もう8月も後半ですね。イギリスを含む西ヨーロッパでは8月に2度目の熱波が襲来し、第2週は毎日30度を超える真夏日が続きました。その後に雷雨がくるまで全くというほど雨が降らず、歴史的な干ばつを記録。世界中で大きく気候が変動していて、一体この先どうなってしまうのか本当に心配です。
そんな中、なんと保育園時代の親友がロンドンに来ることに! 彼女の息子さんがロンドンに駐在していて、2週間ほど夏休みを取ったのです。最後に故郷で出遭ったのは2012年の夏でしたが、その前に25年以上もの空白がありました。
小雨の中セントポール大聖堂を見学し、528段の階段を上ってドームの小塔へ。長~いランチタイムと夕暮れのテムズ河畔でのお喋りが本当に楽しかった!
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私は保育園に馴染めなくて、よく脱走して泣きながら家に帰ってきたそうです。亡母はそんな私を見て「私の子育てが間違っていたの…?!」と随分悩んだとか。幼稚園ではなく時間が長い保育園に入れたのは、母が家で仕事を始めたからでしたが、内弁慶だった私の性格を案じてのこともあったよう。
なお、同じ様に保育園に入れられた兄(1歳11か月年上)は私(3月生まれ)とは正反対。大人にもハキハキものを言い、すぐ園に馴染みました。友達もたくさん作って、みんなを引っ張るリーダー的な存在になっていきます。同じ兄妹なのに、どうしてこうも違うのか…^^;
園で落ちこぼれていた私を救ってくれたのが、近所に住む同年のA子ちゃん。遠回りなのにわざわざ私を家まで迎えに来てくれて、一緒に登園していたのです。
私たちはいつも二人でくっついて、園の中でも外でも双子の様に仲良くしていました。ささいなことで喧嘩をすることもありましたが、すぐ仲直りして「変わらぬ友情」の誓いを立てたものです。
それは私たちが小学校に入学し、3年生になってクラスが別になるまで続きました。以前も何度か書きましたが、私にとっての小学校は、大きくて人が多く、常に騒がしい不安な場所。たくさんの上級生や先生たちは、全く親しめない存在だったのです。
私は学校では常に緊張していて、家での自分を出すことなんて不可能でした。授業中は借りてきた猫のように大人しく、休み時間はA子ちゃんがいてくれたお陰で、少しほっとできる時間だったのです。
授業中に当てられたり、発言しなければならなくなると、緊張して頭が真っ白になり、必要最低限のことしか言えなくなってしまう…。休み時間にA子ちゃんとお喋りするのと、授業中やみんなの前で発言するのとでは、全く別の自分がいました。
彼女がいなかったら、私は登園・登校拒否になっていたかも…。中学校時代に少しずつ自信をつけて、学校はそれほど恐ろしい場所ではなくなりました。が、小・中・高を通して私の評価は「大人しい」でした。
でも、そんな私でも一応学校では話せて動けていたので場面緘黙ではありませんでした。というか――ではないと思っていたんですね。
でも、現在のイギリスの場面緘黙の定義では、場面緘黙のカテゴリーはひとつ(詳しくは『場面緘黙のカテゴリーはひとつだけ』をご参照ください)。でもその中で、認識されやすい場面緘黙( High Profile Selective Mutism)と認識されにくい場面緘黙(Low Profile Selective Mutism)とに分かれています。で、後者の説明を見ると、
認識されにくい場面緘黙(Low-profile selective mutism)
これらの子どもや若者たちは、促されると少しは話すので、大人は「恥ずかしがり屋」「大人しい」または「反抗的」と捉えがち。認識されやすい緘黙児と同様に、話すことが強い不安を引き起こすのに、それを理解されにくいのです。彼らは期待に応えようとする思いが強く、なんとか言葉を絞り出します。実のところ、話さない結果への不安が、話す恐怖に勝るために声が出るのですが、このバランスは微妙で、話題に自信がある時しか作用しません。学校では出席の返事をしたり、要求に応じて音読したり、シンプルな問いに答えたりすることがあるかもしれません。しかし、普段より声は小さく、アイコンタクトも減ります。トイレなど必然の要求を発したり、指示に従って短いメッセージを伝えたりすることもあるかもしれません。しかし、親しい友達や家族を除いては、相互的な会話をすることはなく、自分からは話しかけません。「(して)ください」や「ありがとう」といった、何でもない依頼や挨拶が非常に難しいのです。いじめや病気を報告したり、助けや許可を求めたり、自ら説明したりできないことを解ってもらえるまで、彼らは危険にさらされます。困難に気付かれず、自分を守る発言ができないため、支援どころか懲戒されてしまうかもしれません。
もっと大きな声で話しなさい、もっと貢献しなさいと繰り返し奨励することは、更に子どもを苦しめるだけです。彼らの困難を誤って把握し続けると、ますます話さなくなり、不登校が多くなり、どんどん自信を失っていく可能性があります。
マギー・ジョンソン&アリソン・ウインジェンズ共著『場面緘黙リソースマニュアル(Selective Mutism Resource Manual)』より抜粋・翻訳
うう~ん、実際のところ、私は場面緘黙だったんでしょうか? それとも、超内気であがり症の子どもだったんでしょうか?
- 恥ずかしがり屋だと思われていた
- 返事や受け答えはできたが、普段より文章は短く、声が小さかった
- 親しい友達や家族、近所の人たちを除いては、普通にお喋りができなかった
該当する箇所が多いですね^^;
私の子供時代は地域のコミュニティが結束していて、田舎ではご近所付き合いが濃厚。学校を離れて家の近くまでくると、途端に元気になって地が出ていました。また、帰宅後は近所の小学生が集まって夕暮れ時まで一緒に遊んでいたので、A子ちゃんと私もその集団に含まれていた訳です。兄がその集団のリーダー格だったのも、安心できる要因だったかもしれません。
誰かのお母さんがおやつをくれたり、夕食時に「早く家に帰りなさい」と促してくれたり、「それは駄目」と注意してくれたり。だから近所の母親たちは第二の母のような存在だったのです。
そのお陰で普通に話せる場面が家庭だけに限定されず、場面緘黙にならずにすんだのかも。安心できる地域コミュニティで社会的な体験を多く積めていたんだと思います。
都市化や核家族化が進んで、地域コミュニティのきずなが薄くなっている現代。話せる家庭と話せない学校だけでは、社会との関わりが少なく、子どもが社会と接する機会が激減しているように思えます。
私の場合は場面緘黙になる資質が大きかったものの、親友のA子ちゃんがいてくれて、親しめる地域コミュニティもあったお陰で、緘黙にならずにすんだケースなのかもしれませんね。
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『息子の緘黙・幼児期4~5歳(その21)子どもへの言葉がけ』
『NYのグループ治療プログラム『ブレイブバディズSM』(その2)』