息子の緘黙・幼児期4~5歳 (その21)子どもへの言葉がけ

息子の症状が場面緘黙だと判りSMiRAの資料や専門書を読んで、早期発見とサポートが肝心だと解りました。そして、幼少期なら早い回復が望めることも。

本人を安心させるため、世界中に緘黙の子どもがいること、不安のため声がでないことを説明した方がいいというのは理解できました。

が、息子はまだ4歳。できれば本人の自覚がないうちに治してやりたい――という親心(?)が働きました。まだ小さいから、なんだか解らないうちに治っていた状態にできたら…。最初は長期戦といっても、それほど時間はかからないだろうとタカをくくっていたのでした…。

(でも、どんなに幼くても自分の状況をそれなりに把握していて、周囲からの支援を自覚していたと、後で知ることになりました)

当時の息子は、幼いながら「自分はみんなと違っている」「話せないことは悪いこと」と感じているようでした。そのことについては一言もいいませんでしたが、漠然とした不安をひとりで抱え込んでいたのでしょう。

(息子の場合、幼稚園時代から学校での出来事を自分から話すことはめったにありませんでした。ダイレクトに訊かれるのを嫌がるので、園や学校の情報は友達やママ友や経由がほとんど。ですが、少し時間が経ってから、ふと詳しく話し始めるという…。私がすぐ理解できないと息子はご機嫌斜めに――どうも、母親の私は、自分のことや気持を全て把握していると思い込んでいたようです)

私が実行したのは、「緘黙」の代わりに「怖い」という言葉を使い、恥ずかしがり屋で内弁慶だった自分の経験を話して、息子を安心させることでした。当初は、意識して「学校でしゃべれない」「声が出ない」といった言葉を避けました。

(詳しくは『告知するかしないか(その2)』をご参照ください)。

誰でも直接自分の痛いところをつかれるのは嫌なもの。拒否反応を示す子も多いかもしれません。だけど、第三者のことなら「人ごと」なので安心して聞けます。絵本や人形などを使って説明するのも効果的だと思います。

息子はひとりっ子なので、二人だけの時間を作るのはそれほど難しくありませんでした。でも、帰宅してすぐは学校でのストレスもあるのでNG。おやつを食べて好きな玩具で遊んで――寛いでるなと感じた時がチャンスだったかな。子どものが落ち着いている時に、さりげなく話すのがいいと思います。

向き合って目を合わせるよりも、膝の上に抱っこして体温が伝わるような感じで。就寝前に本の読み聞かせをする時も、横に並ぶので親密な感じで話せました。

まずは、私が息子の味方だということを肌で感じてほしかった。その後に、B君や担任の良いところにも触れ、学校が楽しい場所であるというイメージ作りも。

「マミーが小学校にあがった時、学校は大きいし人はいっぱいいるし、毎日怖かったよ。でも、少しずつ慣れてくるからね」

「マミーは何をしていいのか判らなくて、いつもA子ちゃんに教えてもらってたなぁ。〇〇はT君と違うクラスだから大変だね。本当に頑張ってるね」

「〇〇の教室には玩具がいっぱいあって、庭がついてて良いね。日本では、クラスに専用の庭がある学校なんかないよ」

上記のような感じで、言葉がけをしました。自分も体験したことなので「学校が怖い」「恥ずかしい」という気持ちは、痛いほど解りました。

私が話している間、息子は何もいいませんでした。が、私も幼い頃自分と同じように恥ずかしがり屋で内弁慶だったと知り、安心した様子。世界中に同じような子どもがいること、親戚にもとてもシャイな人がいることなども話しました。

すると、「どうして僕だけそうなの?」「ズルイ」と…。

以前も書きましたが、私の両親と兄は社交的で、何故か私だけがこの気質。でも、抑制気質の叔父と従弟がいて、実は兄の子どものひとりも小さい頃はめっちゃ大人しかったんです(中学頃から活発になり、現在は人前に立つ仕事をしているから不思議なものですね)。

小さい頃の私に輪をかけて繊細・自意識過剰だった(今も継続中?)息子――抑制的な気質が自分よりさらに悪化して遺伝してしまい、ものすごく申し訳なく感じているのです。

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息子の緘黙・幼児期4~5歳 (その20)発達テスト

スクールナース(学校看護師)に相談し、待つこと3か月。やっと小児クリニックでの診察の順番が廻ってきました。息子が4歳10か月、緘黙になってから約3か月半後のことです。

相談した時はまだ場面緘黙のことを知らず、アスペルガーを疑っての受診申し込みでした。当日は主人にも付き添ってもらい、親子3人で隣町にある小児クリニックへ。

二人の心理士に迎えられ、私がひとりの心理士と話している間、息子は主人と一緒に別の部屋で発達テストを受けました。なので、息子がどんなテストを受けたのか、あまり定かではありません。

主人によると一言も話さなかったそうですが、絵カードの質問に指差しで答えたそう。運動テストは廊下と階段で行っていたので、たまたま最後の部分を見ることができました。

心理士との問診では、息子の成育歴やそれまでの対人関係、学校と家庭での様子などを詳しく訊かれました。また、私達が気になっていることにも耳を傾けてくれました。

長い問診が終わって廊下に出ると、ちょうど発達テストで息子が階段を上り下りしている最中。「次は、ジャンプしてみようか」と促す心理士に、息子は尻込み。が、主人がジャンプしてみせて何度か促すと、へっぴり腰ながらなんとかジャンプできました(主人に来てもらって大正解)。

その後少し待たされて、二人の心理士から問診と発達テストの結果を聞くことに。

  • 発達は年齢の4歳10ヶ月にきっかり見合うもので、早くはないが遅れもない
  • 父親とコミュニケーションが取れており、対応も年相応
  • アスペルガー(ASD)ではない
  • しかし、極端にシャイなため、学校での見守りが必要

その結果にホッとしたものの、最後に「今後はクリニックに通う必要はありません」と…。

えっ、そんなぁ!

学校にも発達テストの結果のコピーを通知するとのことでしたが--場面緘黙の治療は?SLT(言語療法士)は?

焦った私は、恐る恐る「あのう、息子の学校で話せない状態は、場面緘黙ではないでしょうか?」と訊ねてみました。

すると、心理士のひとりが「ああ、そうですね」と…。

思わず前のめりになって、「あの、場面緘黙の支援団体SMiRAによると、緘黙の治療を担当するのは大体SLTだそうです。どうかSLTを紹介してください!お願いします!!」 と懇願してしまいました。

今考えるとすごく図々しい….母は強しですね。

(イギリスでは「言ったもの勝ち」みたいなところが多々あって、黙っていると「この人は現状で満足している」と見なされがち。反対に、相手の状況や気持ちを慮って本人に聞かずに何かをすると、「要らぬお節介」となることも…)

そんな訳で、小児クリニックで場面緘黙を自己申告して、なんとかSLTを紹介してもらえることになりました。が、いつ・どこで会わせてもらえるかはこの時点では不明。(なにせ無料のNHS国民健康保険なので、何ごとにも時間がかかるのです)

この発達テストの結果は1か月後くらいに届いたのですが、心理士のレポートにはSelective Mutism(場面緘黙)の文字は見当たらず!

自己申告だったから?自閉症の診察だったから???

でも、「コミュニケーションを促すために、SLTを紹介する」と記してあり、やっと本格的な治療をしてもらえる、と期待に胸が膨らんだのでした。この時は、SMiRAの情報により、SLTが自宅を訪問してくれるんだろうなと思い込んでました。

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プレイデート作戦

場面緘黙の子どもを家庭でサポートする方法のひとつに「プレイデート」があります。緘黙児が一番安心できる自宅に、クラスメートや近所の子、親戚の年が近い子などを招いて一緒に遊ばせるというもの。発話を促すのみでなく、対人関係への不安を減らし、社会性を育てる点でとても重要です。

緘黙児は学校での不安が大きくストレスを溜めやすいため、学校外で遊べる友達がいること、交友の場があることが、本当に重要になってきます。特に、うちのようにひとりっ子だと、兄弟姉妹がいない分、子ども同士の付き合いに免疫がありません。その上、学校でも話せないとなると、同年代の子どもと交わう機会が激減してしまいます。

親が子どもの友人関係に関与できるのは、小学校低学年くらいまででしょうか。保護者も大変ですが、子どものために頑張りましょう。

緘黙の治療にはCBT(認知行動療法)が有効なのは周知の通り。「人」「場所」「活動」の3つの観点から子どもの不安度を確認し、不安度の低いところからCBTを使い、スモールステップでその場面に慣れる=経験値を上げていきます。少しずつ自信をつけながら次のステップへと進み、最終的に場面緘黙の克服へ。

緘黙治療は順調に進む時もあれば、ちょっとしたことで躓いて後退することもしばしば。3歩進んで2歩下がるという感じですが、親は長期戦を覚悟して焦らずに。子どもの気持ちに寄り添って、子どもの了解を得ながら次のステップに挑戦していくことが大切です。その過程で、子どもとの絆が深まるといいですね。

  1. まずは1対1で

「3人寄れば社会の始まり」といいますが、相手が2人以上だと、緘黙児 が孤立しがち。まずは、子どもが好印象を持っている子(人)と、安心できる場所(家)で、楽しめる遊び(活動)を設定しましょう。

  1. 最初は楽しい時間を過ごすことを優先

自分の子だけでなく、相手のお子さんも楽しく過ごせることが大切。すぐ二人で遊べる子もいれば、複数回会ってもなかなか打ち解けられない子もいます。相手を選ぶ時、好きなものが似ていて、比較的おっとりした子がいいかな…。空気がギクシャクしている場合は、保護者が間に入って仲介する必要があります。

  1. 緘黙児が安心できる遊びを

子どもが得意とする遊びを中心に、かくれんぼやシャボン玉、音の出るゲーム、体を使う遊びなど、緘黙児が安心して楽しめる遊びを選びます。低学年のうちは、遊びに夢中になってガードが外れ、ポロっと声がでることも多いのです。

  1. 最初は保護者が仲介

最初は、保護者が同席して子どもたちの間に入ってみてください。自分の子にも、相手の子にも交互に声をかけながら、一緒に遊べるよう主導します。自分の子から言葉が返ってこなくても、うまく代弁して。子ども達と同じ目線に立って、自分も楽しみましょう。お菓子作りなど、みんなで何か作るのもいいかもしれません。うまくできたらさりげなく褒めるなど、言葉がけを忘れずに。慣れてきたら、徐々に子どもだけで遊べるように計います。

  1. 母親がまず相手の子どもや、ママと仲良くなる

緘黙児 は周りの空気を敏感に察知します。保護者同士が親しい間柄であれば、子どもは安心します。また、 相手のお子さんに色々 話しかけて、仲良くなることも大切。学校の話題や遊びの流行など 、子どもたちの世界で何が起こっているか聞けて、一石二鳥です。

  1. 発話を促す遊びを

子どもの様子を観察しながら、発話を促す遊びを取り入れるのも忘れずに。普段家にいるような感じで遊べているのか、それともまだ緊張が強いのか。緊張がとけ始めたら、色々試してみましょう。息子の時は、音が出るリモコン操作のロボット、黒ひげ危機一髪、ジェンガ、シャボン玉などをよく活用していました。相手の子の視線が子ども自身でなく、玩具にいくものがベターと思います。

そういえば、音が出るレンジャー系の玩具や水鉄砲も緊張をとくのに有効でした。おやつや外遊びの時には笛ガムを愛用してました。自分の子に合う遊びを見つけ出してください。

  1. 次のステップへ

二人で遊ぶのに慣れて話せるようになったら、次は「別の友だちを加える」もしくは「友だちの家に遊びに行く」に進みます。これについては、また追って記事を書く予定です。

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息子の緘黙・幼児期4~5歳 (その19)B君ママに告白

お昼休みの校庭で、息子がひとりぼっちだった――その現場を見た瞬間、再び金槌で頭を殴られたようにガーンときました。

でも、反対に「これはイカン!何とかしなければ!」と自分を奮い立たせる転機ともなったのです。

放課後の校庭では、幼稚園時代からの親友T君と遊べるけれど、クラスでは遊べる子がいない。別クラスのT君は自分のクラス内での友人関係があるだろうし、それにあと1年ほどで帰国してしまう…。

息子のクラスには日本人駐在員のお子さんたちが数人いましたが、特に仲良くなれそうな子はいませんでした。そこで思い出したのが、以前担任から「やっと友達ができました。B君です(詳しくは『息子の緘黙・幼児期4~5歳(その6)をご参照下さい』」と言われたこと。

息子にB君について訊いてみると、感触は悪くなさそう。そこで、お迎えの時間に大胆にもB君ママにアプローチしてみたのです。友だちを家に招くことを「プレイデート」というのですが、それほど親しくないので内心ドキドキ。でも、何ごとも当たって砕けろ!

(イギリスでは小学校低学年まで子どものお迎えは保護者の義務。同じクラスのママさん(時に、パパさんやナニーさん)が毎日校庭に集まるため、みんな顔見知りなんです。B君は息子と同様早生まれで1月入学だったため、少しは世間話する間柄でした)

今考えると、このB君ママがものすごくできた人でした!いきなり場面緘黙について説明し、「息子がB君に親しみを感じているようなので、できたら一緒に遊ばせたり、家に遊びに来てもらえないか?」という唐突なお願いに、快く応じてくれたのです。(後に、入学後2、3か月の間、B君が家で時々息子の名前を出していたことが判明)

翌日、彼女の方から声をかけてくれ、「昨日ネットでSMについて調べてみたわ。大変そうね。できるだけ協力するわ」と。一方的に頼んだのに、ありがたや~!早速、次の週に息子たちを連れて公園に行くことに。

公園で息子たちが一緒に遊んでいる間、母親同士でおしゃべりし、息子の性格や緘黙の説明をすることができました。B君は当時R君と仲良しになっていて、B君ママは無理してB君と息子を遊ばせる必要などなかったのに--本当に感謝感謝です。

この時息子は全く声を出しませんでしたが、私にくっつくこともなく、B君と二人で遊具へ。ちゃんと動けていて、結構楽しそうに遊んでいました。同じ学校の生徒が来ない公園を選んだので、安心できたんでしょう。そして、親同士が一緒にいることで、子どもも安心するんだと思います。

普段からおしゃべりで好奇心の強そうなB君、何も話さない息子と遊んで楽しいかな?また一緒に遊んでくれるかな?

そんな私の心配をよそに、B君は家に来てくれました。一緒におやつを食べた後、息子はB君に自分の玩具を見せ始めました。初めて来たB君に、自慢したかったんでしょう。カーペットの上にいっぱい玩具を出して遊んでいるうちに、息子はいつの間にか声を出していました。やった!

小さい子がすごいのは、状況を自然に受け入れてくれるところです。息子が話していることに驚く様子もなく、それが当然のようにふるまうB君。もちろん、「〇〇君がしゃべった!」などと言うこともありませんでした。

多くの子どもは、入園や小学校入学など集団生活を開始し、社会的な環境が大きく変わる際に場面緘黙を発症します。早期発見が重要と言われる理由のひとつに、周囲の子どもの受容力が大きいというのもあると思います。周囲が「そのままの自分」を受け入れてくれれば、緘黙児も安心できますよね。不安度が下がれば、声が出やすくなります。

(ちなみに、女の子のクラスメート(5歳)が家にやってきた時は、息子がしゃべったのに驚きの声を上げました。でも、理由を追究することはなく、すんなり受け入れてくれた様な。小さい子はダイレクトにものを言うけれど、思考はすごく柔軟です)

お迎えに来たB君ママに「声が出せたの!ありがとう!」とお礼を言うと、とっても喜んでくれて、本当に嬉しかったです。

この後、週1回くらいの頻度でB君とプレイデートを続けましたが、このB君との友情が息子の緘黙克服への大きな力となったのです。

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息子の緘黙・幼児期4~5歳(その18)悲しい想い

SMiRA会長のアリスさんから「あなたが学校を啓蒙するのよ」と後押しされ、まずは担任とSENCoに場面緘黙の資料を渡すことにしました。

今なら、お迎えの時に担任のところに行って即ミーティングを申し込むでしょうが、何しろ当時はまだ右も左も分からない新米保護者。他のママさん達に息子の問題を知られたくない気持ちもあり、なかなか行動に移せませんでした。廊下とカーテンで仕切られただけのSENCoの部屋に行くにも、人目が気になるし…。

実は、息子の学校には日本人駐在員のお子さんが多く、「変な風に誤解されたくない」と不安に思ってました。ロンドンの狭い日本人社会。思い込みもあるかもしれませんが、本人の知らないところで噂が広がる風潮があったような…。幼稚園時代にちょっとした出来事(詳しくは『息子の緘黙・幼児期4~5歳(その2)』をご参照ください) があったり、全く接点のない私のところまで別の学校の児童の噂が伝わってきたりして、「知らないところで何か言われたら嫌だな。息子にレッテルを張られたらどうしよう」とナーバスになっていたのです。

どういう訳か、大人も子どもも日本人同士で固まる習性があり、息子は放課後の校庭で幼稚園時代の親友T君と一緒に日本人グループと遊ぶことも多かったのです。クラスではひと言も話さないのに、放課後の校庭では寡黙ながら日本語で話している状態。わざわざ「緘黙なんです」と公表するのも変だし…。T君と二人きりだと普通だったため、T君ママにも息子が緘黙であることを打ち明けられずにいました。

放課後の校庭では、T君となら割と自由に遊べて話せていました。が、日本人グループに入ると途端に遠慮がちになり、オマケっぽい存在に。幼い弟妹が「当然」という顔でグループに加わって傍若無人に振舞っているのに比べ、「なんでそんなに遠慮してるの?」と不憫に思ったものです。そして、息子をひとりっ子にしてしまったことが悔やまれました。仕方のないことですが、上に兄姉がいたらもっと自信を持つことができたかも…と。

たまたま仕事のため、T君ママに息子のお迎えを頼んだ時のことです。T君ママはTAのひとりに「◯◯君は教室では全然しゃべらないのよ。今T君とはちゃんと話してるわね。変ね」と言われたそう。「子どもの前で、何て無神経な」と憤りを感じましたが、当時は抗議をすることなど思いもつかず…。ひとり悶々とした想いを引きずってました。

当時は支援する側の学校に緘黙の知識がなく、スタッフの教育も皆無でした(まあ、それでももう少し気を使って欲しいものですが)。親切心から無理に話させようとして二次障害を併発してしまう恐れもあるので、やはり関係者に知識を持ってもらうことは大切ですね。

また、ある日ちょうど学校のある道を通りかかり、「今頃お昼休みだから、校庭に出てるかも」と木製のフェンスの節穴から中を覗いてみたんです。そうしたら、ひとりぼっちで所在なさげにクラスメートの近くをくるくる走っている息子の姿が…。そこには、別のクラスのT君の姿はありませんでした。

クラスに遊べる友達がいないんだ――と大ショックを受け、とても切なかったです。

その後、何とか担任にSMiRAの資料を渡して、SENCoにも伝えてくれるようお願いしました。今考えれば、なるべく早く三者懇談をお願いするべきだったと思います。

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息子の緘黙・幼児期4~5歳(その17)「場面緘黙」だ!

ご無沙汰しています。今日で8月が終わり、明日からもう9月…。イギリスでは2週間ほど前から朝夕の気温が下がり、秋の気配が感じられます。「夏休みにはもう少しブログを書こう」と決心していたのですが、思いがけず仕事が入り、その上外出する機会も多かったので、すっかり怠けてしまいました…。

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さて、息子の症状が場面緘黙だと判ったのは、私がネットを徘徊し始めて3ヶ月ほど経った頃でした。最初は、ダイニングルームでの耳塞ぎからASDを疑い(詳しくは『その13』をご参照ください)、ASD児の保護者達が綴るブログを次々と訪問していました。

でも、こだわりや感覚過敏については似た部分があるものの、やっぱり違う…(今考えれば、「耳を塞ぐ」や「アスペルガー」で検索していたので、「学校で話せない」にヒットするはずはなく)。それでも、子どもひとりひとりの成長や保護者の苦悩、努力、喜びに心を動かされ、夢中になって夜半まで読みふけってました。

そんな中で出遭ったのが、確か小学校3年生くらいの男の子のお母さんが書いているブログでした。小さい頃から極度の恥ずかしがり屋で、家ではものすごくおしゃべりなのに、外に出ると別人のようになり、全く話せず動きも限定されてしまう――「うちの子に似てる!」と思いながら読み続けていくうちに、ついに「場面緘黙」という言葉に遭遇したのです!

場面緘黙――それまで一度も聞いたことがない言葉。急いで検索してみたところ、富重さんが運営する『場面緘黙ジャーナル』など一握りのSM関連サイトにたどり着きました。家では普通に話せるのに、学校など公の場では話せない――息子の症状はこれだ!ちゃんと名前があったんだ!

向き合うべき問題がクリアになったことが本当に嬉しく、「息子だけじゃなかった」と安心できたのを、今でもはっきり覚えています。英語ではSelective Mutismだということも判明し、検索の結果SMiRAのサイトにも行きつきました。今から13年も前の、2005年5月のことです。

勇気を出してSMiRAに電話してみたら、創設者のひとりであるリンジーさんが応えてくれました。その後、会長のアリスさんが電話をくださり、私の説明に「それは場面緘黙ね」と判定してくれたのです。色々アドバイスもいただき、とても心強かったです。

かつて精神医学ソーシャルワーカーだったアリスさんは、60年代にいち早く「家の外で話さない子ども」に遭遇し、場面緘黙とその治療法を研究してきた先駆者です。当時はイギリスでもSMがまだ広く認識されておらず、学校はもちろんSENCoでさえ知りませんでした。

そんな中、ネットの普及によって(当時はまだダイヤルアップ方式で接続に電話料金が必要でした)、全く面識のない人たちのサイトやブログから知識を得たり、助けてもらったことを本当に感謝しているのです。私のこのブログも、どこかで誰かの役に立つことがあったら嬉しいと思っています。

(蛇足ですが、「場面緘黙」に遭遇したブログのお子さんは、どういう訳か検診の時に突然ハイになってしまい、発達障害(ADHD)と診断されたとか…。あるASD児の母親のブログと彼女のブログが繋がっていたため、偶然発見することができたのです)

こうして、やっと判明した場面緘黙のことを知るために、まずはSMiRAの資料をプリントアウトし、SMiRAとレスター大学が出版した『Silent Children(日本版では『場面緘黙へのアプローチ』を購入。アメリカのSM支援サイトや日本の緘黙サイトを覗いたりしながら、息子の緘黙克服への支援が始まったのです。

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ブルガリア黒海沿岸の春休み(その5)

イギリスは5月から例年になく好天の日が続き、気温もぐんぐん上昇。7月は観測史上2番目の暑さだったとか。既に8月に入ってしまいましたが、やっと「春休み」の最終回です。

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ポメリエで朝を迎え、その日はバスで「黒海の真珠」と呼ばれる海辺の町、ネセバルへ行くことに。3千年以上の歴史を持つこの町は、黒海沿岸に突き出た小さな半島にあります。旧市街地は1983年にユネスコの世界遺産リストに登録され、古代都市の遺跡があちこちに残っています。

まずはホテルの朝食で腹ごしらえ

ホテルの近くにあるバス停に行くと、ネセバル行きのバスの本数はまばら。11時発のバスを待つ間、歩いて15分ほどの塩博物館まで足を伸ばしましたが、この日はお休み…(後で判ったのですが、シーズンオフなのでバスも少なく、町の殆どの博物館は休館)。仕方ないので、近所にあったスーパーを探索して時間を潰したのでした。

   

    塩博物館の建物。浅瀬に浮かぶ白いラインは何?と思ったら、白い鳥がずらりととまっていました

        キャラメルみたいなパッケージ入りのターキッシュデライトは、ひと箱約65円と激安!

小型バスでガタガタ道を走ってネセバルに着くと、人出が多くてやっと「観光地」という雰囲気に。まずは、旧市街へと繰り出しました。

ネセバルの入口。驚くほど青い空が広がってました

 

聖ステファン教会跡とビザンチン様式のパントフラトール教会

 19世紀の典型的な木造住宅。ランチのサメのフライは、割と淡白な味

   

帰りのバスまでちょっと時間があったので、ひとりで写真撮影に繰り出したところ、夫と息子に大声で呼び戻されました。時間前ですが、ポモリエ行きのバスが来たとのこと。「あれ、このバス大型だし、料金も少し安い???」と不思議に思ったら、それには訳がありました。ポモリエも突き出た小さな半島の先っちょにある町なんですが、このバスは町の入口までしか行かないんです。

   とぼとぼ40分ほど歩いて、ホテル(ピンクの建物)に到着。携帯のグーグルマップがあって、本当に助かりました

ところで、ポモリエで泊まったのSt Georgeは、スパホテルというふれこみ。ホテル内にプール、ジム&サウナ各種があり、宿泊客は無料で利用可能とのこと。サロンでは黒海で有名な泥パックを安価で体験できるというので、楽しみにしていたんです。

結構疲れたので、夜は主人と二人で無料スパ体験。が、ずーっとつけっぱなしになっていたためか、5種類あるサウナはどれも熱すぎ!このままだと倒れるかもと思い、頑張る主人を残して私は主に12m程度のプールでパチャパチャ。結局、ソルトルームが一番寛げました。

翌日は黒海沿岸のホリデー最終日。ホテルをチェックアウトする前に、泥パック(フェイシャル)に挑戦してみました。温かい泥をハケで顔にベタベタ塗られ、簡易ベッドに横になって待つこと20分あまり。「こんな真っ黒な泥どうやって取り除くのかな?」と思っていたら、「はい、そこのシャワーで流して」と。固まった泥を一生懸命自分で落として、トリートメントは終了。

愛想のないエステシャンは泥を塗ってくれた後いなくなっちゃうし、美容のプロという雰囲気とはほど遠く…。最後に化粧水と名産のバラのクリームくらいつけてくれよ~、と思いつつ、「まあ、この料金だったらこんなものかな」とスゴスゴ部屋に戻りました。泥パックの効果は――良くわかりませんでした…。

この日はあいにくの曇り空で、町はすっぽりと霧に包まれていました。とにかく町を歩いてみようということで、ぐるっと1周してみたのですが、博物館もみーんなお休み。結局、ホテル近くのレストランで長~いランチタイムを過ごしました。

  

海にも霧がかかってぼんやりした風景。右は夏季のポモリエの海岸

    暇だし、これで最後ということもあって、とにかく食べました~。「巨大イカゲソ」を注文したら、燻製でした

イギリスと比べると物価が半分くらいなので、ブルガリアではすごく得した気分でした。空港でミネラルウォーターを買ったら、町で買っていた値段の4倍近くになっていて、カルチャーショック(笑)。

こうして私たち家族の黒海沿岸のホリデーは終わりました。今でもあの誰もいない海を恋しく想い出します。

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イギリスの公立学校は7月21日頃から夏休みに突入しました。授業がないので時間がいっぱい取れるはずだったのに、急な仕事が入ってしまい毎日バタバタ。春休みはすでに遠い思い出--ですが、自分の記録のために続きを書いておくことにします。

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4月8日はブルガリアの復活祭の日曜日でした。朝食は前日きれいに塗ったゆで卵、甘いパンと果物。この日は午前中にアパートを後にして、友人家族は私たちをポモリエのホテルまで送ってから、ソフィアに戻る予定でした。途中、友人(奥さん)の想い出の地だというバニャ村のカフェでランチして、自然保護地区になっているイラクリの海岸で数時間過ごそうという計画。でも、計画通りにいかないのが旅の醍醐味ですよね。

早めに荷造りし、フラットの片付けや掃除を始めた我々をしり目に、10時過ぎてからシャワーを浴びるブルガリア友…ムムム。最後にもう一度海岸まで下りて海に別れを告げ、車に乗り込んだのは既に正午近く。

「国道沿いに、元村一番のハンサム君が経営するカフェがあるの。ランチはそこよ」

そう言われて楽しみにしてたんです。なのに、行ってみたら復活祭のためかお休み…。女の子の憧れの的だった彼は、すごい美女と結婚し、めっちゃ可愛い娘に恵まれたそう。でも、二人とも中年太りで昔の面影は薄れてしまったとのこと。「彼らの過去を証明してるのが娘よ!」、ということで興味津々だったのに、ああ残念。

ちなみに、ブルガリアの女性は金髪碧眼のヨーロッパ系から黒髪茶眼のアジア系まで、本当に美女が多いんです、友人曰く、「オスマントルコ帝国時代にハーレムで美女を集めた名残り」なんだとか。

仕方ないので、もう1軒あるという村の中の小さなカフェ&雑貨店へ。そこに着くなり、彼女は昔馴染みとの抱擁+キス+昔話の嵐!小さい頃、毎年この村で夏を過ごしていたから、村人はみんな彼女のことを知ってるんだそう。

とっても長閑な村ですが、日本と同じで廃墟がチラホラ…

雑貨店で食料品を買い込み、車でイラクリの海岸にたどり着いた時には、既に午後2時を回っていました。昔(社会主義国だったころですね)は小一時間もかけて村の友だちや家族と海岸まで歩いて行ったとか。途中、アーモンドの樹林があって、両手いっぱいのアーモンドを食べながら歩いたといいます――社会主義が崩壊してアーモンド林は荒れ放題になってしまい、もうその面影も残っていませんでした。

イラクリは黒海沿岸部でまだ観光化が進んでいない数少ない海岸のひとつ。無料のキャンプ場がある他は、自然のままの海が残されているということでした。が、この日浜辺ではモダンなコンドミアムとバーを建設中。こうやって、どんどん開発が進んで、静かな海がなくなっていくんですね…。

とても天気が良かったのですが、復活祭のためもあるのか人影はまばら。早速砂浜に座って、パンとハム、チーズ、村人にもらった復活祭のゆで卵と野菜でピクニックを楽しみました。ここでも友人のストールが敷物に早変わりし、彼女が常に持ち歩いている大きなナイフが大活躍。ブルガリアのキュウリとトマトは、本当に瑞々しくて元気いっぱいの味です。

ゆったりとした河が海に流れ込んでいます

河の畔にはガマの穂が群生。河に手作りの舟をうかべて

浜辺で見つけた流木のオブジェ

  写真(下)の真ん中にある黒い星型のものは菱の実です。砂浜を歩いていた時、足の裏に鋭く尖った角がぐっさり刺さって、激痛!

食後は海や海に合流する河で遊んだり、砂浜で見つけた小石や貝でオブジェを作ったり、お喋りしたり。あっという間に時間が経ち、5時になってしまいました。でも、そろそろ腰をあげようとする私たちを尻目に、頑固なブルガリア友(運転手君)は粘る、粘る。

みんな根負けして、「まあ、いっか」と誰もいなくなった海で再び羽を伸ばしました。結局、彼らの車でホテルに着いたのは9時近くで、子供が寝てしまったため、一緒に夕飯を食べることもままならず。彼らはそのままソフィアへと向かい、家に辿り着いたのは、午前1時過ぎだったそう。

ポモリエのホテル前のプロムナードから見た夕焼けがきれいでした

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2018年SMiRAコンファレンス(その7)

場面緘黙トーキングサークル―場面緘黙経験者による成人のためのサポート              SM Talking Circles- Peer support for adults with lived experience of SM

公演の最後は、緘黙経験者のジェーン・サラザーさん。何と45歳の時までずーっと緘黙だったんだそう! 5年かけて克服し、現在はTalking Circleというグループの代表として場面緘黙の成人たちを支援しています。

Talking Circleはその名前通り「話すためのサークル」です。同じ緘黙で苦しんでいる仲間が集り、お互いに助け合いながら一緒に克服していこうという趣旨。グループに加わって、気軽に参加して欲しいとのことでした。

ジェーンさんは1対1のセラピーでグループセッションを勧められて参加し、グループによる支援の効果を実感したといいます。不安を感じる状況で、普通に話すことがどんなに難しいか――それを理解し合える仲間同士なら、言葉に詰まっても、黙っていても気兼はいりません。

今やSNSの時代ですが、同じ問題を抱える人同士が顔を突き合わせて対話に挑むことの大切さ、人と接することの大切さを力説。とにかく、まずは人と繋がりを持つことが重要だと。長い間緘黙が続くと、人と接したり、コミュニケーションを持つ機会が少なくなるので、こういったグループの存在は本当に貴重だと思います。

それぞれの頑張りを見て、刺激し合えるという利点もありますよね。例えば、ひとりでダイエットに挑戦すると、どうしても甘えてしまいがちですが、グループに参加することで頑張れるのと同じように。

ジェーンさんは、2016年に地元のカンタベリーでこのグループを立ち上げ、最近南ロンドンでも新たなグループを開始したとか。機会があったら、是非一度のぞいてみたいなと思います。

堂々と明確な口調で話すジェーンさんは、とても45年間(?)緘黙だった人とは思えませんでした。そんなに長い、長い年月をどんなに苦しい思いで過ごしてきたのかと思うと、本当に胸が痛みます。ジェーンさんの努力と勇気に、会場からは暖かい拍手が沸き起こりました。

余談ですが、私のすぐ近くにSMの成人として2015年にBBCのドキュメンタリー(詳しくは『BBCが大人の場面緘黙を紹介』をご覧ください)に出演し、一昨年のコンファレンスでプレゼン(詳しくは『場面緘黙の成人、サブリーナさんのプレゼンテーション』をご覧ください)を行ったサブリーナさんと妹さんが座っていました。

最初に声をかけた時は、まだ緊張が強かったのかちょっと固い表情で会釈してくれました。それが、時間が経つにつれて表情がリラックスし、妹さんと内緒話も。実際に声を聞いた訳ではないですが、ランチタイムには多くの人に話しかけられ、笑顔で応えていたよう。

「皆が理解してくれる場」として、SMiRAコンファレンスに参加するSMのティーンや成人が増えています。参加したら話せるようになるという訳ではありませんが、当事者や保護者が勇気づけられる場所になっていることは確か。

SMの克服は長期戦で、人によって、また状況によっても回復のスピードはそれぞれ違います。焦らずマイペースに前進できるよう、トーキングサークルのようなグループが全国各地にできればいいなと思います。

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保護者そして教員の視点から見た場面緘黙 SM from a parent and teacher’s perspective

次の講演は、小学校の教員で緘黙児の母親、そしてSMiRA委員会メンバーでもあるクレア・ニールさん。彼女の娘さんは4歳の時に場面緘黙になり、12歳の現在も克服中だとか。小学校の現状や教師がおかれている立場を踏まえ、いかに学校と協力関係を築くかを語ってくれました。

娘さんについてはあまり触れなかったので、今緘黙症状がどの程度なのかは不明です。ただ、7歳の時引っ越しのため転校することになり、本人は「次の学校では話す」と強く決意していたものの、結局話すことはできなかったと(家族もですが、本人は相当ショックだったでしょう…)。

(みく注:転校や進学は子どもが話し始めるチャンスといわれます。成功率が高いのは、本人の「話せる」という自信や「話したい」気持ちが充実していているケース。「これまでずーっと黙っていたのに、今話し始めたら皆に変に思われる」という自意識から「今いる学校では、どうしても話せない」と強く思いこんでいる子が多いようです。

新しい学校では、話し始めるという課題だけでなく、新たな友人関係や先生たちとの関係の構築、新たな環境への適応も必要となってきます。新しいクラスに途中からは入っていくのは、SM児でなくても勇気がいりますよね?それを考えると、転校よりも皆が新しいスタートを切る進学の方が、チャレンジしやすいかもしれません。それでも、どんなクラスか、どんな先生か、初日がどうだったかに随分左右されると思います)

クレアさんによると、今小学校で何らかの問題を抱える子どもが増えているとのこと(私も5年ほど前に小学校でボランティアをしてみて、同じように感じました。35人のクラスのうち、10人弱がSEN(特別支援)リストに載っていてビックリ。でも、そのうち何らかの診断が下りている子は2人だけでした)。

それぞれの子どものニーズが異なる中、一番手がかかるのは行動に問題がある子です。席にじっと座っていられない、友達と問題をおこす、授業についていけない――こういった子どもの支援をするだけで、教師とTAは手いっぱい。クレアさん自身はSM児を受け持ったことはないそうですが、普通に授業についていければ、どうしても支援の優先順位が低くなってしまうと実感しているそう。

イギリスだったらキーワーカーがついて支援プログラムを実行してくれる、と思われるかもしれませんが、現実は厳しいです。学校側がいち早く場面緘黙を察知して、支援プログラムを用意してくれるケースもあるようですが、ほんの一握りの本当にラッキーな例にすぎません。

クレアさんのアドバイスは、「ひとりでもいいから子どものことを理解してくれる人を味方につける」こと。日本だと普通はTAがいないので、担任の先生が一番子どもに近い存在になるかと思います。忙しい担任にいかにアプローチするかは、とても難しいですよね。保護者も内向的な傾向が強い場合は、不安やストレスも大きいと思います。

イギリスの学校には必ずSENCo(特別支援教育コーディネーター)がいるので、相談することができますが、日本では教師と兼任というケースが多いと聞きます。でも、できるだけ多くの学校関係者に相談して、子どもの問題を理解してもらうことが必要不可欠だと強調していました。

もうひとつ、進学や転校の際は、なるべく早く進学先・転校先に連絡を入れ、できるだけ多くの教師や学校関係者に関わってもらうようにとのアドバイス。子どもが「言わないで」と主張しても、念のため手を打っておいた方がよさそうです。

なんらかの支援をお願いする時は、スケジュールと期限を決め、できるかどうか返事をもらうこと。というのも、忙しい教育現場ではイベントやハプニングも多く、時間が経つとうやむやになってしまいがち。できない場合は、他のできそうな方法を提案してみましょう。支援の効果をきちんと記録して、次の支援やステップを話し合ったり、提案したりしていくのも大切とのこと。

やはり、保護者が積極的に関わって、教師たちの動きを監視(?)しながら、一緒に子どもを支援していくことが大切だという結論でした。話し合いをした後も継続して関わっていかないと、途中で支援が止まってしまうことも…。緘黙治療は長期戦故に、保護者も途中でメゲずにマラソン感覚で頑張らなくては、ですね。

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