この旅のハイライトのひとつは、印象派画家クロード・モネ(1840~1926年)が晩年を過ごした家と庭園(Maison de Monet)を訪ねること。拠点としたオンフルールの町からジヴェルニー (Giverny)までは車で約120㎞。高速を使えば1時間半ということで、朝早めに出てパリ方面へと車を東に走らせました。
道中まったく混んでおらず、「これは楽勝!」と思ったのもつかの間。メインの駐車場はすでに満車で、オーバーフローの駐車場へ。「えっ、いつの間にこんなに沢山の車が?! 」という位混んでました~(^^;
チケットは事前に予約しておいたのですが、入口が判りづらくてモネ邸と庭の裏側にあるクロード・モネ通りをぐるりと一周するはめに。やっと入ってみると、家の前には長蛇の列が…。
クロード・モネの名前がついた通りと庭から見たモネ宅。邸宅見学は長蛇の列
20分くらい並んでやっと家に入ると、まず目に入ったのは家中の壁に飾ってある広重、北斎、歌麿の浮世絵の数々。1855年に開国した日本からヨーロッパへと、陶器、扇子、着物、美術品などが大量に流入。日本文化の一大ブームが起こりました。当時は、浮世絵(版画)が陶器や漆器の梱包材として使われており、これが画家たちの注目を浴びたのです。
遠近法を無視したような構図、大胆なフォルムや色使いは、全く新しい美の形・世界として多くの芸術家たちを刺激しました。モネもそのひとりで、30代の頃から浮世絵を集めはじめ、コレクションの総数は290点を超えるとか。モネの代表作である睡蓮は浮世絵の画法の影響を色濃く受けています。
いたるところに浮世絵のコレクション(左)。アトリエには自らの作品の他、印象派画家の作品が。モネが息を引き取った2階の寝室にはセザンヌとルノワールが飾られて(右)
薄いピンク系の外壁に鮮やかな緑の窓枠。キッチンはレモンイエローや水色などパステル系が使われていたのが印象的でした
家の前に広がる庭園(Le Clos Normand)は2.5エーカーの広さ。モネが丹精して改造し、広げていった庭には、色とりどりの四季の花々が咲き乱れ、40年間彼の作品のインスピレーションとなったのです。
家屋からまっすぐ続く中央のアーチの両側に広々とした庭が。黄色やオレンジ系の夏の花を中心に、自然の風情そのままに咲き乱れる花々。バラもカモミールも画家の心を癒し、創作意欲をかきたてたんですね
フランスで感じたのは、イギリスとは光が違うなということ。どう表現したらいいのか難しいんですが、より透明で眩しい光。モネの庭の花々を、緑を、より鮮明に息づかせているように感じました。
モネといえば、まず最初に思い浮かべるのが『睡蓮』の絵ですよね。その睡蓮の咲く池のある庭(Le Jardin D’eau)は、道を隔てた向こう側にあります。清流の流れる小川沿いの小路を歩いて行くのですが、片側は竹林風でところどころに緑の橋が架かり、ここにも日本文化の影響が。
竹林の脇を通って睡蓮の池へ。モネの絵に描かれた緑のお太鼓橋は人だらけ(^^;
モネが偶然通りかかって心惹かれ、定住地と決めてジヴェルニーに移り住んだ頃、モネの経済・精神状態は決して良くありませんでした。最愛の妻、カミーユが幼い子ども達を残して先立ち、パトロンのオシュデは破産という厳しい状態--まだ印象派が革新的と受け止められていた時代。でも、この頃からモネの作品は認められ始め、買い手がつくように。暮らしは安定し、庭師や家政婦などの使用人を雇えるようになっていったのです。
1983年に借りたスタジオ件自宅と小さな庭のついた果樹園を徐々に改装・改造し、1890年には買い取って、更にスタジオや生活スペースを増設。道を隔てて庭に隣接する土地を買い求め、小川を利用して有名な睡蓮の池造りにものり出します。モネは目を患いながらも、1899年から20年に渡って睡蓮や池の絵を描き続けました。
睡蓮の池を後にして、お昼ご飯を食べる場所を物色。モネの作品がたくさんあるだろうと期待して、ランチもかねてジヴェルニー印象派美術館(Musée des Impressionnismes Giverny)へ。レストランが満席だったため、先に展示を観ることにしたんですが、モネの作品は睡蓮の池を描いた1点しかなくて、後は印象派の歴史とその後に焦点を当てた展示(また予習不足)…。シスリー、モーリス・ドニ、モネに大きな影響を受けた平松礼二等の作品などが飾られていました。
2時過ぎにレストランに戻ると、店内はガラガラ。主人と息子はエスカルゴに挑戦し、私はメインに牛肉のカルパッチョ、デザートに巨大な焼きプリンとラテを堪能しました。今回の旅行では一番美味しかったけれど、3人で1万4000円位と、やっぱりすごく高かったです😢 自動的に夜は自炊…。
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