北風と太陽

ロンドンは例年になく秋晴れの日が続いていましたが、11月に入ってからは雨や曇の日ばかり…。そんな中、うちでは屋根裏の改装工事をすることになり、屋根裏に溜めてあったものを貸倉庫へと大移動。先週から本格的に工事が始まりました。

2003年に引っ越してきた時、屋根裏にはもう部屋があったんです。でも、それは素人がDIYで改築したもの。断熱材も入れてないので、夏は暑く、冬はものすご~く寒い…。現在の規定だと違反の部分がいっぱいあるんだそう。今までは、主人の事務所&ドラムの練習室、そして物置き&室内物干し場となってました。

実は、来年の春に着工予定だったのに、改装業社からいきなり「空きが出たから始める」と言われ、主人がOKしちゃったんですよね…。その主人は3週間前にヘルニアの手術をしたため、重いものが持てず、運転も1ヶ月はお預け。仕方なく、息子を連れて何度も近くの貸倉庫を往復し、やっと屋根裏をカラにしたんです。

不要なものをなんでも突っ込んでおいたので、イザ移動となると驚くほどの量!本や雑誌、息子の小学校時代のノートや絵など、過去に整理しておくべきだったものが山ほどありました。でも、私は昔から整理整頓が苦手で…。

ところで、本棚を整理していたら、息子が小さい時の記録ノートを発見。ページをパラパラめくっていたら、昔の記憶がドドっと蘇ってきました。

今はほとんど気にならなくなりましたが、息子が小さい頃は感覚過敏に悩まされたものです。小学校低学年までは服についているタグが苦手で、全部切ってました。首の後ろを気にするので見てみると、擦れて皮膚が赤くなってるという…。襟付きの服を嫌がるため、コットン100%のTシャツっぽいものばかりという時期が続きました。

でも、ジュニアスクール(小3~6年)の制服がポロシャツだったんです。どうしようかと悩んだんですが、着せてみたらスンナリOK。セカンダリー(12歳~16歳)に進むと、毎日カッターシャツにネクタイ姿で登校するように。襟付きを拒否していたあの日々は一体何だったのか…という感じでした。

記録ノートで鮮明に思い出したのは、息子が2歳8ヶ月の春、いつものように近くの公園に行った時の出来事。晴天のいつになく暖かい日で、周りの子どもはみんな上着なしで遊んでました。さすがに暑くなってきて、息子の上着を脱がせようとしたら、嫌がって断固拒否!

うっすらと汗を浮かべながらも、絶対に脱ごうとしないのです。今考えれば、自分で脱ぎたくなるまで放っておけば良かったんですが、なにせ新米ママのこと。「○○君、暑くないの?」とママ友にも指摘され、周りの目が気になってしまい、何度も「脱ぎなさい!」とガミガミ言ってしまいました。

でも、言えば言うほど、意固地になって脱ごうとしないんですよね…。明るいパステルカラーの軽装の子どもたちの中で、息子だけ赤い顔をしながらも濃紺のジャケットを着たまま。私のほうが自意識過剰になって、「穴があったら入りたい」という心境になってしまったのでした。

今考えれば、脱ぐのがなんとなく嫌だった(不安だった)んでしょう。息子にとって、その時の上着は『スヌーピー』に出てくるライナスの毛布みたいなものだったんだと思います――自分を守ってくれる大事なもの、着てると安心できるもの。安定剤のようなものだったのかな。

『北風と太陽』のように、無理やり旅人の外套を脱がすのでなく、あたたかな陽射しで照らし続けて、自分から脱ごうと思えるまで待つのがベストなんでしょうね。子どもの気持ちに寄り添いながら、とにかく忍耐忍耐。

場面緘黙の治療も、これに似ているような気がします。待っているだけでは何も進展がないから、太陽の光で少しずつ少しずつ温めて、少しずつ少しずつ勇気を出せるようにしていく。他の子と比べないよう根気強く気長に、がポイントでしょうか。

そういえば、私の姪っ子は感覚過敏はありませんでしたが、赤ちゃん時代から偏愛(?!)しているヌイグルミがありました。いつでも、どこでもそのヌイグルミと一緒。それがないと眠れない、ないと泣きながら探して回る、という時期が結構大きくなるまで続いたような…。

義妹は同じものを複数個買い込んで使いまわしてました。が、2年位でモデルチェンジして購入不可に。何度も洗濯しているうちに布は擦り切れ、さすがに最後はボロボロ。「その汚い布切れは何?」というまで使い込んでました(笑)。

そんな姪っ子もいつの間にか、そのヌイグルミを卒業し、ものすごい偏食もあったんですが治ってきた模様。他にも、いつまでたってもオシャブリが手放せない子や、哺乳瓶が手放せない子なんかもいますよね。

程度の違いさえあれ、みんなそれぞれ色々あります。後から振り返って、「あの時は大変だった」と早く言えるようになるといいですね。

ところで、工事が始まって1週間の間に、屋根裏の下のバスルーム、息子の部屋、私たちの部屋の天井にヒビが入り、家の中は毎日埃だらけ…。今屋根がない状態で、土曜の夜の嵐の後、息子の部屋の天井のヒビから雨漏りが…。クリスマス、お正月をまたいでの工事となるんですが、早く普通の生活に戻りたいと願うばかりです。

 

息子の緘黙・幼児期(4〜5歳)  ひとりだけ違うクラス?!

息子の緘黙記の続きです。

幼稚園では非常に引っ込み思案で、特に大人に対して言葉が少ない息子は(大人の見てないところで親友とは普通に話してました)、1学年3クラスある小学校(イギリスでは大規模)に、すんなり適応できるんだろうか?

心配になった私は、小学校の校長に手紙を書き「ものすごく引っ込み思案な子なので、M君と同じクラスにして下さい」とお願いしました。仲良し同士はたいてい同じクラスにしてくれると聞いていたものの、念には念を押したつもりでした。

が、入学体験日に発表されたクラス分けを見てビックリ!なんと、幼稚園のクラスから、息子だけが違うクラスに入ることに。ガーン、何故だぁ!

他の10人は全員同じクラスなのに、息子だけひとりぼっち…親友のM君とも離れ離れ。息子はひとりで大丈夫なのか?私の不安はいっきに増大しました。

(今思えば、これが緘黙を引き起こす原因となったような気がします)

急いで小学校の校長に面会を申し入れたんですが、校長は不在で副校長が会ってくれました。結果は--もう発表してしまったので、クラスは変えられないと…。何故そうなったのかという理由は、教えてもらえませんでした。

推測するに、私の家が道ひとつ隔ててギリギリ学区の外だったのが原因だったんだろうなと思います。というのも、最初は断られたんですが、2次選考で入学できることになったという経緯がありました。あと、延長保育の先生の意見もあったのかなと…。

母子体験入学に行ってみると、息子のクラスには違う幼稚園から来た子どもを集めてありました。息子が通っていた幼稚園は小学校の隣。付属幼稚園ではありませんが、後の2クラスは幼稚園からの持ち上がりという感じ…。

9月に入学した子ども達は既に友達関係ができてしまってるだろうし、そんな集団の中に後から入って大丈夫なんだろうか…。知らない子ばかりだし…。不安でいっぱいしたが、もう変更できないと言われてしまえば、どうしようもありません。

それでも、入学体験で同じクラスになる女の子のママと知り合いになり、「仲良くしてね」と言ってもらえて、ちょっとだけ安心。入学して1週間は半日授業、その後は給食を食べられるようになったら一日授業にするという方針。

保護者用のファミリールームもあるし、まさかの時はそこで待機すればいいや、と腹をくくったのでした。

<関連記事>

息子の緘黙・幼児期4~5歳(その1)

息子の緘黙・幼児期4~5歳(その2)

草間彌生とその芸術

早いもので、もう11月に突入してしまいました。今年も残すところあと2ヶ月弱と考えると、一体自分は何やってたんだろうと考えてしまいます。

さて、先週末ネットで日本のニュース番組を観ていたら、草間彌生が文化勲章を授与されたというニュースが。今年の夏の北欧旅行で強く印象に残ったのが、ストックホルム近代美術館で観た草間彌生回顧展。コペンハーゲンのルイジアナ近代美術館でも、彼女のインスタレーションがひときわ異彩を放ってました。

img_7986img_7985

     写真はルイジアナ近代美術館の常設インスタレーション『魂の灯Gleaming Lights of the Soul』。上の映像でその雰囲気を味わえます

これまでにロンドンでも何度か個展が行われたのですが、全部見逃してました。それまで草間彌生に関する知識といえば、水玉モチーフと作品の一部のような奇抜なファッションくらい…。正直、入場料を払ってまで観に行くぞ、という感じではなかったんです。でも、いつか観たいと思ってたので、ストックホルムの友達が「今、一番期待してる展示会!一緒に行こう」と誘ってくれた時は、即OKしたのでした。

img_8042

『無限 Infinity』と題されたストックホルムの回顧展。若い頃のスケッチから60年代NYでの作品群やHappeningの映像(自分や参加者の体を水玉模様にするパフォーマンス)、黄色い南瓜のミラールームや真っ赤な水玉オブジェが並ぶ巨大なインスタレーションまで、見どころいっぱい。

img_8045

img_8047

img_8043

彼女の作品がどんな風に進化していったのか、時代ごとに追っていくことができました。何だかどんどん規模が大きくなり、より強く、より明確になっていったような…。ひとめ見れば、「ああ、草間弥生の作品だ」と判る、強烈なオリジナリティが圧倒的。すぐ側まで行って触ったり、ミラールームに入れたり、作品に手が届くというか、自分も内に入ってその一部になるような距離感も魅力です。

img_20160804_122735img_8057

   真っ赤な水玉マッシュルームは『新たなる空間への道標 』。ステンレスのミラーボールを覗き込むと、そこには無数の自分が映る『ナルシスの庭 』

水玉にしても、網模様にしても、ミラーボールやミラールームにしても、どこまでも反復し、増殖し、無限に反映し続けるーーこれが彼女が創り出す永遠。

私は、彼女が10歳の頃から統合失調症に苦しみ、幻覚や幻聴に悩まされ続けてきたことなど、全く知りませんでした。

河原に行くと、何億という石が宙に浮いて迫ってくる。スミレ畑に行くと、スミレが人間の顔をして語りかけてきて、恐くて家に飛んで帰ろうとすると、途中で犬に話しかけられ、会話している内に自分の声が犬の声になっていることに気づく――。そんな脅迫感や恐怖感を絵に描きとめることで、彼女は精神のバランスを保っていたのです。多分、描くことは本能でもあったんでしょう。

10代の頃に描いたお母さんのスケッチ画は、顔も体も水疱瘡のような細かい点で覆われていました。家族の顔も、日常の風景も、彼女にはこんな風に見えていたのか――そう思うと、心底恐い。そして、その水玉のような点々は、どんどん増殖して自分の体にまで迫ってくるのです…。

誰もいないと、幻覚の方に引きずりこまれて離人症になってしまう――そんな恐怖に襲われて押入れに閉じこもってガタガタ震えていたとか…想像しただけでも壮絶な毎日です。

このインタビューに桑間弥生の秘密が詰まってます

裕福な旧家に生まれた彼女は、早くから母親に「お前は財閥の御曹司と結婚するんだ」と言われ、絵を描くことを止められたそう。でも、芸術家になる志を貫き、京都で日本画を学んだ後、1957年にNYに飛び出しました。

img_8050img_20160804_122841

NY時代の作品

1973年に体調を崩して帰国し、入院した後に執筆活動を始め、小説も多数書いています。病院で寝泊まりしながら、近くのアトリエで創作活動をするというルーティンだったよう。1990年頃から再びアート活動を始め、現在に至る大ブームを引き起こした訳ですが、当時の映像で「私はこれから!」と宣言してました。

img_8051

2012年のルイヴィトンとのコラボ作品。「出たっ」って感じですよね。

今年で御年87歳になられたそうですが、全身から放つ圧倒的なエネルギーが凄い。ピカソも晩年になっても衰え知らずの天才でしたが、彼女にはなんだか妖気のようなものまで感じられます。バイタリティーと創作意欲の塊みたい。

インタビューの映像を観ると、話し方は幼児のように舌足らずな印象なのに、大切な部分は直球でズバっと言い切ってる。眼光の鋭さといい、有無をいわせぬ存在感といい、人間を超えてるような(笑)。「永遠の永遠の永遠」を渇望して、渇望して、渇望し続けて制作してるんだな、というのがバシバシ伝わってきます。

統合失調症という病気と戦いながらも、「イケてた女の子だった」「私がファッションで時代を開いていく」と自信満々。おこがましいですが、こんなにも自分に自信を持てるって、羨ましい限りです。こんな性格だったら、緘黙にはならないんだろうな…。

ところで、60年代のNYといえば、オノヨーコも同じように前衛芸術をやってたな…と思い出しました。彼女も裕福な家の令嬢で、草間彌生と境遇が似てたかもしれません。偶然にも、同じ美術館の片隅にオノヨーコの作品が。草間さんの作品と比べると「つつましい」という言葉がピッタリで、複雑な心境に。

img_8086img_8087

ストックホルム近代美術館に展示されていたオノヨーコの作品

追伸: 今朝、文化勲章親授式のニュースをやってましたね。草間さんは「死ぬ物狂いで芸術をやって、死んだ後も何千年も人々が心を打たれる芸術を作っていきたい」と語っていました。これからも、どんどん凄い作品を生み出していって欲しいです。

<関連記事>

北欧の夏休みーコペンハーゲン編(その2)

北欧の夏休みーストックホルム編(その4)