、賛否両論を呼んで大きな話題に。ガランとした空間に巨大なコンクリートの箱を積み上げたような家がポツンと立っていたのが印象的でした。

    何だかガランとしていますが、準備中の荷物みたいなのが彼女の作品です

今日は、仕事納めをした友人と南ロンドンにあるダリッジピクチャーギャラリーまで足を伸ばしました。お目当ては、かのムーミンを生み出したトーベ・ヤンソン展。本当はイラストレーターではなく、画家を目指していたんですね…。小規模な展示会でしたが、複数の自画像やムーミンの原画、ムーミンが生まれるきっかけとなった第二次世界大戦中の雑誌の表紙絵など、貴重な作品を観ることができました。

ボケボケですいません…

会場は撮影禁止だったので、廊下にあったステッカーを撮影

イギリス人の友人も大のムーミン好きで、ショップで何を買おうかと迷うことしきり。私は自分へのクリスマスプレゼントに、絵本と塗り絵付きの日記帳を購入しました。

     追記:購入した絵本と日記帳とトランプ。青い表紙の絵本『誰がトッフルを慰めるの?(Who Will Comfort Toffle?)』は、ムーミン谷を背景になかなか周囲になじめない孤独な少年、トッフル を描いた物語です。なかなか自分に自信が持てないお子さんに読んであげるといいかもしれません。

それでは、みなさん素敵なクリスマスをお過ごしください。

 

 

クリスマスの季節再び

早いもので、今年も残すところあと一ヶ月を切りました。クリスマスが近づくにつれ、ロンドンの街全体が心浮き立つ雰囲気に包まれます。年の瀬で気ばかり焦るのですが、クリスマスの飾りつけもカードも、贈り物の購入もまだスタート地点に立ったまま…。

先週、友達に誘われて久しぶりにロンドン中心部のオックスフォード・ストリートに行ってきました。デパートが立ち並ぶこの通りは、ロンドンで最も賑わうショッピングストリートのひとつ。いつ行ってもすごい人混みなので、用事がある時以外は避ける場所です。

 

  各デパートがクリスマス商戦を競い、ウィンドーを覗くのが楽しみ

待ち合わせは庶民的なデパート、ジョン・ルイスの屋上。ルーフトップガーデンにクリスマス飾りを施したログキャビンが出現し、ドリンクや食事を楽しめるのです。私は初めて行ったのですが、繁華街のデパートの屋上とは思えない、ほのぼのとしたムードでした。

 

ジョン・ルイス店内のクリスマスデコレーション

   

4時半を回って辺りが薄暗くなると、電飾が輝いてなかなか幻想的。メインのカフェに入り、ホットチョコレートで乾杯しました。カフェの外壁は透明のプラスティックで覆っただけなので、風が吹く度に冷たい隙間風が…。防寒対策のブランケットがあって大助かりでした。平日だったためか空いていて、「カウントダウンに入ると混むから、今のうち」と日付を決めた友達の狙い通り。久しぶりのおしゃべりを楽しむことができました。

   すっかり暗くなった大通り。節約のためか昨年のクリスマスライトを再利用

  

リージェント通りの天使のイルミネーションも昨年と同じ

クリスマスまであと20日あまり…仕事や用事をはやく済ませて、クリスマスホリデーをゆったりと過ごしたいものです。

息子の緘黙・幼児期4~5歳(その16)トイレの問題

緘黙児が学校でトイレに行くのを我慢することは、かなり多いようです。息子も例にもれずそうでした。帰宅するなりトイレに駆け込むことが多かったです。

担任に訊いたところ、「トイレタイム」を設けて、行きたい子は行くよう促しているとのことでしたが…。本人がそのことに触れられるのを嫌がるので、「ちゃんとトイレに行こうね。怖くないよ」と言ってあげるくらいしかできませんでした。

息子は普段からあまり頻繁にトイレに行く子ではなかったのですが、我慢するのに慣れたのか間隔がより長くなったような…。学校に毎日持参する水筒の水はあまり減ってなくてー多分、トイレに行かなくていいように水を飲むことを控えてたんでしょうね。

お粗相をしたことはなかったので、先生もそこまで気にかけてなかったと思います。もし学校でお漏らししてしまったら、4、5歳といえど本人はすごく傷つくはず。親としては、極力阻止したいですよね。

緘黙児は話せないから「トイレに行きたい」とは言い出せないし、基本的に目立つことを極端に嫌うため、自分から行動することは難しいのです。「トイレカード」を使うという方法もありますが、自主的にカードを見せてトイレに行ける子は少ないのでは?

先生が時間を見計らって誘ってあげたり、クラス全体にトイレタイムを促したりする方が、本人は行きやすいと思います。目立たないように、さり気なくがポイントです。

ちなみに、私が3年ほど前にレセプションクラスで自閉症の男の子のお世話をした時は、様子を見つつ1時間半おきくらいにトイレに誘ってました。毎日お漏らししていたのが殆どなくなって、本人も私もほっと一安心。心なしか、クラスでのびのびできるようになったような…。

あと、教室で緘動状態に陥り、大人が手を添えないと何もできないという緘黙児もたまにいます。声を出すことだけでなく、体を動かすことも、酷くなると机から動くことすらできなくなってしまうのです。

緘黙と同様、時間が経てば慣れて動けるようになるという保証はありません。「そのうち慣れる」と放置しておくと、症状が定着してしまう恐れもあります。年齢があがると、パニック障害など他の不安障害を併発する可能性も出てくるので要注意。

緘動の子どもには、声掛けをしたり、手を添えたり、着替えの手伝いをしたり、優しく見守ってくれる大人が不可欠だと思います。

イギリスの学校だと、担任の他にTAがいるので大人が介入しやすいですが、これも学校の方針や予算、クラスの状況次第。緘動が長引くと学業や社会性に大きく影響してくるので、SENCo(特別支援コーディネーター)が個別教育プランを立てたり、CAMHS(Child and Adolescent Mental Health Service)への受診を勧められるケースが多いよう。

私が知っているイギリスの緘黙児の中には、緘動状態が1年以上も続いたため、保護者が学校にかけあった末、EHCplan(Education, Health and Care Plan 教育・健康ケアプラン)に申請をした子もいます。認可されれば、地区の教育委員会から特別予算がおりるので、その子のためにTAを雇うことが可能になります。

日本だとクラスに大人は担任ひとりということが多いと思うのですが、どの程度の支援をしてもらえるんでしょう?

学校で動けない・話せない本人は本当に辛いと思うので、保護者も積極的に学校と連絡を取り合って状況を改善させて欲しいと思います。子どもは親にとっては唯一の存在ですが、学校では「クラスの中のひとり」でしかありません。忙しい担任や学校がどのように対処しているのか見定めて、「これはマズイ」と思ったら、早めに介入してください。

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息子の緘黙・幼児期4~5歳(その13)

息子の緘黙・幼児期4~5歳(その14)

息子の緘黙・幼児期4~5歳(その15)

息子の緘黙・幼児期4~5歳(その15)今見ても切ない…

この春やっと改築工事が終わったうちの屋根裏部屋は、17歳になった息子が陣取っています。2階の部屋から移った際、「もう要らないから」と山積みにしたのは、本箱の片隅にとっておいた幼稚園時代からの絵や学習帳など…。

捨てちゃったら、大人になってから懐かしく見返すことができないのに――。

(ものを捨てられない私は、むかしから整理整頓が苦手。対して、主人と息子は実にキッパリと持ちものに「不用」の烙印を押し、ネットオークションで売ったり、捨てたり、人にあげたり。後で、「あーっ、しまった!」と後悔することも少なくありません)。

ちゃんと箱に入れて物置にしまおうと思いつつ、ずーっと手つかずのまま…。中を見てみたら、学校が作ってくれたレセプション時代の記録ブックが出てきたのです。

当時4歳の息子の絵や写真に加え、先生の言葉も書かれています。最初のページには、2005年2月上旬の写真が。1月後半に入学してその2週間後、場面緘黙になり緘動もあったころです。

「一日のほとんどカーペットに座ったままで、周囲の子ども達のすることを見ています。仲間に入ろうとせず、大人の誘導が必要」と担任の言葉。

床のカーペットにひとりポツンと座り込み、困ったような顔で周りを見ている息子の姿…。

今見ても、とても切ないです…。

 

知らない子達の中、不安で自分からは動けないんです。

仲間に入りたくても、入れないんです。

緘動だったんです。

同ページのもう1枚の写真には、「大人が何度も声掛けしても、自分の名前を書くのに30分以上かかりました」とあります。名前は幼稚園の頃に書けてたのに…。

(幼稚園の記録ブックを見ると、親友と遊んでいる写真が多く、この頃は緘動ではなかったことが判ります)。

でも、次のページには活動テーブルに座ってジグソーパズルをしたり、字を書く練習をしたり、玩具で遊んでいる写真があって、ほっ。

日付は2月下旬頃からのもので、よく見るとお隣にいつも同じ男の子がいるのです。入学して2週間弱、「やっとお友達ができました」と担任に言われたB君でした。

(B君も早生まれで1月に入学。後にB君ママから聞いたのですが、息子が緘黙・緘動になった頃、B君は水疱瘡にかかって10日ほど学校を休んでいたとか。やっと親しくなりかけた子が突然いなくなったことも、息子の心理に影響したかもしれません)

レセプションクラスは就学準備コースのようなものなので、幼稚園とほとんど変わりません。子ども達は好き勝手に教室内の複数の活動テーブルや専属の中庭を移動して、遊びながら学びます。その中に、算数や国語の基礎をやらせる活動もあり、先生やTAが「サイコロを転がして、1から6までの数字を書く」というような課題をさせます。

みんなが好き勝手にあっちこっち動き回り、複数の課題を簡単にこなしているのに、息子は活動テーブルに行くのも最初はTAに誘導されていたよう…。B君となら一緒にいても大丈夫らしいと気づいてくれ、同じ活動をさせる配慮してくれたのだと思います。

緘黙ではなくても、不安を感じている子どもにとって安心できる環境作りは本当に大事。今考えても、とってもありがたいです。

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息子の緘黙・幼児期4~5歳(その14)

息子の緘黙・幼児期4~5歳(その14)褒めて自信をつけさせる

この秋は例年に比べ暖かでしたが、11月に入ってさすがに冷え込みが厳しくなってきました。森の中の散歩道は、高い樹々からハラハラ散る葉っぱで埋もれています。イギリスでは落葉樹はそれほど紅く紅葉せず、黄色くなって散ることが多いよう。

     しーんと静かな森に、時折カサコソとリスが動き回る音が

さて、息子の緘黙の続きです。

学校も、母親の私も、どうして息子が教室で固まって動けなくなったのか理由が判らないまま、支援がスタートしました。

以前、教室で息子と一緒に過ごした際、息子の顔が能面のようになったのを見て心底驚いたことを書きました(詳しくは『息子の緘黙4〜5歳(その10)』をご参照ください)。これに加え、もうひとつ驚いたのは、息子の描く絵が変わったこと。

息子は割とお絵描きが好きで、黄色やオレンジなど明るい色彩を使ってカラフルな絵(線画っぽい)を描くことが多かったのです。でも、この時期に学校から持ち帰ってくる絵は、まるで別人のもの。色使いが黒っぽくなり、人や動物などの対象ではなく細い線でグルグルと塗りつぶしたような感じに…。

一番ショックだったのは、赤黒いボールペンで一面を塗りつぶしたような絵。たまたま近くにあったボールペンを手にしただけかもしれませんが、「えっ、なにこれ?!」と不安になりました。もしかしたら何か心理的な問題を抱えているのかもと、怖くなったのです。

この頃、息子と同じような子はいないものかと、毎日深夜までネットサーチをしていました。自閉症児のお母さん達が綴るブログを読み漁って、その子育ての大変さに驚かされ、ふと気づくと午前1時を周っていたり…。でも、なんか違うんですよね。

主人は親身になってくれないし、ひとりぼっちで暗いトンネルの中にいるような心持ち。寝不足も手伝って、毎日が不安でたまりませんでした。

でも、癇癪は増えたものの、家での息子は以前とあまり変わりません。学校に行きたくないとは一度も言ったことがなく、毎日普通に登校してました。学校が終わって教室から出てきた後、クラスが違う幼稚園時代の親友T君と校庭を駆け回る姿を見るのが救いでした。

T君のママには、息子がクラスで動けなくなってSENCOとミーティングをしたことは黙っていました。放課後は以前と変わらず動けて遊べているので、なんとなく言い出せなかったのです。

ある日、教室で保護者が子どもの様子を見学できる日がありました。たまたま担任が息子の側にいたんですが、二人の女の子がやってきて、「先生、◯◯君はどうしてやらないの?」と息子が課題をしないことに触れたのです。

すると、先生は「◯◯君は準備ができたら自分でするから、放っておいてね」とにっこり。女の子たちは納得したのか、すぐどこかに行ってしまいました。その言葉に、「さすが個人主義の国だな」と妙に感心した記憶があります。

担任は大学を卒業したばかりの若い先生でしたが、姉御肌というか、包容力があってとても頼りがいのある女性。よく泣いてる子を膝にのせて(本当はダメなんですが)いたのを覚えています。

「日本語で”It’s all right”は何ていうの?」と私に訊いてくれて、息子にはよく「大丈夫、大丈夫」と日本語で声かけしてくれていたよう。それから、息子が何かできた時には、ご褒美の黄色いCertificate(頑張った子への証書)を気前よく出してくれました。

毎週何枚かCertificateをもらってくるのですが、ある日の放課後クラスの子が寄ってきて、「あ~、僕まだ1枚しかもらったことない!いいな~!」と羨望のまなざし。後でクラスのママさんに訊いたら、普通はそんなに頻繁には出してもらえないんだとか…。全然知りませんでした。

イギリスではよく「褒めて育てろ」と言うんですが、不安を抱えている息子に自信を持たせようとしてくれてたんですね。

そんな温かい支援のおかげと、学校生活への慣れもあってか、息子はなんとか動けるようになり、徐々に課題もこなせるようになっていきました。緘黙は続きましたが、緘動は1、2ヶ月で脱出できたようです。

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息子の緘黙・幼児期4~5歳(その11)

息子の緘黙・幼児期4~5歳(その12)

息子の緘黙・幼児期4~5歳(その13)

息子の緘黙・幼児期4~5歳(その13)学校での取り組み

秋も深まり、黄色く紅葉した落葉樹の葉が散り始めました。10月末に時計を1時間進めて冬時間になったため、午後4時半を過ぎると、つるべ落とし式にまっ暗。もうすぐ冬だな、としみじみ思う今日この頃です。

さて、息子の緘黙の続きです。

今から思えば、滑り台事件のあと息子は緘黙のみならず、すっかり緘動状態になっていました。でも、その時は私も学校側も「場面緘黙 Selective Mutism」という言葉すら知らなかったのです。2005年当時は、イギリスでもまだ場面緘黙が良く知られてなかったんですね。

イギリスだったら、すぐ保護者が学校に行って子どもを支援できそうと思われる方もいるかしれません。でも、実際はそうでもないのです。学校によって方針は異なり、家族が直接学校でできる支援はピンからキリまで。

ちなみに、息子の小学校の幼児部 (Infant School 4〜7歳)では、クラス35人の子ども(4~5歳児)に対して、担任とTAがつきます。更に、クラスにアスペでStatementを持つ子がいたため、その子専用のTAが定時間ついていました。これに加え、複数人の母親がクラスヘルパーとしてお手伝い(ひとり週に1回2、3時間程度だったような)。

私もヘルパーになれれば良かったのですが、早生まれの息子が1月に入学した時には(通常は9月から)、既に空きはなし。その時は、「自分が手伝えるかも」ということは全く思いも浮かびませんでした。

(余談ですが、「何故X君とY君のママがクラスを手伝ってるんだろう?」と最初は不思議に思ってました(笑)。入学式も保護者説明会もなく、お知らせは学校が出す週1のニュースレターか担任からのノートのみ。学校やクラスのシステムは、お迎え時間にクラスのママ達とおしゃべりしながら学んだのです…)

ということで、息子が教室で動けなくなった当時の支援は、すべて学校にお任せでした。場面緘黙への対策ではなく、教室で動けない生徒への対策でしたが、学校の取り組みはすごく的を得ていたと思います。

最初にSENCOに会った時、次のように支援していくという話になりました(息子の緘黙・幼児期4~5歳(その9)をご参照ください):

  • 幼稚園時代からの仲良しのT君(別のクラス)となるべく一緒に遊べるようにする
  • 小さいことでも何かできたら褒め、少しずつ課題や活動ができるようにする

イギリスでは特別支援が必要な子どもをSEN(Special Educational Needs)リストに加え、症状に合わせて支援していきます。身体的・発達的・精神的な問題で「学習における困難さや障害」を抱える子どもは、症状の程度にかかわらず何らかの支援を受けられるシズテム。障害が重く、地区の教育委員会から認定を受けると、Statement(現在はEHCプランに切り替え)が発行され、学校にその子のための予算がおりるので、追加のTAを雇えるのです。

SENCOとの初めてのミーティングしたのが2月の終わり。その後、SENCOと担任が相談して、もっと具体的なIEP(Individual Educational Plan 個別教育プラン)を立ててくれました。

サポートの形式: 小グループもしくは1対1

ターゲット1: 毎日自分でひとつアクティビティを選ぶ

  • 達成基準:毎日観察
  • リソース&テクニック:ブロックやレゴなど組み立て式の玩具を使用
  • 作戦:他の子どもや大人と一緒に行う
  • 担任とTAへの提案:隣で遊び方をデモンストレーション&説明

ターゲット2: 大人の呼びかけに、顔を見て対応する

  • 達成基準:1対1、小グループ、クラス
  • リソース&テクニック:名前を呼び、ジェスチャーを使ってフォーカスさせる
  •            できたら褒めて、正しい行動を強化する
  • 担任とTAへの提案:誰かに話しかけられたらその人の顔を見るよう話す

(レセプション・クラスは就学への準備コースのような感じで、遊びながら学ぶ方式。やっていることは幼稚園とあまり変わりません。教室内の4つの大テーブルにそれぞれ違う活動・遊びがセットされ、毎日算数や国語の基礎的な課題を2つほどこなすよう、先生が誘導します。この他、クラス全員でカーペットに座って読みきかせやアルファベットなどを教える時間も)。

IEPは1学期ごとに見直し、成果を吟味したうえで次のターゲットを決めます。たいていは、保護者、SENCO、担任でIEPミーティングを行うのですが、専門家が関与している場合は専門家も加わります。

現在、IEPを立てることは義務ではなくなったようなんですが、文書にすることはとても有効だと思います。当時は、専門家が関わらない場合はSchool Action、加わる場合はSchool Action +となり、支援がより手厚くなる制度だったように思います。

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息子の緘黙・幼児期4~5歳(その11)

息子の緘黙・幼児期4~5歳(その12)

イギリスの緘黙啓発月間

あっという間に9月が終わり、すでに10月も末。ひとつの仕事が大体片付いたところで学校のハーフターム(1週間の中間休み)が始まり、やっとまったりできました。

たまっていた掃除と洗濯をした後は、PC中毒気味。それから、久しぶりに本を読んだり、しばらく会えなかった友達とお茶したり。今年の秋は怒涛のように過ぎてしまったな~と思いつつも、ぼーっと過ごす毎日…。

さて、イギリスでは毎年10月が場面緘黙の啓発月間。大変遅ればせながら、SMiRAの掲示板で拾ってきた情報をお伝えします。

SMiRAの今年の啓発イメージはこれ↓

娘が1対1で先生と話し始めた時、

彼らは「これで緘黙が治った」と思ったの。

気づかなかったのね。

これはまだ始まりにすぎないって、

克服への道のりは、まだまだ遠いということを。

掲示板の投稿で興味深かったのは、世界有数のこども病院でロンドンにあるグレート・オーモンド・ストリート・ホスピタルが、今月6日に発表した研究論文。場面緘黙児に対するASD(自閉症スペクトラム障害)の診断方法についての研究です。

http://adc.bmj.com/content/102/Suppl_3/A31.2

(SMiRAでは、かつてから場面緘黙児(人)の中には一定の割合でASDとSMを併発している子ども(大人)がいるというスタンス。掲示板では、ASDの診断がおりた子どもに対する相談が増えているような…。親としてはとても気になるところです)

間違いがあるかもしれませんが、論文の抄訳を訳してみました。

<緘黙症状を呈する子供のための自閉症スペクトラム障害の診断経路の開発>

著者:マッケンナ、Kスティーブンソン、Sティミンズ、Mバインドマン

論文抄訳

背景:自閉症スペクトラム障害(ASD)は複雑な発達上の症状であり、至適な診断基準は多面的なプロセスを要する。我々のクリニックにおける診断は、標準化した発達問診(3DI)、標準化した半定型の尺度(ADOS-2)を用いた子どもとの直接の相互交流における観察を含む。診断評価が複雑になる要因のひとつは、ASD児の約70%がひとつ、もしくは複数のメンタルヘルス系の疾患や、さらなる発達の問題を併発していることによる。約40%のASD児が不安障害の基準を満たしており、その中には特定の状況で話すことができないという特徴を持つ場面緘黙が含まれる(SM; DSM-5)。この子どもたちは、ある状況では自信を持って話すのに、話すことが期待される他の状況では、一貫して話すことができない。最近の研究では、緘黙児の69%に発達に関連する障害が診断されており、うち7%はASDの一種であるアスペルガー症候群と診断されていることが報告されている。

方法:我々のASD専門アセスメントクリニックでは、ASDの疑いがある緘黙児が紹介されてくるケースが増えている。社会的コミュニケーションに対する評価が重要になるが、子どもがクリニックで話さないことがチャレンジとなる。現時点では研究は限られており、緘黙症状を持つ小児におけるASD診断については合意された評価プロトコルはない。我々はケーススタディを使用し、緘黙症状を呈する小児のASD診断のための評価プロトコルを開発している。これには、子どもの緘黙症状の程度やそれが診断に及ぼすインパクトを理解するため、最初の評価を延長することも含まれる。その情報により、子どもがクリニックで話さなくても包括的な評価ができるよう、ADOS-2に必要な変更を加えたり、観察を追加するなどの計画を立てることができる。

結論:緘黙児におけるASD診断のアセスメントには、診断の信頼性と有効性を確保するためのスタンダードなプロセスを維持しつつも、繊細かつクリエイティブで慎重に個別化したアプローチが必要であり、またそれが可能であると提案する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まず最初に目が行ったのは、最近の研究では、「緘黙児の69%が発達的な障害を持ち、その中でアスペルガー障害を併発している子どもが7%いる」という部分。これはHクリステンセンが2000年に発表した論文からの引用だと思われます。

「緘黙児の69%が発達障害を併存」ときくと、ASDの子が半分以上も?! という印象を受けませんか?でも、アスペルガーを併発している子どもは7%となっています。

日本で「発達障害」というと、「自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害、その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するもの」と定義されています。近年、広汎性発達障害という言葉が自閉症スペクトラム障害に置き換えられるようになりましたが、なんとなく発達障害=ASDというイメージが強くないですか?

文部科学省ホームページより:http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/hattatu.htm

英語でDevelopmental Disordersという場合、例えばDSM-5だと「発達障害」には精神発達障害、運動能力障害(発達性協調運動障害など)、コミュニケーション障害(表出・受容性言語障害や音韻障害など)も含まれます。これらが上記の「その他これに類する脳機能の障害」に値するのかもしれませんが、不明確だし「その他」については障害名も記されていません。

私は、緘黙の子どもがASDと診断される場合、高機能自閉症/ アスペルガーのケースが殆どではないかと思っています。というのは、高機能ではないASDの場合、3歳くらいで家族や園などが気づくことが多いと思うので。

抑制的気質の強い緘黙児は、感覚過敏があったり、極端に怖がりだったり・頑固だったりと、普通の子より育てにくい傾向があるように感じます。彼らをHSC(非常に敏感な子)と呼ぶのか、発達の凸凹がある子と呼ぶのか――でも、それが即ASDには結びつきません。対人コミュニケーションの困難を抱えているかどうか、見極める必要があります。

だいたい、自閉症スペクトラムという概念には、健常の人も含まれるのです。例えば、健常の人を水として、自閉症の人をオレンジジュースとします。水に少しずつオレンジジュースを加えていくと、どこから水ではなくなり、どこからオレンジジュースになるのか?

この図はウィキメディアからお借りしました。

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=51752079

大切なのは、ASDに限らず緘黙児が他に抱えている問題があれば、早期に発見して対処法を見つけてあげることだと思うのです。特別支援が必要な子どもと接してきて、治らない症状や障害であっても、子どもが抱えている生きづらさを軽減してあげることは可能だと感じているので。

ケント&東サセックス州のコテッジホリデー(その6)

9月に入って新学期が始まった途端に次々と問題が持ちあがり、その一方で日本から急ぎの仕事も入っていて、本当にあっという間に1か月が過ぎ去ってしまいました。ブログの更新もままならぬ内に、今日からもう10月(って、まだ深夜ですが)!

8月のホリデーはもうずいぶん昔のことのよう…。もういい加減にこの話題に終止符を打たないとですね。

…………………………………………………………………………………………………………………………..

ホリデーの最終日は、再びブライトンの東側にあるルイス近郊へ。まず訪れたのは、ブルームズベリーグループの主格だったヴァージニア・ウルフ夫妻の田舎の隠れ家、モンクスハウス。彼らは1919年にこの17世紀のコテッジを入手、週末はロンドンの喧騒を離れここで過ごすことが多かったようです。

 

 ロドメルという小さな村にあるモンクスハウスはナショナル・トラストの所有

入口は門から右にぐるっと回った中庭側あります

ヴァージニアの姉、ヴァネッサ・ベルが住んでいたチャールストン・ハウスにも近く、ここもブルームズベリーグループの仲間たちで賑わいました。でも、ロンドンからルイスまで鉄道で移動した後、駅から舗装されていない田舎道を車で走るのは結構大変だったとか。モンクハウスからチャールストンハウスまでは徒歩で2時間半弱ですが、姉妹は頻繁に行き来していたといいます。

ヴァージニアの彫像や肖像画が飾られた居間は、当時の面影が偲ばれて

ヴァージニアは次々と小説を発表して高い評価を受けますが、第二次世界大戦中の重苦しい空気の中、ロンドンの自宅が空襲で壊滅。モンクハウスに移住した後、うつ病が悪化して幻聴に悩まされ、執筆活動ができない状態に。1941年の春、愛する夫に遺書を残し自宅近くのウーズ川で入水自殺してしまいました。

      

もうすぐ朗読があるということで中庭へ出てみると、家と比較して随分広い!奥の方は果樹園になっていて、その向こうに村の教会の塔が見えました。シシングハースト城のヴィタの庭に似せたのか、庭を部屋のように区切ってそれぞれ違う仕立て。ちなみに、ヴィタとは別れた後もずっと友人であり続けたそう。

        

ヴァージニアが夏の間仕事をしたという東屋

     

 

      訪問客も巻き込んでボランテイアの男性がヴァージニア作品を朗読。右は夫レナード・ウルフの墓碑。二人の遺骨は楡の木元の下に埋葬されています

この後、主人の大学時代の友達と奥さんに会うため、アンティークの町といわれるルイスの中心地へ。早目に着いてルイス城を見学する計画を立てていたのですが、なんだか空が暗くなり雲行きが怪しくなってきました。

     

       今から1000年ほど前、イギリスを征服したノルマン公、ウィリアム1世の部下が建てた石造りの城。2つの丘に2つの天守閣を設け城壁で繋げた珍しい構造。

  

廃墟になった天守閣からは町が一望できますが、今にも降り出しそうな気配

たまたまウエディングの準備中だったのですが、お天気持つかな…

       

    場内はまだ結婚式の飾りつけ続行中でした。城門前ではウエディングゲスト達に遭遇

     

    待ち合わせのカフェBillsに向かう途中、土曜日のマーケットや素敵なアンティークショップを通過。町並みも可愛い。温かいエルダフラワードリンクが来たところで、ついに大粒の雨が!結婚式大丈夫だったかな?!

ということで、ホリデーの記事はこれでお終いです。最後までお付き合いくださった方、ありがとうございます。

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今回の旅行の目的のひとつは、名高いシシングハースト城と庭園を訪れることでした。主人の大学の同級生にプロのガーデナーがいて、「ケントで一番美しい庭」と推薦してくれたのです。

最初の印象は「あれっ?お城っぽくないなあ」というもの。もともと中世の豪族のマナーハウスだったそうですが、15世紀に所有者だったベイカー家が建物を増築し、爵位を授かってから「城」と呼ばれるようになったようです。16世紀には、敷地は2.8k㎡にも及ぶ広大なディアパークに。でも、エリザベス1世が200人のお供やゲストを引き連れて3日間滞在した際、費用が嵩みすぎて家が傾いてしまったんだとか…。

   メインハウス、タワー、図書庫の他、エリザベス王朝時代の厩舎やファームハウスなど、広大な敷地内は小さな村みたいです

その後、18世紀には牢獄として使用された時期もありましたが、次第に忘れ去られ廃墟に。その廃墟と土地を1930年に購入したのが、詩人で作家のヴィタ・サックヴィル・ウエストと貴族で外交官だったハロルド・ニコルソン(後に政治家)夫婦でした。

ヴィタはサックヴィル男爵家の一人娘として、英国最大の邸宅ノールで生まれ育ちました。が、男子でなかったため爵位と財産を引き継ぐことはできず…。シシングハーストに懐かしいノールを再建しようとしたといわれています。ロマンティックな趣のある建物や庭園には、彼女の郷愁が宿っているのかも。

   

  邸宅へと向かうゲートの中にはダリアの花が。二人が最初にキャンプした塔

とはいえ、暖房設備も何もない雨風吹きさらしの廃墟。当初は、寒さに震えつつ塔の中でキャンプしながら、屋敷の修理や庭造りに打ち込んだとか。

    (左から)階段を上る途中の窓に青いカラス器のコレクション。当時のまま保たれているヴィタの書斎。ウルフ夫妻の出版社、ホガースプレスで使用していた印刷機も

タワーにはヴィタの書斎や展示があるのですが、そこにあったヴィタとハロルドの交友関係図を見てビックリ。オープンマリッジを公言していた二人の恋多きこと(同性多し)!特に、ヴィタのレズビアンの恋人は10人以上も…。

その中で特に有名なのが、作家のヴァージニア・ウルフです(1920年代末から10年ほど)。ウルフはヴィタをモデルに『オーランド』を書いたことを、初めて知りました。私が最初に読んだウルフの作品が『オーランド』でした。

1992年にサリー・ポッター監督によって映画化された『オーランド』は、すごく記憶に残っています。主人公のオーランドを演じたのがティルダ・スウィントン。彼女はデレク・ジャーマン監督(今回の旅行で終の棲家と墓地を訪れました)に見出され、彼の作品には欠かせない存在でした。どこか人間離れした中性的な風貌が、オーランド役にぴったりだと思ったものです。

ヴィタとハロルドがデザインした、色やテーマの異なる個別の部屋を垣根やレンガの壁で巧妙につなげた庭園は、当時の画期的なデザイン。その頃、ヴィタが担当していた『オブザーバー』紙のガーデンコラムが大人気を博し、シシングハーストの庭も一気に知られるように。特に、白い花だけを配したホワイトガーデンが大流行したそう。

  

  塔の上から見下ろしたホワイトガーデンと咲いていた白い花々

   

  

バラの季節に訪れることができなくて残念…

庭を見て回っている途中で家族とはぐれてしまったのですが、その分ゆっくり堪能できました。彼らの一番の楽しみは、コテッジに戻ってソファに腰を落ち着け、PCをしたり(主人は地元ビールやサイダーを味わいながら)TVを観たり(受信料を払うのを止めたので家では観られない)することだったよう。二人とも私の趣味につきあってくれて、ありがたいことです。

ゲートをくぐって帰ろうとしたら、白いハトがやってきました

    ギフトショップで白いカボチャ、パティソンを2ポンド(約300円)で購入。見かけは芸術的ですが、カボチャというより瓜の感じで、カレーに入れたら今ひとつでした

 

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来週から新学期が始まるのですが、まだまだ夏休みの話題です。なんとか今週末までには書き終えたいと思ってます。

*      *      *      *      *

雨降りの木曜日には近隣の港町、ヘイスティングスへ。ここは1066年にヘイスティングスの戦い(実際の戦場は近くのバトルという町)でノルウェー軍がイギリス軍を破り、ウィリアム1世がノルマン王朝を築くことになった歴史的な町。ずっと昔、女友達二人と訪れた懐かしい思い出が。

クリフレールで崖を登って聖クレメンツ洞窟へ

その時、密輸業者がお酒やタバコを隠した洞窟やお城などは見たので、今回は港の東側にあるジャーウッド・ギャラリーへ。お目当ては、『チャーリーとチョコレート工場』などロアルド・ダールの児童文学の挿絵で知られるクエンティン・ブレイク展。(ちなみに、ダールは主人の母校の卒業生なんです)。

全然知らなかったんですが、クエンティン・ブレイクはヘイスティングスの住人で、ギャラリーから歩いてすぐのところに家があるんだとか。今回展示されている作品は、ここ6ヶ月くらいの間に描きあげたそう。

 

“The Only Way To Travel”と題し、100点あまりの作品を展示

          常設展示は20・21世紀のイギリスのアーティストの作品

ギャラリーの窓から見た港の風景

港にはその朝獲った魚を販売する小さな店がいっぱい。ランチは全員シーフードを注文。でも、マッシュポテトを乗せて焼いたフィッシュパイだと思って注文したら、まんまシーフードグラタンでした。美味しかったです。

イギリスにはお城が山ほどあるのですが、中でも堀に囲まれた14世紀の古城、ボディアム城はその美しい佇まいが人気。廃墟ながらその景観は未だに健在で、おとぎ話に出てくるお城そのもの。

 でも、どうしてお堀の中はでっかい黒鯉だらけ!?

   

別の日、ボディアム・ボートステーションからフェリーでロザー川を上って再びお城まで行きました。最初、主人と息子はカヤックに挑戦する予定だったのですが、根性無しの二人は「フェリーに乗ろう!」と。フェリーといっても本当に小さなボートでしたが…。

 途中、船長が乗客の女の子に舵を取らせ、家族に大ウケ

    

      帰り際に真っ黒な雨雲が出てきて、カフェで雨が過ぎるのを待っていたんですが、窓に数滴落ちただけですみました

今度こそカヤックに挑戦というので、次はイングランド南東部で一番大きいベウル湖に。が、湖の岸に行き着く前に貸し自転車屋さんがあって、二人の心はマウンテンバイクに移ってしまいました。彼らがバイクで遊んでいる間、私は湖を一周するフェリーでのんびり。

そうそう、水曜日の夕方コテッジに戻ってきたら、何と戸が開いているのです!もしかして、と思ったらコテッジの持ち主のお父さんがシャワーレールを修理してくれてました。貸しコテッジ業者と旅行保険会社にはすぐ連絡したのですが、反応が悪くてどうしようかと思っていた矢先。弁償かもと思っていたのに無料で修してくれて、本当に助かりました。

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